第106話 終わった話の続き
「これが、学校へ持っていった分じゃな」
千代が、小さな容器の横へ印を置いた。
「元の水には戻してない」
「封も、その時から開けておらぬな?」
「開けてない」
「外側は?」
レイナが手袋をつけたまま、容器を少し離れた位置から確かめる。
「目立った汚れはありませんわ。漏れた跡もないと思います」
「思います?」
「見える範囲では、ですわ」
「最近、皆が断言しなくなったな」
「できないことを断言するよりよい」
リゼは、汚水を入れた容器が運搬用の箱の中で動かないよう、布と紐の位置を調整していた。
元の汚水。学校へ持参した少量試料。身体や装備を拭いた布。汚染物の保管に使っていた容器。
どれも、通常の水や生活用品とは分けてある。数も、保管中の変化も、千代の記録と照合した。
「やっと外へ出せる」
「外へ出せば終わり、ではないぞ」
「分かってる。俺たちが抱え続けなくてよくなるだけ」
それでも大きかった。
捨て方が分からず、流すことも燃やすこともできず、生活区域から離して保管し続けていた。置いてあるだけでも、確認は必要になる。
容器が破損していないか。漏れていないか。縁が近づいていないか。ナーヴァが勝手に焼こうとしていないか。
「我を何だと思っておる」
「最初に『焼けばよい』って言った竜」
「実際、焼けば早い」
「容器ごと焼いた後に何が残るか分からないから駄目」
「分からぬことが増えたな」
「以前から分からぬことを、分からぬと認めるようになっただけじゃ」
千代に言われ、ナーヴァは面倒そうに鼻を鳴らした。
「運ぶ途中で何かあったら戻る。無理に受取場所まで行かない」
リゼが最後の紐を締める。
「分かった」
「転んでも箱から手を離すなよ」
「俺が転ぶ前提?」
「転ばないと言い切れるのか?」
「言い切れない」
「なら、覚えておけ」
最近、分からないことだけではなく、できないことまで素直に言わされている気がする。
◇
汚染物は、事前に決めた場所まで俺たちで運んだ。
《淫獄》の入口から受取場所までを、探索者組合の人間へそのまま見せることはしない。
決めた場所で待っていると、組合の担当者と、運搬用の装備を持った二人が現れた。
「容器は、この箱の中です」
「ここでは開けません」
「開けなくていいの?」
「状態の分からない汚染物を、受取場所で開封する方が問題です」
「それもそうか」
担当者は箱へ直接顔を近づけず、俺たちから話を聞きながら外側を確認した。
「元の洗浄水がこちら。使用した布が別の容器。学校へ持参した少量試料は、この小さい容器ですね」
「開けてない。元の水にも戻してない」
「魔法学校でも開封されていない?」
「外から見てもらっただけです」
「分かりました。別の試料として記録します」
千代がまとめた容器数と、担当者が確認した数が一致する。
「保管中に漏れは?」
「確認できた範囲ではない」
「運搬中の破損もありません」
リゼが答える。
「では、ここからはこちらで引き受けます」
組合側の二人が、運搬用の箱へさらに固定具を加える。
俺たちが抱えてきた物なのに、手を離す瞬間は少し怖かった。
「本当に渡していいんだよな」
「そのために来たんだろ」
「そうだけど」
「ここから先は、こちらで扱えるところへ回します」
担当者が言った。
「これで安全になった?」
「まだです」
即答だった。
「受け取ったことと、処理が終わったことは別です。まず状態を確認し、扱える先へ回します」
「その言い方、最近よく聞く」
「必要な区別ですから」
ミネットにも似たようなことを言われた。
できるかもしれないことと、今ここで始めてよいことは別。分けたことと、消したことは別。引き渡したことと、処理が終わったことも別。
「処理が終わったら、教えてもらえる?」
「どこまでお伝えできるかは、扱う先によります。追加で確認が必要になれば、こちらから質問することもあります」
「完全に俺たちの手を離れたわけじゃない?」
「保管と運搬の責任はこちらへ移ります。ただし、発生状況を知っているのはあなた方です」
「質問されたら答える」
「話せる範囲で構いません。話せないことがある場合も、勝手な説明を作らず、話せないと伝えてください」
「そこも覚えた」
「なら結構です」
少しだけ褒められた気がする。
◇
組合の運搬担当が箱を持って離れていく。
今まで生活区域から遠ざけて置いていた汚水も、使用済みの布も、もう俺たちの手元にはない。
「終わった?」
「わしらが保管する段階はな」
「次に同じものが出た場合の扱いは残っている」
リゼが言う。
「全部終わったわけじゃないか」
「全部が一度に終わると思う方が間違いじゃ」
「でも、少しは終わっただろ」
「それは否定しておらぬ」
