第114話 場所が足りない
ミネットが学校から戻ってきた時、両腕には三冊の本が抱えられていた。
「また増えたな」
「すべて借りた物ではありません。こちらは私の記録帳です」
「三冊あるけど」
「記録帳が二冊と、借りた資料が一冊です」
「記録帳も増えてる」
「調べる内容が増えましたから」
ミネットは入口近くの棚へ本を置こうとした。しかし、空いている場所がない。
棚の上には外出時に使う小物や《帰還目印》が置かれ、その下には持ち出し用の袋が畳まれている。端には千代の記録をまとめた束まで積まれていた。
「少し待ってください」
ファステが棚へ近づき、袋をいくつか取り出した。
「こちらを調理場へ移せば置けると思います」
「でも、それはファステが使う物だろ?」
「すぐには使いませんから」
「明日の朝に使う予定ではなかったか?」
千代に聞かれ、ファステの手が止まる。
「……では、食事が終わるまで、別の場所へ置きます」
「その別の場所って、どこ?」
俺が聞くと、ファステは共用場所の隅を見た。そこにはレイナの繊維と、ヴィオラの遊び道具が置かれている。
「私の材料なら片づけます」
レイナが立ち上がった。
「でも、まだ作業の途中じゃない?」
「また使う時に出せばいいですから」
「昨日も出して、片づけてなかった?」
「はい。食事の前に片づけて、食事が終わってから出しました」
「一昨日も?」
「……はい」
毎回やっていたらしい。俺が気づいていなかっただけで。
「じゃあ、ヴィオラのこれは?」
「今から使うやつ。でも、本を置くなら今日はやめてもいいよ」
「まだ何も言ってないけど」
「置くところがないんでしょ?」
ミネットが抱えている本は三冊だけだ。それを置くために、ファステが明日使う物を移し、レイナが作業をやめ、ヴィオラが遊び道具を片づけようとしている。
「今まで、どうしてた?」
「どうしてたって?」
「物を置く場所」
「空いたところに置いてたよ」
「空いてなかったら?」
「誰かがどかす」
「誰が?」
「空けられる人」
答えになっているようで、なっていない。
共用場所を見回す。食事をする時も、話し合う時も同じ場所へ集まる。レイナが作業する時は材料を広げ、千代が記録を確認する時は紙を並べ、ヴィオラが遊ぶ時にも使う。ミネットが資料を読む時も、たぶん同じ場所だ。
「一個の場所で、全部やってない?」
「ほかに広く使える場所がありませんから」
「調理する場所はあるよな?」
「あります。ただ、料理を並べる場所と、皆さんが食べる場所は近い方が便利ですので」
「近いというか、ほぼ同じじゃない?」
「これまでは、それで足りていました」
「今は?」
ファステは答える前に周囲を見た。
「少し、狭くなりました」
◇
狭くなったのは、《淫獄》が縮んだからではない。
暮らす人が増えた。持ち物が増えた。中でやることも増えた。
外へ出る準備をする者がいて、帰ってきた物を分けて置く必要もある。学校の資料を持ち帰る者がいて、調べた内容を皆で確認することもある。
入口付近には、外から誰かを迎えるためのような区画までできた。でも、普段の生活に使う場所は、ほとんど変わっていない。
「リゼの装備は?」
「奥に置いてある」
「邪魔になってない?」
「ならないように置いている」
「どうやって?」
「使わない装備を重ねて、必要な物を手前に置く」
「下の物が必要になったら?」
「上をどかす」
「どこへ?」
「……ここだな」
リゼが共用場所を指した。
装備の手入れをする時は床へ布を敷く。汚れが残っている可能性のある物は、生活用品へ触れないよう離す。その間、レイナは作業を広げられず、千代も記録を並べられない。食事の時間になれば、途中でも片づける。
「困ってた?」
「使えないわけではない」
「困ってない?」
「手間ではある」
「それ、困ってる方じゃない?」
「我慢できる範囲だ」
我慢できる。それは、足りているという意味ではなかった。
今まで使えていたんじゃない。皆が少しずつ譲っていただけだ。
「千代の記録も、棚に全部あるの?」
「一部は寝所へ置いておる」
「寝るところに?」
「ほかに置けば邪魔になるからの」
「言ってくれればよかったのに」
「急ぎではなかった。ほかに優先すべきことが多かっただけじゃ」
汚水。地下入口。食料。外出。帰還方法。ミネットを迎える準備。
確かに、すぐ対処しなければならない問題は多かった。場所が狭いだけなら、今日も暮らせる。明日も、たぶん暮らせる。でも、誰かが毎日少しずつ片づけ、移動し、譲り続けなければならない。
「レイナは、どんな場所があれば楽?」
「私ですか?」
「作業する場所。できるかどうかじゃなくて、欲しい場所」
