第115話 広くなりすぎた
「じゃあ、どこから見る?」
ヴィオラが、新しくできた通路へ一歩踏み出す。
「待て」
すぐにリゼが肩をつかんだ。
「まだ何もしてないよ?」
「今からするところだっただろう」
「扉を開けるだけ」
「昨日までなかった扉だぞ」
壁の動きは止まり、床も揺れていない。だからといって、安全だと決まったわけではない。
「扉の先が、見た目どおり隣の部屋とは限りません」
記録帳を持ったミネットが言った。
「ダンジョンみたいに?」
「その可能性も考えておくべきです」
「ここがダンジョンだと決まったわけじゃないけどな」
「はい」
「ならば、我が先に行けばよい」
「昨日も聞いた。一人で行くなって言っただろ」
「我に何かあるなら、そなたらが一緒でも同じではないか?」
「そうかもしれないけど、一人で行く理由にはならない」
ナーヴァが不満そうに鼻を鳴らした。それでも、勝手には進まなかった。
「まず全員で動く。一個ずつ開ける。変だと思ったら戻る。見つけた物も、いきなり使わない」
「我の炎は?」
「出さない」
「まだ何も言っておらぬ」
「先に言っておいた方がいいと思って」
ほかにも、荷物はまだ動かさない。用途を決めつけない。分からない場所へ一人で入らない。
確認することを決めてから、俺たちは入口側へ戻った。
◇
昨日まで外界への入口を開いていた場所へ近づくと、先に風が頬へ触れた。
「ここ、外になったの?」
ヴィオラが頭上を見上げる。
天井がない。正確には、天井らしいものが見当たらなかった。
明るい空のようなものが広がっている。でも、太陽も雲もない。外界の空と同じかは分からない。
外界へ通じる入口を開く場所は変わっていなかった。ただし、その周囲は部屋ではなく、壁に囲まれた小さな空間へ変わっている。
数人が立っても余裕があり、壁際には腰掛けと小さな卓がある。外から持ち込んだ物を一時的に置けそうな棚もあった。
その先には、高い壁と閉じた門がある。
「門の前?」
「以前の応対区画が、この形へ変化したように見えます」
ミネットが、入口から門までの距離を歩いて確かめる。
「外部入口と、その先の区域の間に、新しい境界ができています」
「入口を越えても、まだ家の中じゃないんだな」
外から誰かが入ってきても、すぐ住民の生活場所を見られずに済む。ここで一度立ち止まってもらえる。荷物を棚へ置き、腰掛けに座って話すこともできる。
「本当に、誰かを待つ場所みたいになったね」
「そう使えそうだというだけじゃ。用途まで決められたとは限らぬ」
門も、その両側へ続く壁も、石で造られているように見えた。壁の向こう側は見えない。
「守るための壁でしょうか」
「隠すためかもしれない」
リゼが門へ触れ、継ぎ目や蝶番らしき部分を確認した。
「少なくとも、入口と生活区域を区切ることはできる」
「丈夫?」
「見ただけでは分からない」
俺は拳で壁を軽く叩いた。硬い音が返ってくる。
「石?」
「石のような感触がすることと、外の石と同じ物であることは――」
ミネットが言いかけ、止まった。
「何?」
「いえ。今は材質まで調べられません」
「今の、言いたかった?」
「必要な区別ではあります」
門へ手をかける。重そうに見えたのに、力を込める前に動いた。
「夜斗さんだから開いたのでしょうか」
「分からない。あとで皆も試してみる?」
「先に向こうを確認してからじゃな」
開いた門の隙間から風が流れ込んだ。昨日感じた土の匂いも濃くなる。
俺たちは門を開き、全員で内側へ進んだ。
◇
「家が広がったっていうより、土地ごと増えてない?」
ヴィオラの言うとおりだった。
門の内側には、広い敷地がある。正面には、昨日まで見たことのない大きな建物が立っていた。
派手な城ではない。それでも、これまでの質素な生活空間と比べれば、十分に邸宅と呼べる大きさだった。
建物の周囲には道が続き、その外側には土のある土地と広場がある。敷地全体は、さっき通った門と同じ高い壁に囲まれていた。
「これが《淫獄》の端?」
「壁があることと、その先に空間がないことは同じではありません」
「越えて確認する?」
「今はやめよう」
ただの壁なのか、《淫獄》の領域そのものの境界なのかも分からない。
「上は?」
ヴィオラが、明るい空を指さす。
「飛べば分かる」
ナーヴァが言った。
「飛ぶなよ」
「まだ何もしておらぬ」
「今からしそうだった」
「そなたは我を何だと思っておる」
「飛べると思ってる」
「当然だ」
「だから、今日は飛ばないでくれ」
見えない天井や境界があったら危ない。
