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このスキル、やばスギル。 ~ガチャ沼に堕ちたら俺の負け~  作者: 明日乃風
第九章 「このスキル、やばスギル」

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第101話 帰る場所は、忘れていない



 目を覚ました時、焚き火はほとんど消えていた。


 灰の下に残った赤い光を細い枝で崩し、セリナは周囲へ目を向けた。


 昨夜と変わったものはない。


 荷物にも、張っておいた細い縄にも触れられた跡はなかった。


 近くを通ったらしい小動物の足跡が一つ。街道へ向かって伸びているが、こちらの寝場所には近づいていない。


 空は薄く曇っている。


 すぐに雨が降るほどではないが、昼を過ぎれば風向きが変わるかもしれない。


 セリナは少しだけ残っていた水を飲み、硬いパンをちぎった。


 腹を満たすには足りない。


 次の休憩場所まで歩くには足りる。


 それでよかった。


 荷物をまとめる前に、胸元から古い方位磁針を取り出した。


 縁の一部が歪み、表面には細かな傷が残っている。


 軽く揺らしても、中の針は方角を示さない。


 昨日も同じだった。


 その前の日も、その前も。


「役に立たない」


 分かっていることを口にしてから、元の位置へ戻した。


 役に立たないからといって、今すぐ捨てる理由にはならない。


 代わりに、空の明るさと木々の向き、街道へ残った轍を確かめる。


 ここへ来た時に覚えておいた地形とも一致している。


 方角は自分で分かる。


 方位磁針が壊れていても、道までは壊れない。


 焚き火へ土をかぶせ、熱が残っていないことを確認する。


 それからセリナは、小さな背負い袋を肩へ掛けた。


 道は少し先で二つに分かれている。


 一方は近道だった。


 旅人があまり使っていない細い道で、昨日聞いた話では、途中に崩れかけた斜面があるらしい。


 もう一方は遠回りになるが、荷車の跡が新しい。


 近くに人が通っている。


 水場へ寄れる可能性も高い。


 セリナは二本の道を見比べた。


「今日は、こっち」


 選んだのは遠い方だった。


 急ぐ理由はない。


 危険な近道を選ばなければならないほど、食料にも水にも困っていない。


 自由に進むことと、危険へ飛び込むことは別だった。


          ◇


 昼前に、小さな休憩場所へ着いた。


 街道脇へ屋根と壁を付けただけの建物があり、その周囲に数台の荷車が止まっている。


 宿と呼べるほど大きくはない。


 食事と水を売り、馬を休ませ、旅人が雨風を避けるための場所らしい。


 セリナはすぐには近づかなかった。


 少し離れた場所から、出入りする者を確認する。


 武器を見せつけるように歩く者はいない。


 荷車の持ち主と、荷物を運ぶ者。


 食事を取る旅人。


 入口近くで暇そうに座っている男が一人。


 こちらを見たが、立ち上がりはしなかった。


 危険がないとは限らない。


 ただ、今すぐ避ける理由も見つからなかった。


 セリナは建物へ近づいた。


「食べる?」


 入口にいた女が声を掛けてくる。


「値段は?」


「今日の煮込みとパンで、このくらい」


 示された額は、街中より少し高い。


 街道沿いなら不自然ではなかった。


「水は?」


「食事を頼むなら一杯。容器へ足すなら別」


「煮込みに何が入ってる?」


「豆と根菜。肉は少し」


「何の肉?」


 女は鍋の方を見た。


「昨日仕入れた鳥」


「どこで?」


「この先の村」


「食べた人は?」


「朝から何人も食べてるよ」


 女が面倒そうな顔をする。


 嘘をついている様子はない。


 鍋から変な臭いもしなかった。


「食べる」


「最初からそう言えばいいのに」


「聞いてから決めた」


 セリナは代金を払い、空いている端の席へ座った。


 煮込みは薄味だった。


 肉も少ない。


 それでも温かく、硬いパンだけを食べるよりはよかった。


 半分ほど食べたところで、外から声が聞こえた。


「誰か、荷を向こうまで運んでくれないか」


 荷車の近くで、太った男が周囲を見回している。


 積まれているのは、布をかぶせた木箱だった。


