第113章ジラが送り狼になる話4
真夜中の森の中で不審者に出会ったかと心配して。大急ぎで友部の元に行った俺。「明日私に投票してくれたらキスしてもいいよ」と言われ、キスしようとします。
俺はそっと顔を近づけた。友部が目を閉じる。少し顎を上げた。ゆっくりと、本当にゆっくりと、俺は唇を近づけた。
もう少しで唇が唇に触れようとしたときだった――実際、先がかすかに触れたその一瞬、友部が息をのむように体を固くするのを感じた。それで、俺は正気に返った。あと一ミリで唇が触れそうなまま五秒が過ぎ、それから、俺は体を起こし、友部の背中に回していた手を、友部の腕に戻した。
目を閉じたままの友部の顔から目をそらし、草の生えた地面を見つめた。
「ありがとう、委員長。俺、委員長に投票する」
友部は目を開いた。
「どうしたの。あれがキス? 唇に触れていないじゃない」
「触れようと思えば触れられた。それだけで十分です。こんな、三流の俺が、委員長みたいなスーパー美少女にキスができたら、それだけで、俺の一生の宝ものです」
「キスしなかったじゃない」
「それは、委員長が俺にとって大切な人だから」
「大切だから、キスしないの?」
「俺、委員長にキスしたい、ものすごくキスしたい。無茶苦茶に抱きしめたい。狼になっちゃいそうです」
「ここで狼になるのはやめてよ? どうしても狼になるんなら、私の家まで来て。畳の上にして」
「狼になりたいけど、なれないんです。委員長は俺を誤解している。俺が、賭けを申し込んだのも、無理やりデートしたのも、全部、俺自身の都合です。結果的に委員長のためになったとしても、委員長を思ってしたことじゃないんです。全部、俺のしたことじゃないんです。今は理由は言えないけど、委員長の見ている俺は本当の俺じゃない……だけど、これだけは本当です。俺、委員長に憧れています。外見や才能だけじゃなくて、一人の人間としてのすべてに……俺は委員長に幸せになってほしい……だから俺は、偽物の俺は、偽物のまま、委員長にキスしちゃいけないんです。たとえ、それが委員長にとって冗談でも……本物の俺が委員長を想う気持ちは本気なので……」
「なんだか、よくわからないことを言っているのね。でも、あそこまでしておいて、キスしないなんて、ジラも相当な三流ね。きっと、一生、後悔するから」
友部はちょっと怒ったような調子でそう言って俺をにらんだ。
「もう、後悔してます」
俺の胸に後悔の苦しみが広がるのを感じた。世紀の美少女と唇を合わせる千載一遇のチャンスを俺は逃したのだ! 俺はなんて弱いんだろう!
「でも、少しほっとした。私、ジラに襲われちゃうんじゃないかって、半分、覚悟してたから……私もばかだよね」
友部は俺の手の中から抜け出した。
「帰らないとね。もう遅いから。ジラ、送るのはここまででいいよ……って言ってもついてきちゃうんでしょうけど」
自転車をまたぐと、友部は俺を振り返った。
「前から嫌いだったけど、今日はまた大嫌いになったよ、ジラ」
「はい。わかってます。でも、俺は委員長が好きですから」
友部は、何も言わず、振り返ることもなく、自転車をこぎだした
友部の家はもう、すぐ近くだった。俺は少し離れてついていった。ときどき顔に手をやるのは、もしかしたら泣いているせいかもしれないと思った。
俺は、追いかけながら、もう後悔で胸をいっぱいにしていた。あの時、唇を合わせていたら、世界が変わったかもしれない。もしかすると、俺に、一番、欠けている自信と勇気を手に入れることができたかもしれない、とさえ思った。でも、それもまた、妄想なのだろう。
友部は門を入るとき振り向きもせずに手を振った。
俺は門の前で自転車を止めると、屋敷の中の暗い森を見つめた。友部の自転車の明かりが暗い森の間を抜けていく。
追いかけて行って、今度こそキスをする自分を俺は想像した。
今日は、家にはだれもいないと言っていた。押し掛けて行ったら、友部は俺を家に入れてくれるだろうか。抱きしめた時の友部の胸のふくらみと心臓の音の感触を俺は思い返す。生身の人間として友部透子。「狼になるんなら家に来て」と言っていた。今、家に押しかけていって、裸の友部を畳の上に組み敷く自分を想像した。友部は、俺にキスを許すといった時、キスの続きがそんなことになっても、その時はその時という気持ちでいたのだろうか。
まだ遅くないかもしれない。俺は、屋敷に足を一歩踏み入れた。今からでも、あの時の続きを取り戻せないだろうか。
俺は何かにかられるように、暗い庭の木立の中を先に進んだ。
家が見えた。
古い大きな家。