門から邸宅までの道と、建物の周囲を全員で確認する。隠れている者はいない。動く物も見当たらない。
土のある土地には、草も作物も生えていなかった。
「畑?」
「まだ土があるだけじゃ。作物が育つかは分からぬ。種も苗も、農具もない」
「でも、水の音はするよ」
「調べることが増えました」
ミネットだけは、少し嬉しそうだった。
「増えすぎじゃない?」
俺は邸宅を見上げた。昨日までなかった壁と門。その内側に、広い土地と大きな建物。
「そういえば、能力の表示を見てない」
「昨日も?」
「見てない。急に揺れて、壁が動き始めたから」
「今なら確認できるのか?」
「やってみる」
意識を《淫獄の王》へ向ける。表示された内容を、上から順に確かめる。
途中で、見覚えのある項目に目が止まった。
『固有スキル:《淫獄の王》 Lv.3』
「……三になってる」
「何が?」
「《淫獄の王》。Lv.3になってる」
「いつからですか?」
「分からない」
「昨日の変化が始まる前には確認しておらぬのか?」
「してない」
「では、いつLv.3になったのか分かりません」
ミネットは記録帳を開いた。
「全員が希望を口にした瞬間なのか、夜斗さんが場所を望んだ時なのか、その前から条件を満たしていたのかも確認できません」
「通知もなかった」
「以前はあったのか?」
「レベルが上がった時は、表示が出た」
「今回は見逃したのではないか?」
「それも分からない。でも、少なくとも昨日は気づかなかった」
「また、表示されなかったことを記録する必要があるのう」
「今回は、レベルアップの通知なし?」
「通知を確認できず、じゃな。なかったとまでは断定できぬ」
「細かい」
「記録とは、そういうものじゃ」
Lv.3になったことだけは分かった。いつ、何を満たして変わったのかは分からない。
「これ、Lv.3になったから広がったのかな」
「順番も確認できていません」
ミネットが答える。
「Lv.3になった結果として空間が変化したのか、空間の変化を現在のLv.3と表示しているのかも不明です」
システムは嘘をついていないのかもしれない。でも、やっぱり全部を教えてくれるわけではなかった。
◇
邸宅の玄関を開くと、広い通路が続いていた。左右には、いくつもの扉が並んでいる。
最初の部屋には何もなかった。壁と床があり、明るさと空気もある。寝所として使えそうな広さだが、寝台も棚もない。
「部屋は増えたけど、全部揃ってるわけじゃないな」
「それでも、誰かの寝所を移さずに使える場所があります」
「ここ、私の部屋にしていい?」
ヴィオラが真っ先に手を挙げた。
「もう決めるの?」
「早い方が好きな場所を取れるでしょ」
「全員の希望を聞いてからだ」
「じゃあ、予約」
「予約も待て」
廊下の先にも似た部屋がいくつかあった。ただし、誰の部屋とも表示されていない。
ミネットは毎日ここで暮らすと決めていない。セリナも今は不在だ。本人へ聞かずに部屋を決める必要はない。
「我は要らぬぞ」
ナーヴァが空室を一目見て言った。
「じゃあ、ナーヴァの分だけ決まったな」
「決まっておらぬ。ここが狭いと言っただけだ」
「広い場所を見てから?」
「当然であろう」
◇
次に見つけた部屋は、ほかとは明らかに違っていた。
扉が少し低い。人が入れないほどではないが、内部の物はどれも床に近い位置へ作られている。
柔らかそうな大きな寝床。小さな段差が続く遊び場のような場所。明るい場所と日陰になった場所。低い棚。身体を隠せそうな窪み。浅い水場まである。
奥には、庭へ出られそうな小さな通路が続いていた。
「何、この部屋」
「人間が使うには低すぎる物が多いです」
「これ、縁のためにできたのか?」
俺が言うと、ミネットが振り返った。
「縁?」
「名前」
「どなたのですか?」
「たぶん、この部屋を使う奴」
「たぶん?」
小さな通路も、低い棚も、隠れられる場所も、縁が使うところを想像しやすかった。
「そう見えることと、縁のために作られたことは別です」
「確かに」
その時、入口の方で小さな音がした。
廊下に、縁がいた。
「……この子は?」
「縁」
「名前ですか?」
「俺たちはそう呼んでる」
縁も足を止め、ミネットを見ている。
ミネットは記録帳を閉じた。すぐに書き始めず、縁の姿をじっと確かめる。
「使い魔になる生物です」
「分かるの?」
「はい。学校でも、使い魔との契約が可能な生物について学びます。実物を見るのは初めてですが、教わった特徴と一致しています」
「じゃあ、縁は使い魔なの?」