「一人分、来られなくなった。重い物じゃない。今日中に運んでくれれば払う」


 何人かが顔を向けたが、名乗り出る者はいない。


 セリナは食事を続けながら、男の言葉を聞いた。


 運ぶ先は次の集落。


 街道から外れない。


 夕方までには着く予定。


 荷物は陶器で、壊した場合の扱いは出発前に中身を一緒に確認する。


 護衛ではない。


 明日以降の拘束もない。


「いくら?」


 セリナが聞くと、男はこちらへ向いた。


 金額は悪くなかった。


 ただし、安くもない。


「中身を確認する」


「いいとも。箱を開けるところから見てくれ」


「荷車の状態も」


「慎重だな」


「壊れた車の責任まで払いたくない」


 男は少し笑った。


「そこまで言うなら、車輪も一緒に見てもらおう」


 食事を終えた後、セリナは木箱の中身を確認した。


 包まれた陶器が並んでいる。


 数と状態を男と一緒に確かめる。


 荷車の車輪に、すぐ壊れそうな亀裂はない。


 契約書と呼べるようなものはなかったが、休憩場所の女にも条件を聞かせた。


「次の集落まで運ぶ。今日だけ。着いたら支払い」


「それでいい」


「働きがよければ、その先も頼むかもしれない」


「明日、ここにいるとは決めてない」


「先の話をしただけだ」


「先の返事は、先に決める」


 男は肩をすくめた。


「今日の分だけ、頼むよ」


 それなら問題なかった。


          ◇


 荷車が出るまでに少し時間があった。


 セリナは休憩場所の隅に並べられた品物を見た。


 乾燥させた食料。布。紐。小さな刃物。針。安い装飾品。


 旅の途中で必要になりそうな物ばかりだった。


 針の入った小さな木箱を手に取る。


 細工は粗いが、蓋はきちんと閉まった。


 使えなくはない。


 ただ、今持っている針はまだ折れていない。


 セリナは木箱を元の位置へ戻した。


 その隣には、淡い色の糸で作られた髪飾りがある。


 レイナなら、糸の質と結び目を先に見るだろう。


 綺麗かどうかだけで選びはしない。


 少し離れた場所には、使い道の分からない金属留めが置かれている。


 リゼなら、どこへ付ければ外れにくいかを確かめる。


 値段を見て笑うのはヴィオラ。


 置き場所と残数を気にするのは千代。


 ファステなら、必要な者がいるかを先に聞く。


 夜斗は――たぶん、全員の顔を順番に見る。


 セリナは髪飾りから手を離した。


 土産を買うつもりはなかった。


 荷物を増やしたくない。


 次に会える日も決めていない。


 帰ると決めてからでいい。


「何か買うのかい?」


 店番の女が聞いた。


「水と、干した果物を少し」


「飾りは?」


「今はいらない」


 必要な物だけを買い、背負い袋へ収める。


 袋は少しだけ重くなった。


 まだ、歩く邪魔にはならない。


          ◇


 荷車の隣を歩いている間、男はよく喋った。


 道の状態。


 次の集落の宿。


 雨が降った場合に荷物へ掛ける布。


 近くで最近見かけた旅人。


 必要な話と、必要ではない話が混ざっている。


 セリナは必要な部分だけを覚えた。


「嬢ちゃんは、どこへ帰るんだ?」


 男が不意に聞いた。


「旅の途中」


「それは帰る場所じゃないだろ」


「そう?」


「出てきた村とか、家とかあるだろう」


「あるかもしれない」


「ないのか?」


 セリナは前方の道を見た。


 轍は真っすぐ続いている。


「帰る場所がないとは言ってない」


「じゃあ、あるんじゃないか」


「今、そこへ帰るとは言ってない」


「面倒な答え方をするな」


「聞いてないことまで答える方が面倒」


 男は声を上げて笑った。


「違いない」


 話はそこで終わった。


 セリナは歩きながら、上着の内側へ手を入れた。


 取り出したのは、壊れた方位磁針ではない。


 小さな石だった。


 灰色で、形も色も珍しくない。


 《淫獄》の庭に落ちていた物を、出る時に拾った。


 魔力があるわけではない。


 入口を開くことも、夜斗へ何かを知らせることもできない。


 ただの小石だった。


 胸元には、方角を示さない方位磁針。


 手の中には、帰る道を開けない小石。


「役に立たない物が二つ」


「何か言ったか?」


「何でもない」


 セリナは石をしまった。