隔離場所を毎日確認しなくてよくなる。縁が近づかないよう気を配る必要もない。容器が足りなくなる心配も、今はなくなった。
「そういえば、学校へ報告しないと」
「もう相談は終わってるんじゃないの?」
「終わったからこそ、結果を伝えるのじゃ」
千代が小さな試料についての記録を閉じる。
「ミネットは、学校へ持参した試料を元の汚水へ戻さず、組合へ別の物として伝えるよう確認しておった。その後どうなったかを伝えるのが筋じゃろう」
「終わった話のために、もう一回行くのか」
「途中で話を投げたままにするよりよい」
確かに、ミネットからすれば、俺たちが本当に組合へ伝えたのかも分からない。
「分かった。行こう」
◇
魔法学校へ行き、以前と同じように用件を伝えた。
しばらく待つと、ミネットが記録用の紙を持って現れた。
「今日は、試料を持っていないのですね」
「全部、組合へ渡した」
「全部とは?」
「元の汚水と、使った布と、容器と、学校へ持ってきた分」
ミネットの視線が紙へ落ちる。
「処理が終わったのですか?」
「俺たちが抱えておく必要はなくなった」
「処理そのものは?」
「組合が扱えるところへ回すって言ってた」
「処理済みだとは確認していない?」
「してない」
「では、引き渡しが終わったのですね」
「同じじゃない?」
「違います」
迷いのない答えだった。
「引き渡した後に状態を確認し、そこから処理方法や回す先を決める場合もあります。処理が終わったとは限りません」
「組合の人にも言われた」
「必要な区別ですから」
「それも同じこと言ってた」
ミネットは少しだけ首を傾げた。
「同じ意味なら、同じ説明になります」
「そうだよな」
「学校へ持ってきた分は、別の容器だと伝えましたか?」
「伝えた。元の水へ戻してないことも、ここでは開けてないことも」
「組合側は?」
「別の試料として記録するって」
「それなら、少なくとも所在が分からなくなることはありませんね」
「ミネットが続きを調べることはないの?」
「私が決めることではありません。どこで、誰が、どのように扱うかもまだ分かりませんから」
興味がないわけではない。紙へ書き込む手が、いつもより少しだけ速い。それでも、自分が調べられると勝手に決めない。
「保管中に漏れはありませんでしたか?」
「見える範囲ではなかった」
「容器数は記録しましたか?」
「千代が」
「運搬中の破損は?」
「なかった」
「学校持参分を、別試料として伝えた?」
「それも伝えた」
「今後、同じ地下へ入る場合の相談先は?」
「探索者組合。大きな戦闘をする可能性がある時は、先に知らせる」
「倒した物や、残した物についても?」
「帰った後に伝える」
ミネットは一つずつ確認し、最後に紙を置いた。
「では、今回の汚水について、私が先に現場を確認する必要はなくなったと思います」
「うん。助かった」
「私は、ほとんど何もしていません」
「試料を勝手に開けなかったし、分からないことを増やしてくれた」
「普通は、分からないことを減らした方が喜ばれると思います」
「勝手な答えで減らされるよりはいい」
ミネットは、すぐには答えなかった。
「それなら、よかったです」
◇
報告は終わった。試料も持っていない。新しく処理してもらいたい物もない。
「じゃあ、俺たちはこれで」
「はい」
ミネットが紙を閉じる。俺たちが出口へ向かいかけたところで、背後から声がした。
「もう、こちらへ来る用事はありませんか?」
振り返る。
ミネットは閉じた紙へ両手を重ねていた。
「今のところは」
「そうですか」
返事が少し遅かった。ミネットは何かを言おうとして、口を閉じる。
「何かある?」
「いえ」
「本当に?」
「まだ、整理できていません」
「分かった」
無理に聞かない。俺たちがまた出口へ向く。
「あの」
今度は、さっきより少し大きな声だった。
「今度は、私から相談してもよいでしょうか」
「俺たちに?」
「はい」
リゼとレイナがミネットを見る。千代は何も言わず、返事を俺へ任せた。
「危ない物を持ってくる相談?」
「違います」
「学校の課題を手伝ってほしいとか?」
「それとも少し違います」
「じゃあ、何?」
ミネットは答えかけ、また言葉を止めた。
「今すぐ長くお話しできる内容ではありません。それに、私も何をどこまで聞きたいのか、まだ整理できていません」
「次に来た時でいい?」
「はい。次にお会いできる時に、きちんと話します」
「でも、次に来る用事がないって話をしてたんだけど」
「ですから」
ミネットは閉じた記録を持ち直した。
「今、私から用事を作りました」
汚水について相談するために、俺たちはミネットを訪ねた。
その汚水は俺たちの手を離れ、報告も終わった。
終わった話を伝えに来ただけだった。
そのはずなのに、帰る時には、次に会う理由が一つ増えていた。




