第103話 今日は回さない
「今日は、大きな予定を入れぬ」
朝の食事が終わったところで、千代が言った。
「休み?」
「大きな予定を入れぬ日じゃ」
「それ、休みとは違うの?」
「必要な仕事まで消えるわけではない」
水を使えば補充がいる。食べれば片づけもある。縁の食事や体調も見なければならない。引き渡しまで隔離している物の状態も、完全に放っておくわけにはいかない。
「要するに、千代は休みって言い切ると落ち着かないんだよ」
ヴィオラが言う。
「そういう問題ではない」
外出も地下狩猟もなく、水と食料にも今日中の不足はない。
「ならば、我は寝る」
ナーヴァが立ち上がった。
「一番休みを理解してるな」
「食事も狩りもない日に、起きている理由があるか?」
「皆と話すとか」
「今、話した」
ナーヴァは壁際へ向かった。本当に寝るらしい。
◇
大きな予定がなくても、ファステはいつもどおり動いていた。
「ファステ。今日中に全部必要?」
「今日済ませておけば、明日の仕事が減ります」
「明日やっても困らない?」
「困りはしませんが」
「時間があることと、全てを仕事へ使うことは別じゃ」
千代に言われ、ファステは最低限の片づけだけを終えた。
「お茶を淹れてもよろしいでしょうか」
「それも仕事にならない?」
「私が飲みたいので」
ファステはエプロンを外し、亜麻色の髪を普段より緩く結び直した。柔らかな後れ毛が肩の近くへ残る。
茶を二つのカップへ注ぐと、俺の向かいではなく隣へ座った。
「隣なんだ」
「いけませんか?」
「いけなくない」
「皆のために淹れた残りではありません。私が飲む分と、ご一緒に飲みたい分です」
ファステが先に茶へ口をつける。
「どう?」
「好きです」
茶のことだと分かっている。それでも、エプロンのない服、緩い髪、自分の休息へ俺を招いた距離が、欲望へ触れた。
『《淫獄石》を500個獲得しました』
『所持《淫獄石》:6,820』
「増えましたか?」
「増えた」
「お茶を飲んでいただけですが」
「お茶だけじゃないから」
「では、何が?」
「説明しなくていい?」
「はい」
◇
リゼは剣を磨いていた。
「休みじゃなかった?」
「使わない日に手入れするんだ。私にとっては休みだ」
手入れが終わると、剣と防具を壁際へまとめた。いつものように、立てばすぐ剣を取れる位置ではない。
髪を結んでいた紐も緩め、暗い赤茶色の髪が肩へ落ちる。室内用のシャツには、防具に隠れている肩や腰の線が出ていた。
「今日は、そこへ置くんだ」
「入口へ行かないんだろ」
「落ち着かないなら戻す?」
「いや。落ち着かないからって、毎日すぐ抜ける場所へ置く必要もない。今日はこれでいい」
警戒を捨てたわけではない。それでも自分で剣から距離を取った。戦いの最中には見せない、力の抜けた姿と無防備さが欲望へ刺さった。
『《淫獄石》を520個獲得しました』
『所持《淫獄石》:7,340』
「今、増えたな」
「分かる?」
「お前の顔を見れば」
リゼは髪を結び直そうとした。
「そのままでいいと思う」
「……そうか」
髪は肩へ下ろしたままになった。
◇
「今日は、私の物を作りますわ」
レイナは淡い色の布を選んでいた。
「室内で髪を軽くまとめる物が欲しくなりましたの」
高価な布ではない。髪へ触れても痛まず、結びやすいことを優先している。
完成すると、レイナは淡い金色の髪を両手で持ち上げた。
「夜斗様。後ろから見て、曲がっていません?」
長い髪の下から白い首筋が見える。
「少しだけ右」
「こちらですの?」
「もう少し」
「布の端を持っていただけます?」
近づいて布を受け取ると、指が重なり、柔らかな髪が手の甲へ触れた。
「今度はいかがです?」
「真っすぐ」
「では、これにしますわ」
俺には確認だけを頼み、最後は自分で決めた。髪を上げる仕草と首筋、令嬢らしい気品と自分の生活用品を作る姿の差が欲望へ結びつく。
『《淫獄石》を580個獲得しました』
『所持《淫獄石》:7,920』
「どの部分でしょう」
「探さなくていいから」
「少し気になりますわ」
「俺はかなり恥ずかしい」
◇
「千代も休んでなくない?」
「新しい記録は増やしておらぬ。既にある物を並べ直しておるだけじゃ」
「それを仕事って言うんじゃない?」
ヴィオラに言われ、千代はやがて筆を置いた。
深い赤色の髪紐を外すと、長い黒髪が背中へ落ちた。装束の帯も少し緩め、壁際へ座る。
「何かしてないと落ち着かない?」
「城を預かる者が、何も考えぬ時間を作る方が難しい」
「今は城じゃなくて、家の中だけど」
「それでも守る物があることは変わらぬ」
千代は皆を見回し、髪を耳へ掛けた。