「いいえ。使い魔になれることと、誰かの使い魔であることは別です」
「契約してないから?」
「はい。契約して初めて、特定の魔法使いの使い魔になります」
「夜斗さんが契約しているのですか?」
「してない」
「では、今は誰の使い魔でもないのですね」
「たぶん」
「契約の有無なら、魔力のつながりを確認すれば分かります。少なくとも、今の縁から夜斗さんへ続く契約の反応は感じません」
ミネットは、縁へ手を伸ばさなかった。
「触らないの?」
「縁が、私に触れられたいか分かりません」
「使い魔、欲しいんじゃなかった?」
「欲しいです」
ミネットは即答した。
「ですが、使い魔になれる生物を見つけたことと、その相手が私との契約を望むことは別です」
縁が、ゆっくり部屋へ入ってくる。ミネットの前で一度止まり、匂いを確かめるように顔を近づけた。
ミネットは動かずに待つ。
やがて縁は、ミネットの記録帳へ鼻先を近づけた。
「これは、私の記録帳です」
「説明して分かる?」
「分からなくても、勝手に触れるよりはよいと思います」
縁は革紐の端を少し嗅いだ。それからミネットの足元を一周し、何事もなかったように離れていく。
「嫌われなかった?」
「まだ分かりません」
そう言いながら、ミネットは縁の後ろ姿を目で追っていた。
興味はある。使い魔への憧れもある。それでも、縁が自分から選んでいないことまで先に決めようとはしなかった。
当の縁は、部屋の中を歩き回っていた。
柔らかそうな寝床を嗅ぎ、小さな段差へ上り、浅い水場を覗く。日向に見える場所を一度通り過ぎ、最後に低い棚の下へ置かれた地味な箱へ入った。
箱の中で身体を丸める。
「そこ選ぶの?」
豪華に見える寝床も、遊び場も使わない。ただの箱に収まって、落ち着いている。
「あれだけ用意したのに?」
「縁が落ち着くなら、そこが一番なのでしょう」
ファステが言った。
「ほかの物、要らなかった?」
「一度使わなかっただけでは分かりません。しばらく、縁自身が何を使うか確認した方がよいと思います」
「使わない物は、後から移せばよかろう」
《淫獄》は、縁が喜びそうな物を全部並べたように見える。でも、何を使うかを決めたのは縁だった。
豪華な寝床より、隅にある箱の方が、今は縁の居場所らしく見えた。
◇
次に見つけたのは、中央に大きな卓が置かれた部屋だった。全員が座っても余裕がある。
「食事をする場所でしょうか」
ファステが隣の扉を確かめる。その先には、台と棚、洗い場らしき設備があった。
「こっちは調理場?」
「そのように使えそうです」
食事をする場所と、料理を作る場所が分かれている。誰かが記録や材料を片づけるまで、食事を待つ必要もない。
「でも、食材は増えてないな」
棚の中は空だった。調理器具も、今まで使っていた物を運ぶ必要がある。
「場所を用意しただけ?」
「それだけでも、十分助かります」
ファステは洗い場の前へ立った。
「ここから水が出るのでしょうか」
水の出口らしき物はある。俺が触れて、水が出るところを想像した。
次の瞬間、透明な水が流れ始める。
「出た」
「止められますか?」
水が止まるように意識すると、流れはすぐに止まった。もう一度試すと、また出る。
ファステが容器へ少量を受けた。見た目に濁りはない。変な匂いもしない。
「飲める?」
「見た目と匂いだけでは判断できません」
ミネットが容器を覗き込む。
「普通の水に見えますが、最初から飲用できるとは断定できません」
「でも、水運びは減るかもしれないんだよな」
「安全を確認できれば、そうなります」
俺がもう一度、少量の水を洗い場へ流した。水は底に溜まらず、穴の先へ消えていく。
「排水もできる」
「それなら、前の汚水もここへ――」
「それは別です」
ミネットがすぐに止めた。
「普通の水が排水されたことと、危険な汚染物を処理できることは別です」
「……今のは分かりやすい」
グールの汚れが混じった水まで、同じように流してよいとは限らない。どこへ流れているのかも、どう処理されるのかも分からない。
「ただ、生成した水をそのまま排水できることは確認できました」
できることが一つ分かった。できないと決まっていないことは、まだ試さない。
◇
厨房の近くには、身体を洗うためと思われる区画もあった。水を出す設備と、排水する場所がある。
「これなら、外から戻った後に身体を洗えますね」
ファステの表情が明るくなる。
「装備を洗う場所は分けたい」
リゼは別の洗い場へ目を向けた。
「普通の土や汗と、正体の分からない物が付いた装備を一緒には扱えない」