家はほとんど電気がついていなかった。母親と袋田さんは、今夜はいないと言っていた。友部一人だけのはずだ。一か所だけ明かりがついていた。友部の部屋のあたりだ。
それが、俺には「私はここよ。来ていいのよ」というメッセージのように思えた。
俺は熱に浮かされたようにふらふらと近づいた。ガラス戸越しに友部の部屋の障子が見えた。障子は閉まっていたが、ほんの5ミリくらい空いていて、中で何かがちらちら動くのが見えた。友部がいるに違いない。
俺は音をたてないように気を付けながら、ガラス戸に手をかけた。
少し開いた。不用心なことにカギがかかっていないらしい。まあ、こんな田舎では油断もするだろう。まさか俺みたいな不届き者が、友部を狙って侵入するとは思っていないだろう。
いきなりガラス戸を開け、障子を開け、「やっぱりキスさせてほしい」と、友部に襲いかかる自分を想像したが、首を振ると、そっとガラス戸を閉めた。
そんなこと俺にできるわけない。
何を考えているんだ、俺は。
俺は身をひるがえすと逃げるようにその場を後にした。
友部家の門を出るとものすごい勢いでペダルを踏んだ。
何を、考えているんだ、俺は。
絶対美少女が俺のキスを待っているだなんて。家まで来て襲われてもいいと思っているなんて。
俺はものすごい勢いで坂を下った。もしちょっとでも転倒したらほおりだされて、命を落とすかもとさえ思った。もし、そうなるならそれでもいいと思った。
さっきの会話が頭の中によみがえる。「ありがとうを言わせて」と友部は言っていた。友部は俺に救われたと思っている。那加の命令で俺が友部にしたことは、友部の苦しみのもとを的確に見て、間違いなく友部を幸せにしたし、それは感謝に値すると、俺でも思う。そして、それが、一種の恋心につながったとしても不思議はないとも思う。
あの時、友部は俺とキスをしたかったのかもしれない。少なくとも、キスしても嫌じゃないという程度には、俺に対して好意を抱いているということなのだろう。
あの時、思いっきりキスをしてしまえばよかった。強く抱きしめて、何度も何度も、黒い後悔が俺の胸を激しく噛み砕いた。一生にたった一度の奇跡だったかもしれないのに。
道は平たんな畦道になった。それでも俺はものすごい勢いで自転車をこぎ続けた。
なんであのとき、俺は止まってしまったんだ。あと1ミリ唇を前に出せばよかったのに。ほんの少し触れてさえいたのに。なんで!?
同じじゃないか。眞知の時と。
あと一歩踏み出せばよかったのに。
そう思った時、突然、自転車が止まった。俺の足が全く動かなくなった。前に進もうとしても全く動かないのだ。
ああ。
俺は天を振り仰いだ
満天の星。それが一斉ににじんだ。
なんてことだ!
一歩も進んでないじゃないか、俺は。
何度繰り返すんだ。俺は。なんて俺は弱いんだ。
なんて俺はちっぽけなんだ。
みんなに愛される生徒会長の俺。あれは、本当に全部俺自身がやったことだ。俺は、友部にキスすることができたはずなのに!
もし、俺が、本当に、俺の意思で、デートをかけて成績勝負をしたり、賭けに勝ってデートをしたり、友部を生徒会に誘っていたら、つまり俺のやったことが本当に俺の意思だったら、俺は、きっと友部にキスしていただろう。そして、それを友部も喜んでくれたろう。
眞知の時だってそうだった。俺の活躍のすべてのことが俺の意思でやったことだったら、あのとき、俺はきっと眞知を抱きしめることもできただろう。キスだってできたかもしれない。
那加の言う通り、俺のやったことは、まさしく俺のやったことだ。だから、俺にその意思がありさえすれば、俺にも十分にできたはずのことなのだ。「俺には無理だ」なんて言い訳は通用しない。実際にやったのだから……やればできるということを、リアルな人生の中で証明したようなものだ。
そう、全部、俺がやったことだ。それなのに……
俺の両目から涙があふれ出した。
何一つ俺のやったことではない!
本物の俺になりたい!
何のためらいもなく友部のあの美しい唇に唇を合わせられる存在になりたい
本物になりたいとずっと思っていた。那加には「なれるよ」と言われてきた。
それなのに一歩も進めない。手も足も金縛りに遭ったかのようにびくともしなかった。
悔しくて、悔しくて、ただ、涙があふれた。
どんなに遠くても手を伸ばし続けようと自分に誓っていた。
だが、なんて遠いんだ。
雲が現れて、少しずつ星空を覆っていくのが見えた。
闇はいっそう深くなる。
手を伸ばし続けなくてはならない。
なるんだ、ならなくちゃいけない、絶対に、本物のおれに!
俺は心の中で叫んだ。
だが、俺の叫びを絶望の雲が静かに覆っていくのを俺は感じていた。




