第113話 帰るための目印
「次は、いつ来ればよいですか?」
《淫獄》で調べたことをまとめ終えたミネットが、記録帳を閉じた。
「また学校まで迎えに行けばいい?」
「その方法しかないのであれば、お願いします」
「ミネットさんにも、《帰還目印》を用意してはいかがでしょう」
ファステが言った。
「帰還目印?」
「外へ出た住民が戻りたい時に使う物です」
「それがあれば、一人で《淫獄》へ帰れるのですか?」
「いや、そこまで便利じゃない」
俺は、《帰還目印》について説明した。
普通の小物を登録できる。登録した住民が持った状態で、登録接続地点の一定範囲へ入ると、俺へ反応が届く。
ただし、入口が自動で開くわけではない。誰がどこにいるのか、正確な位置も分からない。話もできない。怪我をしているか、誰かに追われているかも分からない。最後は俺が入口を開く必要がある。
「帰還する道具ではなく、帰りたい住民が近くにいると知らせる物ですね」
「うん。呼び鈴みたいなもの」
「では、《帰還目印》という名前も、正確ではない可能性があります」
「そこから?」
「それだけでは帰還できないのでしょう?」
「帰るために使ってるから、帰還目印でいいんだよ」
「持つことは決まりなのですか?」
「違う。持ってるから帰ってこい、って意味じゃない。外へ出る時に持たないと駄目って決まりでもない」
「追跡は?」
「できない。反応が来るのは入口の近くだけだし、どこにいるかも分からない」
「では、私が帰りたい時に、入口を開いてもらうための物ですか?」
「そう」
ミネットは少し考えた。
「それなら、持ちたいです」
◇
外出用の棚の近くに、皆が自分の《帰還目印》を持って集まった。
ファステは布製の針入れ。リゼは古い装備から外した金属留め。レイナは自分で作った繊維製の髪飾り。千代は深紅の結び飾り。ヴィオラは賭けに使わないコイン。ナーヴァは赤黒い小石。
「同じ形ではないのですね」
「本人が、普段持っていたい物を選びましたから」
「我の物が最も壊れにくい」
ナーヴァが小石を見せた。
「持ってて楽しいかは別だけどね」
「帰るための物に楽しさが要るのか?」
「毎日持つなら、あった方がいいでしょ」
「不要だ」
「ナーヴァは、その石を気に入ってるんじゃないの?」
「これが適しておるだけだ」
否定する割に、手放す様子はない。
「選ぶ際に、共通する条件はありますか?」
「持ち歩きやすいくらい?」
「落とさないことも重要です」
リゼが自分の金属留めを示した。
「誰かに貸す物も避けた方がいいだろうな。外部者が持っても反応しないらしいが、本人が持っていなければ意味がない」
「壊れた場合は?」
「試してない」
「濡れた場合は?」
「それも」
「登録した後で、別の物へ変えられますか?」
「複数は作れる。でも、解除とか上書きの細かいところは分からない」
ミネットが黙り込んだ。
「目印を一個決めるだけだよな?」
「外で失えば、帰還反応を正しく使えなくなるのでしょう?」
「そうだけど」
「考えるべきことを考えておるだけじゃ」
千代はミネットの側だった。
「学校で持っていても不自然ではなく、毎日使う物。学校の備品ではなく、私個人の所有物。実習中に失いにくく、汚れても手入れができる。他人へ貸す可能性も低い物がよいと思います」
「もう決まってない?」
「記録帳を使います」
ミネットは鞄から、いつもの記録帳を取り出した。
「本ごと?」
「いいえ」
開いたページの間から、細い革紐を抜く。端に、簡素な結び目が作られていた。
「栞?」
「正確には、記録帳に挟んでいる目印です」
「目印を、目印にするんだ」
「用途が増えるだけです」
革紐なら、記録帳と一緒に毎日持ち歩く。学校の備品でもない。誰かへ貸すこともほとんどなく、なくなればすぐに気づける。
「本当にこれでいい?」
「はい。私が、自分で持っていたい物です」
俺はミネットから革紐を受け取り、《淫獄》へ意識を向け、目印として登録する。
『《帰還目印》を設定しました』
表示を確認してから、革紐を返した。
「何か変わりましたか?」
「見た目は同じ」
ミネットも両側から革紐を確認する。
「触れた感覚も変わりません」
「でも、登録はできた」
「これで学校からでも呼べますか?」
「たぶん無理。登録した入口の近くまで行かないと反応しない」
「では、学校からどこへ向かえばよいかは、別に覚える必要があります」
「道案内もしてくれないからな」
「便利ですが、できることは限られているのですね」
「便利すぎないんだ」
「できることが限られている方が、扱いは決めやすいです」
◇
せっかく登録したので、動くかどうかを一度だけ確認することになった。
俺とミネットとリゼで外へ出た。人目がないことを確認してから、どこまで離れ、どの道を通って戻るかを決める。
反応が届いても、入口を開く前に外を確認する。それだけはリゼと先に決めた。
今回は試験なので、ミネットが一人で戻ってくる時刻も、おおよその場所も分かっている。
俺とリゼが先に《淫獄》へ戻った。
ミネットは革紐を挟んだ記録帳を持ち、決めた経路を通って一度範囲外へ離れる。
あとは待つだけだった。
「まだ?」
「今入ったばかりだ」
リゼに止められる。
「反応がない?」
「ない」
「なら、待て」
分かっている。でも、外の様子が見えないのは落ち着かない。
しばらく待つと、意識の端に小さな反応が届いた。
「あ」
「来たか?」
「たぶん、ミネット」
「名前は分かるのか?」
「今回はミネットしか試してないから」
「では、通常使用時に誰かまで分かるとは限らないな」
また分からないことが増えた。
リゼと一緒に外へ出て、安全を確認する。
決めた場所の近くに、ミネットが一人で立っていた。周囲に怪しい人影がいないことを確認してから、俺は《淫獄》への入口を開いた。
入口が開いても、ミネットの身体は動かない。自動で引き込まれることもない。
ミネットは外から中を確かめ、自分で境界を越えた。
「反応は届きましたか?」
「届いた」
「では、目印としては使えます」
「帰れた?」
「入口を開いてもらい、自分で入りました」
「細かいな」
「自動で帰還したわけではありませんから」
入口が開いても、入るかどうかは本人が決める。
ミネットは、反応が届いたことと、開く前に俺が外を確認したことを記録する。
「呼び鈴という説明が一番近いですね」
「帰還目印のままでいい?」
「すでに皆さんがそう呼んでいるのであれば、今は変更する必要はないと思います」
「今は?」
「より正確な名前が必要になれば、その時に考えます」
◇
確認を終えたミネットは、革紐を記録帳へ戻した。
首へ掛けたり、特別な装備へ付けたりはしない。いつもどおり、続きを書くページへ挟む。
記録帳を閉じると、結び目のある端だけが少し外へ出た。
「それなら、学校でも持っていられますね」
ファステが言った。
「はい。調べたいことを書いた場所も、帰りたい場所も、忘れにくくなります」
「これで、一人でも帰れるな」
ミネットは少し考えた。
「帰り始めることはできます」
「最後までは言わないんだ」
「最後は夜斗さんが入口を開くのでしょう?」
「そうだけど」
ミネットの記録帳から、細い革紐が覗いている。
それは帰る扉の鍵ではない。
ただ、自分が帰りたいと決めた時、そのことを知らせるための目印だった。