さらに進むと、出入口に近い場所へ広い空室があった。
「ここなら装備を置けそうだ」
「棚はないけど」
「必要な物は後から入れればいい。生活場所へ持ち込む前に、状態を確かめる場所にもできる」
別の二部屋では、レイナとミネットが足を止めた。
「ここなら、途中の物を置いたままにできます」
レイナが室内の明るさを確認する。
「ですが、材料を置く棚と作業台が必要です」
隣では、ミネットが壁と空気を確かめていた。
「資料を置く場合は、湿気と明るさを継続して確認したいです」
「片方を工房、片方を資料室にする?」
「まだ候補です」
「遊ぶ部屋は?」
「すべてを資料で埋めるとは言っておらぬ」
「じゃあ、一緒に使う?」
「札と資料を同じ卓へ広げるつもりか?」
「今までやってたよ」
「それを分けるための場所であろう」
部屋が増えたのに、使い方を考えるだけで話し合いが必要になりそうだった。
◇
邸宅の裏側にある扉から、再び敷地へ出た。こちらには、まとまった土の土地がある。
「菜園にできるでしょうか」
「何か植えてみないと分からない」
「種も農具も必要じゃな」
土があるだけで、食料が勝手に生えてくるわけではない。
「ここならよい」
ナーヴァが、土の土地から少し離れた広場へ進んだ。
「何が?」
「我が戻る」
「本当に?」
「そのための広さであろう」
リゼが全員を建物の近くまで下がらせる。
俺たちが十分に離れたことを確認してから、ナーヴァが姿を変えた。
人の形が大きく膨らむ。赤黒い鱗。巨大な四肢。長い尾。頭上へ伸びる角。
翼が開く。
邸宅へは触れない。周囲の壁にも届かなかった。
「入った……」
『当然だ』
低い声が、広場全体へ響く。
ミネットは、記録帳を持ったまま動かなくなっていた。
「ミネット?」
「……ナーヴァさんは、竜だったのですか?」
『何に見える』
「竜です」
「本人が見せるまで、俺たちからは話さないことにしてた」
「では、今は本人の意思で見せたのですね」
『我が姿を戻しただけだ』
ナーヴァはミネットへ正体を明かすために変身したわけではない。それでも、隠すつもりもないらしい。
「飛べる?」
ヴィオラが聞いた。
『試してみるか?』
「今日はやめろ」
『なぜだ』
「上に何があるか分からないからだよ」
明るい空のように見えても、本当にどこまでも続いているとは限らない。
『ならば、翼を動かすだけにしておく』
「弱くな」
ナーヴァが翼を一度動かした。
風が広場を走る。土の土地から細かな土が舞い上がり、俺たちの方まで飛んできた。
「弱くって言っただろ!」
『弱くした』
「これで?」
「強く羽ばたくな」
リゼがナーヴァを見上げる。
『飛んではおらぬ』
「飛ばなければいいって話じゃない」
ナーヴァは不満そうだったが、二度目は動かさなかった。
広くなった最初の日に、掃除する場所まで増えた。
◇
邸宅へ戻り、確認できたことを千代とミネットが整理した。
入口の前には応対用の空間があり、壁と門の先に邸宅と広い敷地がある。
暮らす場所は増えた。水も土も竜へ戻れる広さもある。ただし、安全性や使い道は、これから一つずつ確かめなければならない。
「広くなったけど、分からないことも増えたな」
「使える可能性が増えたからです」
ミネットが記録帳へ書き加える。
「縁の部屋は?」
ヴィオラが聞く。
「まだ決めない」
「もう寝てたよ?」
「縁が何を使うか、もう少し見てから決める」
「その方がよいと思います」
ファステが頷いた。
「普通の部屋は決めていい?」
「全員の希望を確認してからだ」
「まだ駄目か」
「今日見つけたばかりじゃろう」
セリナが戻った時も、ミネットが泊まりたい時も、今なら選べる場所がある。
「明日から、何をする?」
俺が聞くと、全員がほとんど同時に答えた。
「厨房の確認です」
「装備を移す」
「作業台が必要です」
「まず記録を整えるべきじゃ」
「遊ぶ部屋を決める」
「もう一度、広さを確かめる」
「水の確認を続けます」
「増えたの、場所だけじゃないな」
やることまで増えている。
最初は、俺一人が逃げ込めればよかった。
今は、門がある。壁がある。
その内側には、皆が暮らす邸宅と、それぞれの望みに使える場所がある。
門の外にも、誰かを迎えて話せるだけの空間が残されていた。
《淫獄》は、もう一つの部屋ではない。
家というだけでも足りない。
一つの小さな領地になり始めていた。
場所が足りないと思った翌日、場所は増えた。
その代わり、どこから手をつけるか分からないくらい、暮らしの続きも増えていた。