 捨てる理由は、まだなかった。


          ◇


 次の集落へ着いたのは、空が暗くなり始める前だった。


 荷物に損傷はない。


 木箱の数も減っていない。


 男は約束どおりの金額を渡した。


「明日も荷を運ぶ予定がある」


「そう」


「手際は悪くなかった。行き先が合うなら、また頼みたい」


「明日決める」


「朝には出るぞ」


「その時にいたら聞く」


「いなかったら?」


「別の人を探せばいい」


「自由だな」


「今日の仕事は終わった」


「そうだったな」


 男と別れ、セリナは集落の中を歩いた。


 今夜泊まれる場所。


 水を補給できる場所。


 朝早く出る場合に使える道。


 門が閉まる時刻。


 一つずつ確かめる。


 宿を決める前に、外で話している二人の声が聞こえた。


「また来たらしいぞ。見慣れない若い連中」


「この辺りじゃ見ない顔だったな」


「前にもいたのか?」


「少し前にな。あの時は、ひどい動きだった」


「今は違うのか」


「誰かに鍛えられてるんじゃないか。前よりはましになってたそうだ」


 セリナは足を止めた。


 聞き覚えのある顔を思い浮かべたわけではない。


 若い旅人や、不慣れな探索者など、どこにでもいる。


 それでも、少し気になった。


「何人?」


 声を掛けると、二人がこちらを見る。


「何が?」


「見慣れない若い連中」


「四人だったか?」


「五人だろ」


「女もいたよな」


「二人いたと思う」


「どこへ行った?」


 二人は顔を見合わせた。


「北じゃないか?」


「いや、西の道だ」


「街道へ戻ったって聞いたぞ」


 人数も、行き先も一致しない。


「知り合いか?」


「まだ分からない」


「探すなら、明日の朝――」


「今は、噂だけ」


 それ以上は聞かなかった。


 若者たちが誰なのかは分からない。


 以前より動けるようになったという話が本当かも分からない。


 誰かに訓練されているというのも、話した者の推測にすぎない。


 不確かな話だけで進路を変えれば、何も見つからなかった時に、自分の予定まで崩れる。


 セリナは宿を選び、代金を払った。


          ◇


 部屋には、小さな窓と硬い寝台しかなかった。


 荷物を置き、靴の土を落とす。


 明日使える道を思い返した。


 北へ続く道。


 西へ向かう道。


 今日来た道を戻る選択もある。


 もっと遠くへ進むこともできる。


 《淫獄》へ戻ろうと思えば、知っている地下入口の近くへ向かうことになる。


 だが、そこへ着いた時に夜斗たちが近くにいるとは限らない。


 入口の向こうへ知らせる手段もない。


 巡回する者と会う可能性もある。


 以前と同じように迎えてもらえるとしても、それは必ずではなかった。


 それでも、道そのものを忘れたわけではない。


 セリナは胸元の方位磁針を外し、寝台の脇へ置いた。


 その隣に、庭から持ち出した小石を並べる。


 どちらも、戻るためには役に立たない。


 方位磁針は進む方角を示さない。


 小石は帰りたいという意思を誰にも伝えない。


 それでも、目に入れば思い出せる。


 自分で外へ出ると決めた時、止められなかったこと。


 戻ると約束しなかったこと。


 戻らないとも決めなかったこと。


 今頃、《淫獄》がどうなっているのかは分からない。


 夜斗がまた何かに困っているかもしれない。


 千代の記録が増えているかもしれない。


 ファステは変わらず働き、リゼは入口を警戒し、レイナは何か新しい物を選び、ヴィオラはコインを回しているかもしれない。


 自分が出た後、新しい誰かが来ている可能性もある。


 そこに自分の知らない生活ができていても、おかしくなかった。


 セリナは窓から外を見た。


 明日の道は、朝の天気を見てから決めればいい。


 噂の若者たちを探すかも、まだ決めない。


 《淫獄》へ向かう道を選ぶ日が来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 今日決める必要はなかった。


「今日は、まだ戻らない」


 誰に聞かせるでもなく、セリナは言った。


 それは、もう戻らないという意味ではなかった。

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