「されど、守る者が休めぬ場所を、帰る場所とは呼びにくいか」
「じゃあ休む?」
「今日はな」
女城主の威厳を失わないまま、髪と装束を緩めて休む成人女性の姿。その落差が俺の欲望を刺激した。
『《淫獄石》を560個獲得しました』
『所持《淫獄石》:8,480』
「またか」
「ごめん」
「謝られても困る」
「俺も困ってる」
◇
ヴィオラは帽子を外し、長い茶色の髪を緩くまとめてコインを転がしていた。
「一人で賭けてる?」
「相手がいないのに、誰から取るの」
ヴィオラがコインを投げる。
「表なら、夜斗が私に付き合う」
「裏なら?」
「私が夜斗に付き合う」
「何が違うの?」
「決める側」
俺が投げ返すと、床へ落ちる前にヴィオラが掴んだ。
「どっち?」
「今日は勝ち負けを決めなくていいか」
ヴィオラは俺の隣へ座り、肩を触れさせた。少し日焼けした身体が軽く寄りかかる。
「嫌なら離れるけど」
「嫌じゃない」
「正直だね」
帽子を外した髪、身体に合った服、近い視線。何でも勝負にするようなヴィオラが勝敗のない時間を選び、俺へ身体を預けている。その全てが欲望へ刺さった。
『《淫獄石》を620個獲得しました』
『所持《淫獄石》:9,100』
「増えた?」
「増えた」
「勝った?」
「勝負にしてない」
「残念」
◇
一番まともに休んでいたのはナーヴァだった。
人の姿のまま壁際で横になり、長い髪を床へ広げている。縁は少し離れた場所から様子を見ていた。
「起こした?」
「起きただけだ」
「場所、変える?」
「必要ない」
ナーヴァは再び目を閉じ、俺のいる側へ身体の向きを変えた。縁も距離を縮め、足元で丸くなる。ナーヴァは追い払わない。
「布、掛ける?」
返事がない。近くの布を掛けようとすると、手首を掴まれた。
「ごめん!」
「そこではない。もう少し上へ置け」
「掛けていいの?」
「置けと言っておる」
言われた位置へ布を掛けると、ナーヴァは俺の手首を放した。
軍勢を焼き尽くせる竜が、人の姿をした成人女性として無防備に眠っている。近くの縁も、俺が布を掛けることも受け入れていた。
掴まれた手首には指の感触が残り、布の下には力の抜けた女性の身体がある。強さと無防備さの大きな落差が、深く欲望へ刺さった。
『《淫獄石》を900個獲得しました』
『所持《淫獄石》:10,000』
『通常《住民召喚》を実行できます』
「……回せる」
「何をだ」
眠ったと思ったナーヴァが聞く。
「新しい住民召喚」
「今?」
ファステたちも集まってきた。
回したい。何が出るか分からない通常召喚。それでも今すぐ見たい。
『通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:10,000』
実行できる。
「夜斗」
リゼが呼ぶ。
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「でも、すぐ引くなって顔してる」
迎える準備も、役割分担もできていない。
「引きたい」
「顔を見れば分かる」
「すごく引きたい」
「ならば引けばよかろう」
「引いた後に困るのは、出てきた人だから」
召喚は引いて終わりではない。来た人物にとっては、その瞬間から生活が変わる。
「今日は回さない。明日、準備してから決める」
「決めたのに、まだ表示を見てるね」
「見るだけなら減らないから」
「押したくならない?」
「なる」
「閉じた方がいいんじゃない?」
「もう少しだけ」
◇
「今後、石が増えそうなことは避けるか?」
千代が聞いた。
「以前は所持上限を超えた分を保持できなかった。今回も一万が上限なら、召喚までに発生した石は失われる可能性がある」
「それはもったいない」
「なら、今日は皆を見ない?」
ヴィオラが言う。
「それは無理だろ」
「私たちに服を変えるよう頼む?」
「もっとしない」
「今日は普通に過ごす。石が出そうなことを避けるために、皆の生活を変えたりはしない」
「では、明日の準備を早く決めることじゃな」
「うん」
◇
皆は、それぞれが選んだ休み方へ戻った。
ファステはエプロンを外したまま茶を飲む。リゼは剣から少し離れ、髪を肩へ下ろしている。レイナは自分で作った髪飾りへ触れ、千代も髪を結び直さない。ヴィオラは勝敗を見なかったコインを転がす。ナーヴァは布を掛けたまま眠り、縁も近くで丸くなっていた。
俺だけが、召喚画面を何度も開いては閉じた。
回せる。
でも、今日は回さない。
『所持《淫獄石》:10,000』
『必要《淫獄石》:10,000』
同じ数字が二つ並んでいる。
だから俺は、今回もそこが上限なのだと思っていた。




