逃げる人々
最初に気づいたのは、窓際に座っていた女子生徒だった。
「……ねえ、あれ」
彼女が指さした先。
校舎の向こうから、黒い煙が上がっていた。
誰かが窓を開ける。
遠くで、何かが砕ける音がした。
続いて、甲高い警報音。
『緊急通知。市街地において大規模な騒乱が発生しています。生徒は教職員の指示に従い、速やかに避難してください』
教室がざわついた。
「騒乱って、何があったん?」
「知らん。外、見てみ」
窓際に人が集まりかけた、そのときだった。
『繰り返します。速やかに避難してください』
先生が教壇を叩いた。
「全員、席を立て。荷物は置いていけ。整列して避難するんだ」
椅子が引かれる音。机にぶつかる音。誰かの焦った声。
さっきまで眠そうにしていた友人も、黙って立ち上がっていた。
「おい、行くぞ」
「ああ」
返事をしながら、僕は窓の外を見た。
煙が増えている。
大通りには人が溢れていた。走る人、立ち止まる人、誰かの手を引いて逃げる人。
その向こうで、何かが燃えていた。
何が起きているのかは分からない。
ただ、あそこにいる誰かが、今まさに逃げている。
あるいは、逃げられずにいる。
「おい、早く!」
「先行ってて」
「は?」
「すぐ追いつくから」
「こんなときに何言うてんねん。先生に怒られるぞ」
「大丈夫やって」
友人は不満そうな顔をしたが、避難する生徒の流れに押されて、やがて見えなくなった。
教室に残ったのは、僕一人だった。
廊下の向こうで、先生が誰かを呼んでいる。
「まだ残っている生徒はいないか!」
僕は返事をしなかった。
窓際まで戻り、もう一度、街を見下ろした。
交差点の中心で、人々が押し合っていた。
その中に、ひとりの男が立っている。
遠すぎて、顔は見えない。
男の周囲では、何人もの人間が叫んでいた。手には棒や、壊れた看板の破片。道路脇の設備は倒され、ガラスが散乱している。
男が腕を振り上げた。
何かを叫ぶ。声は届かない。
それでも、周囲の人々が一斉に動いたのは分かった。
逃げる者。
立ち向かう者。
ただ、立ち尽くす者。
そして、倒れたまま動かない人影。
僕は窓から離れた。
避難経路を確認するためではない。
階段へ向かうためでもなかった。
玄関とは反対側の非常口へ向かった。
*
校舎の外に出ると、サイレンの音が一気に大きくなった。
遠くで車両が急停止する。
誰かが泣いていた。
校門の前では、教職員が生徒を数えている。僕の姿に気づいた先生が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「君、何をしている! 避難はどうした!」
「向こうに行きます」
「何を言っているんだ!」
先生に腕を掴まれる。
振りほどこうとはしなかった。
ただ、目をそらさなかった。
「まだ、中に人がいるかもしれない」
「救助は専門の部隊が行う! 君が行って何になる!」
「話をします」
先生の手に力がこもった。
「行かせられるわけがないだろう!」
正論だった。
相手が何を考えているのかも、何をしようとしているのかも分からない。
近づけば、殴られるかもしれない。
殺されるかもしれない。
そもそも、話を聞いてもらえる保証すらない。
それでも。
「分からないから、話すんです」
先生が何かを言いかけた。
その瞬間、大きな破裂音が響いた。
校門の外にいた人々が悲鳴を上げ、一斉にしゃがみ込む。
先生の手が緩んだ。
その隙に腕を抜いた。
「待ちなさい!」
呼び止める声を背中で聞きながら、走り出した。
*
大通りへ近づくにつれ、空気が変わっていった。
焦げた臭い。
割れたガラス。
路上に散らばる荷物。
逃げてくる人々と、逆方向へ走る救助隊。
交差点の手前で、僕は足を止めた。
向こう側に、男がいた。
四十五歳。
旧型AI族。
その情報は、街頭に表示された緊急通知で知った。
画面には男の顔写真と、接近を避けるよう求める警告が表示されている。
男の周囲には、まだ数十人が残っていた。
誰かが何かを叫ぶ。
男が振り返る。
次の瞬間、近くにいた人々が押し合い、悲鳴が上がった。
僕は一歩、前に出た。
避難する人の肩がぶつかる。
「危ないぞ! 戻れ!」
知らない男が僕の腕を引いた。
その手を振りほどく。
男は信じられないものを見るような目で、僕を見た。
「お前、死にたいのか!」
「違います、話をしに行くんです」
相手は何も言ってこない。
僕は、もう一度前を向いた。
交差点の向こう。
男は、まだそこに立っていた。
その背中に向かって、僕は歩き始めた。
逃げていく人々の流れに、逆らって。
誰も、僕を止められなかった。
*
母は処分を受け入れていた。
父は、自ら死を望んだ。
分からない。
知りたい。
彼と話せば、分かるかもしれない。
その期待から逃げられないのは――
僕の半分が、父さんだからだろうか。