レイナは困ったように、自分の材料を見た。
「途中の物を、そのまま置いておける場所があれば……続きを始めやすいと思います」
「それが欲しい?」
「許されるのであれば」
「誰の許可がいるの?」
レイナは答えず、俺を見た。また俺か。
「俺が聞いたんだから、言っていい」
「では、欲しいです」
小さな声だったが、今度ははっきり聞こえた。
「ファステは?」
「私は、皆さんが食事をする場所と、調理する場所を分けられれば助かります」
「今まで困ってないって言ってなかった?」
「少し狭くなった、と申し上げました」
「遠慮してた?」
「使えてはいましたから」
「それは別です」
ミネットが言った。全員の視線が集まる。
「使用できることと、無理なく使えることは別です」
「出た」
ヴィオラが笑った。
「何がですか?」
「それは別です」
声まで少し似せている。
「必要な区別だと思います」
「別です」
「真似をしないでください」
「それも別?」
「同じ話です」
ミネットは少しだけ眉を寄せた。狭さの話をしていたはずなのに、少しだけ空気が軽くなる。
「リゼは、装備を置く場所?」
「できれば手入れも同じ場所でやりたい。外から戻った直後の物を、生活する場所へ持ち込みたくないからな」
「汚れを分ける場所か」
「ああ」
「千代は?」
「記録を置き、皆で確かめられる場所があるとよい。話し合いも、食事の支度を邪魔せずにできる」
「ヴィオラは?」
「遊ぶ場所」
「即答だな」
「必要でしょ?」
「必要なの?」
「休む場所が必要なら、遊ぶ場所も必要。それは別です」
「使い方が違う」
ミネットがすぐ訂正した。
「便利だな、これ」
「便利さで使う言葉ではありません」
「でも、遊び道具を毎回片づけなくていい場所は欲しい?」
「欲しい」
そこは真面目に答えた。
「ミネットは?」
「共用できる資料保管場所があると助かります。私物と借りた資料を分け、必要な時に確認できる場所です」
「自分の部屋じゃなくていいの?」
「私は、毎日ここで暮らすと決めたわけではありません」
ミネットは今も学校へ通っている。授業があり、実習があり、学校側で使っている生活場所もある。
「ですが、こちらへ戻るたびに誰かの場所を借りなければならない状態では、自由に調べることは難しいです」
「戻っても、いていい場所がないみたいになる?」
「そこまで強くは感じていません。ただ、毎回ほかの方へ片づけていただく状態は望みません」
「じゃあ、ミネットが使っても、ほかの誰かが使ってもいい場所」
「はい」
ミネットは毎日ここにいるとは限らない。
だからといって、戻ってきた時だけ空いている場所を探せばいいわけでもない。
「ナーヴァは?」
「広さだ」
「今も人型なら足りてない?」
「我がこの姿で窮屈だと言えば、そなたらは壁へ埋まるぞ」
「じゃあ足りてる?」
「我は竜だ」
「ここで戻るつもり?」
「戻れぬ場所を、十分な広さとは呼ばぬ」
人型で暮らせているから問題ないと思っていた。でも、それはナーヴァが《淫獄》に合わせて人型でいるだけだ。
「竜に戻れるくらいの場所が欲しい?」
「すべてを我に合わせろとは言わぬ。だが、翼も広げられぬ場所ばかりでは困る」
「翼だけで済む?」
「試せば分かる」
「今はやめよう」
「ならば、広くなってから試す」
広くなることを、もう決まったことのように言っている。
「部屋を増やせばいいのかな」
「増やせるのか?」
「分からない」
「では、なぜ聞いた」
「欲しいものが分からないと、増やせるか試せないだろ」
《淫獄》は、俺が必要だと思った物だけに反応してきたわけではない。住民たちの望みに応じたように変化したこともある。
だから、まず聞く。誰が、何を必要としているのか。
「セリナが帰ってきたら、どうする?」
俺が言うと、少しだけ沈黙が落ちた。
セリナは今も外を旅している。戻る日は決まっていない。戻るかどうかも、本人が決める。
「空いている寝所を使っていただくことはできます」
ファステが答えた。
「今、空いてる?」
「皆さんで調整すれば」
「また調整するの?」
「それは……」
誰かが移る。誰かが物を片づける。誰かが少し狭い方を選ぶ。
そうすれば、セリナ一人くらいは迎えられる。でも、それは場所があるんじゃない。場所を作るために、誰かが譲るということだ。
「セリナの部屋を今から決める必要はないと思う」
「本人がいないからな」
リゼが頷く。
「でも、帰ってきた時に誰かを追い出さないと寝られないのは嫌だ」
「追い出すとは大げさではないか?」
「ナーヴァの場所へ入れる?」
「我が使ってよいと言えばよい」
「それが譲ってるってことだよ」
