第109章 青柳がジュリエットになる話
静の部屋からでて、青柳を家まで送った俺。別れ際に青柳が俺の手を取った。
青柳の頬の柔らかい感触に、俺は胸がドキッとするのを感じた。そして、そのドキドキが止まらない。
青柳は少し膝をかがめて、俺をまっすぐに見上げて言った。青柳の暖かい息が俺の手をくすぐった。
「ああ、ロミオ様。ロミオ様。あなたは、なぜロミオなの? ジュリエットはずっとあなただけをお慕いもうしあげておりますのに」
青柳はさらに体を寄せると、俺の両手を胸に抱くようにして俺を見上げた。手がかすかに胸のふくらみに触れる。
「いとしい人。あなただけが私の世界、私の希望。あなたなしでは、私の心は永遠の闇に閉ざされてしまいます。ああ、どうか、私を、私だけを愛してください」
いつもの笑顔の青柳ではなかった。恋焦がれる乙女のように、かすかに唇を開いて、真剣な顔で俺を見上げる。そのまっすぐなまなざしの美しさに、俺は体が戦慄するのを感じた。
それから、急に、にっこりすると、青柳は俺の手を握ったまま体を起こした。
「なんてね、ちょっと明日のリハーサル。明日は、こんなふうにたかちゃんに告白する予定なんだけど、どうだった?」
俺は、まだ胸がドキドキして言葉が出なかった。正直にそう言った。
「すてきだったよ。まだ胸のドキドキが止まらない」
「ほんと? 私の演技力も捨てたものじゃないかな。明日は、舞台の上で、もっとどきどきしてね。最後は抱きしめてもいいよ。あのときの透子さんみたいに思い切り……私とたかちゃんの仲なんだから……というより、よかったら、思い切り抱きしめてほしい、それで私のオーディションは終わるんだから……」
最後は声が小さくなって、急に涙声になった。俺は少し慌てた。
「大丈夫だよ、きっと、さーちゃんが勝つよ、きっと」
「ありがとう。やさしいね。たかちゃんの気休め」
青柳は、青柳家の門に入ると、扉越しににっこりして言った。
「いつもありがとう……大好きだよ、たかちゃん」
大好きという言葉は、いつも俺が望んでいた言葉だった。まるで、小さいころのように、特別でも何でもない言葉のようにそう言われて、俺は昔に戻ったようでうれしかった。
「そんな、俺こそ感謝してるよ。俺も大好きだよ、さーちゃん」
青柳はうれしそうににっこりした。懐かしい、昔のさーちゃんの笑顔だった。
「ありがと。うれしいよ、たかちゃん。じゃあね、おやすみ」
行こうとする青柳を俺は引き留めた。
「さーちゃん。俺、さーちゃんの部屋の電気がつくまで、ここにいるから」
青柳は少しびっくりしたように微笑む。
「ロミオとジュリエットみたいね。バルコニーはないけど……ついたら、窓、開けるから」
青柳の部屋の方に回ると、俺は窓を見上げた。町はずれの住宅街は静まり返っている。それぞれの家の窓の明かりが遠く近くに見える。
青柳の部屋の電気がついた。
カーテンが開き、窓が開く。
青柳が現れた。
その美しさに、息をのんだ。塀から少し距離があったが、明るい部屋の電気を斜めに浴びる青柳の姿は夢の中の妖精のように、この世のものとは思えない美しさだった。
青柳が手を振ってくれる。俺も手を振る。
今すぐにでも、よじ登って抱きしめたいと思った。俺は両手を差し出した。すると気持ちが通じたのだろうか。青柳も両手を差し出した。俺は一瞬、抱きしめ合ってキスする自分を想像した。
もちろん、そんなことができるわけもなく……いつまでもそうしていたい気分だったが……手を下ろして、もう一度大きく手を振ると、俺は家に引き返した。家に入るとき、もう一度振り返ると、窓のところには、まだ青柳がいた。
手を振っていた。
俺はもう一度大きく手を振って、家に入った。
胸がどきどきして熱かった。
青柳のやわらかな頬の感触がまだ手の甲に残っていた。ジュリエットになって「ずっとあなただけをお慕いしています」と言ってくれた。もちろん、演技だとわかっている。それなのに、俺は、こんなにどきどきしている。
俺は、もしかして、その中に一筋だけ本気が混じっていたとしたら? と期待しているのか?
俺は、玄関の扉を閉めると、扉に寄りかかって、少し目を閉じた。小学、中学、高校とずっと俺のことが好きで、恋していてくれたのだとしたら……、そんなことを考えるだけで、心が震えるのを感じた。もし……もし、そうだったら、青柳だけは、那加の奴隷でない本物の俺に恋してくれたことになる。
大好きだと言ってくれた。ほんとうに小さいころ、たぶん、何回か言われたことがある。まるで当たり前にそばにいたころだ。うれしかったが、あの頃は、まだその言葉の本当の価値がわからなかった。
思い出すと、昔の青柳は大好きという言葉をよく口にしていた。人に対しても、ものに対しても。
たぶん、今もそれは変わらないのだろう。だとしても、小さいころから、今まで、俺にいろいろと親切にしてくれたのは、俺を大好きの一つに入れてくれていたからだと思うとうれしかった。俺も素直に大好きだと言えた。心から素直に言えた。間違いなく、昔から俺は青柳が大好きだった。もし、あの告白が、本物の俺を愛しているという、あの告白が本当だったら、俺は何と答えたろう?
いつの間にか遠い存在になっていた青柳が、もう一度、美しいけれど、弱い、柔らかな人間として感じられた。俺と等身大の一人の身近な存在として。
明日は抱きしめて、と言っていた。
青柳は、明日、勝てないと思っている。だから、友部にしたように、抱きしめてほしいといったのだろうか。俺に抱きしめられることを望んでいるということなのか。
さっき、もし、俺が、窓をよじ登って抱きしめたら喜んでくれたのだろうか?
もしかして、俺が青柳に魅かれているように、青柳も俺を思ってくれているのだろうか……?
いやいや、と俺は首を振った。玄関を上がる。何を勝手に舞い上がっているんだ、俺は。結局は、こんなことは、きっと俺の妄想に過ぎないのだろう。俺が望むようには、だれも俺を愛してはくれない。これまでも、そしてこれからも。、いつだって俺は片思いだ。
風呂の前を通ると、妹のはしゃぐ声が聞こえた。
今、この中で、絶対美少女は裸でいるんだろう。静がさぞ、その美しさに大騒ぎしているんだろう。静は、ほんとにリア充だな。
ラノベなら、突然、なぜか不意にドアが開いて、裸の美少女が現れて、たまたまそこにいた俺に怒ってけりを入れる場面だが……覗くという行為もせず、善意しかないのに、裸が向こうからやってきてくれるという都合のいい妄想、まあ、俺みたいな三流は、そんな妄想と仲良くするしか生きる道はないのかもしれない。
青柳が、俺みたいな三流にずっと恋してくれているというのも、妄想か。素敵な妄想だったな。さっき見たばかりの、窓から俺に手を振ってくれる青柳の美しさが、目に焼きついている。
五秒だけ立ち止まって、一応、ラノベイベントを待ったが、もちろん、現実は厳しい。
いくら待っても、何も起きないようなので、あきらめて階段を上る。




