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第114章 オーディションの朝

結局キスできなかった俺は、後悔にさいなまれながら逃げるように家に帰った。

 崖の上に友部が立っていた。

 陸上部のユニフォーム姿だ。髪が風になびいている。

 たとえようのない美しさに動悸が止まらない。

 俺が近付いていく。手を伸ばして抱きしめる。胸のふくらみが柔らかい。

 俺がその美しい顔を見つめると、あの鋭い美しい瞳で俺を見つめる。

 俺は引きつけられるようにもっと強く友部を抱きしめると、唇を近づける。

「キスしてもいいの?」

 友部は俺の腕の中で、俺を睨んだまま、少し唇を開く。

「ジラが? あなたなんかが私にキスできると思ってるの?」

 俺は「どうしてもキスしたい」と力を込める。

「どうしても、私にキスしたい? だったら、命を懸けてよ。ここから飛んで見せて」

 俺は崖の下を見る。はるかに下は海だ。遠く波が砕ける。ここから飛んだら間違いなく死ぬなと思う。

 そうか、俺が賭けられるものと言ったら命くらいか。

 俺は飛び込もうとする

「おいで」とおれの手を引っ張る人がいる。

 青柳だ。美しい白いドレスを着て、天使の翼で空を飛んでいる。

「飛ばせてあげるよ」

 笑顔の美しさに思わず心が震える。

「ああ、やっぱり、本当は天使だったんだね」

「そうよ。知らなかったの?」

 もう一方の手を取るものがいる。

 見ると、小尾先輩だった。

 天使の羽をつけている。完全なヌードだ。乳首が赤い。思わず下腹部に目をやると、つるつるでまっさらだ。何もない。ああ、やっぱり人間じゃなかったんだ、と思う

「私も助けてあげるわ」

「ヴィーナス様、女神様じゃなかったんですか」

「女神よ。ヴィーナスに羽があるって知らなかったの?」

 二人がが引っ張ると、俺の体が宙に浮いた。

 海の上を飛んでいる。足の下で波がうねっている。

 ああ、俺にも空が飛べる、なんてすてきなんだ、と思ったとたん、二人の手が外れた。

 俺はまっさかさまに落ちる。海が近付いてくる。

 ああ、いよいよ死ぬのかと思う。

 気が付くと草原だった。草の上に横たわっていた。眞知が俺をのぞき込んでいる。俺は眞知の膝に頭をのせている。

 なんてあったかで柔らかなんだろう、と思う。那加もこんな気持ちで眞知の膝に甘えているのだろうか。

「馬鹿だね、ジラ、空を飛べると思ったの?」

 俺はうなずく。

 眞知は俺の髪をなでながら言う。

「いいんだよ、空なんか飛べなくて。ありふれた人間でいて。私がずっとそばにいてあげる」

 ああ、こうしているとなんて安らかなんだろうと思った。心の底から救われる感じだ。

 俺は膝に頭を乗せたまま、眞知の顔を見る。その美しさに見とれる。

「ほんとなの? 眞知は天使ではないの?」

 眞知はにっこり笑う。

「うふふ、ただの『くそヒロインよ』。知ってるでしょ。私、何もしてあげられないけど、ずっと、ジラのそばにいてあげるよ」

「本当に? 俺……眞知が大好きだよ」

 やっと言えたと思った。俺は起き上がって、眞知にキスしようとした。


 そこで目が覚めた。

 真っ暗な部屋、俺はベッドに身を起こす。時計を見ると三時だ。

 ああ、まただ。最近、こうやって、真夜中に、絶望的な気分で目を覚ます。

 見ていた夢を覚えているのは珍しい。いつもは何か夢を見ていた気がするのだが、どうしても思い出せない。

 ただ、いつも同じなのは、苦しくてたまらないということだ。胸が締め付けられて、鉛を飲み込んだようだ。苦しくて逃げ出したくなる。この先、生きていても、何一つ、いいことはないという思いがまるでカラスのように俺の心臓を食いむしる。

 何でこんなに苦しいんだろうといつも思う。

 今の自分は、むしろ恵まれすぎているくらいじゃないか。

 今日の放課後のオーディションで、美少女たちが、演技とはいえ、愛の告白をしてくれる。青柳は思い切り抱きしめていいと言ってくれた。もてなくて、女の子に憧れているだけの俺にとっては夢のようなイベントだ。

 間違いなく、今の俺は幸せだ。

 たぶん、俺は、幸せすぎて怖いのかもしれない。……この幸せは那加の奴隷のものであって、俺自身のものでないことが……この幸せが、失うにはあまりに大きすぎることが……時計の針が進むたびに、確実に終焉に向かっていることが……

 俺は、トイレに行く。

 トイレはきれいに飾ってあった。夕べ、友部が家に来たので妹がいつものように飾ったのだ。もう、俺が使ってもいいはずだよな。便器に座る。夕べ、友部もここに腰をかけて、用を足したんだな、と思う。俺と同じようにカツやフライを食べて、トイレに行っておしっこやうんこをする。同じ人間のはずなのに、俺から見ると、友部はなんて遠い存在なんだろう。

 夕べ、友部を抱きしめて、ほとんどキスしかけたことを思い出す。あれは夢だったんだろうか。あの心臓の音。軟らかい肉と硬い骨と。一人の人間としての友部透子。その少し開いた赤い唇。

 部屋に戻るとベッドに横になって闇を見つめる。

 絶望は相変わらずカラスのように俺の心臓を食い荒らしている。

 ああ、今日はオーディションだ、と思う。

 オーディションなんて来なければいいのに。

 どんな結果になろうとも、俺はそれを見たくないと思った。


「ジラ、送り狼になったの?」

 那加がいきなり聞いてきたので、俺は、一瞬、開いた口がふさがらなかった。


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