「我は困らぬ」
「ナーヴァが困るかどうかと、毎回ナーヴァに頼ることは――」
「別です」
今度は俺が言っていた。ミネットがこちらを見る。
「……合ってる?」
「はい。今の使い方は合っています」
「認められた」
「何の話をしておる」
千代に戻された。
皆が困らないように、皆が譲る。それは悪いことではない。でも、譲り続けなければ成り立たないなら、足りているとは言えない。
「俺、今まで使えてると思ってた」
「実際に使ってはおる」
「うん。でも、皆が譲ってただけだった」
ファステが片づける。レイナが作業を止める。リゼが装備を重ねる。千代が記録を寝所へ運ぶ。ヴィオラが遊ぶのをやめる。ミネットが戻るたび、誰かが場所を空ける。ナーヴァが人型でいる。セリナが帰れば、また誰かが動く。
「誰かが我慢すれば使える場所じゃなくて、全員が普通に使える場所が欲しい」
口に出した瞬間、自分の望みだと分かった。
俺一人が逃げ込むための場所なら、最初のままでも足りていた。今は違う。
皆が暮らしている。外へ出る者がいる。戻ってくる者がいる。調べる者も、作る者も、休む者もいる。
「私は、調理する場所と、皆さんが落ち着いて食事をする場所が欲しいです」
ファステが、今度は遠慮せずに言った。
「装備と生活場所を分けたい」
リゼが続く。
「私は、作業を途中のまま置いておける場所が欲しいです」
「記録を保管し、皆で確認できる場所じゃな」
「遊ぶ場所。あと、皆が遊びたくなった時に集まれる場所」
「我が本来の姿へ戻れる広さだ」
「共有できる資料の保管場所と、確認するための机が必要です」
一人ずつ、欲しい場所を口にする。誰も、俺のためだけに言っているわけではない。自分がここでどう過ごしたいのかを、自分で選んでいる。
全員が自分の欲しい場所を言い終えた直後、足元が揺れた。
地震のような激しさではない。灰色の床へ、細い線が走る。
「下がれ」
リゼが俺とミネットの前へ出た。
床の線は所持品や人を避けるように伸び、壁へ届く。置かれていた棚が倒れる前に、その周囲だけ床の動きが止まった。
「壁が動いてる」
ヴィオラが声を上げる。
これまで近くにあった壁が、音もなく遠ざかっていく。空いた場所へ新しい床が続く。奥になかったはずの通路が生まれ、その左右へ扉が並び始めた。
「皆、怪我は?」
ファステが確認する。
「ない」
「私も大丈夫です」
「我を何だと思っておる」
「ナーヴァ様もです」
「問題ない」
入口近くの仕切りも形を変えていた。外から入った者をすぐ生活場所へ通さずに済む程度だった区画が広がり、内側との境界が前よりはっきりしていく。
「《淫獄》が広がっておるのか?」
「たぶん」
「内部だけ?」
「分からない」
「外側から確認する必要があります」
「今は待て」
外へ出ようとしたミネットを、リゼが止めた。
「変化が終わったか分からない」
「はい」
ミネットは素直に足を止めたが、目だけは周囲を追っている。
やがて、壁の動きが止まった。
静かになる。でも、以前と同じ静けさではなかった。
新しくできた通路の奥から、かすかな水音が聞こえる。
「水?」
レイナが耳を澄ませた。
「そのようですね」
どこかから、風も流れてきた。閉じた空間の中にいるはずなのに、土の匂いが混ざっている。
ナーヴァが鼻を動かし、通路の先を見た。
「広くはなったようだな」
「まだ見てないだろ」
「匂いが増えた」
「何の?」
「水と、土だ」
俺たちの前には、今までなかった通路が伸びている。左右には新しい扉。奥からは水音と風。さらに先には、土の匂い。
「どこから見る?」
ヴィオラが楽しそうに聞く。
「待て。まず危険がないか確かめる」
「全部見てからでもよくない?」
「危険があったら困るだろ」
「我が先に行けばよい」
「一人で行くな」
「なぜだ」
「何があるか分からないから」
「ならば我が適任であろう」
「またその話になるぞ」
ナーヴァが不満そうに腕を組む。その隣で、ミネットはすでに記録帳を開いていた。
「変化前の広さを、正確に測っていません」
「今それ?」
「比較に必要です」
「もう戻せないよな?」
「おそらく」
「じゃあ、測れない?」
「記録と記憶から推定します。ただし推定値として分けます」
「それは別?」
「その使い方は少し違います」
場所が足りないと思った直後に、《淫獄》は広がった。
俺が望んだからなのか、皆の望みが重なったからなのか。それとも、別の理由があったのかは分からない。新しい扉の向こうに何があるのかも、まだ分からない。
分かるのは一つだけだった。
皆が少しずつ譲って使っていた場所は、もう同じ広さではなかった。




