第82話 観測者達 ~side Yui~
ルクス・ヴァルキュリア中央居住区。
人工照明の下、人の声が響いていた。
足音。食器の音。整備ドローンの駆動音。
以前のグラン・ネメシスとは違う。
ここには、“生活”があった。
その中央通路を、イリスは静かに歩いていた。
後ろにはレータ。
その少し後ろに、ユイが続いている。
レータが端末を見ながら言った。
「イリス、今日の行動予定を確認します」
イリスは少し考える。
「……散歩」
レータが止まる。
「散歩」
「はい」
「必要ですか?」
イリスは静かに周囲を見る。
子供が走っている。
難民達が話している。
整備員が怒鳴られている。
ナユがアイナと何かを食べている。
その全部を見ながら、イリスは小さく言った。
「見たいです」
命令ではなく、任務でもない。
ただ、自分の意思で見たいと言った。
ユイが少し目を細める。
以前のイリスなら、そんなことは言わなかった。
“命令ですか?”
そう聞くだけだった。
今は違う。
少しずつ、自分から動こうとしている。
居住区休憩スペース。
ナユが真剣な顔で何かを見ていた。
料理本だった。
アイナが横で説明している。
「だから砂糖はここで入れるの」
ナユは真顔だった。
「戦闘用ではないんですね」
「料理だからね!?」
その横で、リンが呆れ顔で飲み物を飲んでいる。
「お前、最近変な方向へ進化してないか」
ナユは真剣だった。
「食事は重要です」
「ラスト・オーダーの生存率向上に――」
「いや、そういう話じゃなくてな」
その様子を、イリスは静かに見ていた。
少し不思議そうに。
レータが小さく聞く。
「気になりますか?」
イリスは頷く。
「……楽しそうです」
その言葉に、ユイは少し止まる。
以前のイリスなら、効率、任務、命令しか言わなかった。
でも今は、“楽しい”という言葉の輪郭を、少しずつ理解し始めている。
その頃、ルクス観測区画。
ユイは一人で窓の外を見ていた。
巨大な宇宙。
静かな航路。
しかし、心の奥に引っかかるものがある。
アミィだった。
連絡はない。
生死不明。
グラン・ネメシス崩壊後、消息が消えている。
ユイが小さく呟く。
「……生きてるよね」
誰にも聞こえない声。
その時、後ろから足音がした。
イリスだった。
イリスは静かにユイの隣へ立つ。
数秒、何も喋らない。
やがて、イリスが小さく言った。
「……ユイは、アミィが好きなんですね」
ユイが少し吹き出す。
「何その言い方」
「違う?」
「違わないけど」
ユイは少し苦笑する。
「妹みたいなものだから」
イリスが少し考える。
その後、静かに聞いた。
「……私も?」
ユイが止まる。
イリスは真剣だった。
空っぽだった頃の顔じゃない。
少し不安そうな顔。
ユイは少し困ったように笑う。
「そう」
「イリスも」
その瞬間、イリスがほんの少しだけ笑った。
本当に小さい変化。
しかし、確かに感情だった。
ユイは少し驚く。
イリス自身も、少し驚いていた。
「……今」
「変な感じがしました」
レータが後ろから静かに言う。
「感情です」
イリスは少し考える。
そして小さく呟いた。
「……これが」
その時、後方から柔らかな声が聞こえた。
「怖がらなくて大丈夫よ」
篠宮カナデだった。
イリスは静かに振り返る。
カナデは少しだけ微笑みながら、イリスの前へしゃがみ込んだ。
「今のは感情反応」
「嬉しいとか、安心したとか」
「そういう気持ちが少しずつ形になってるの」
イリスは小さく首を傾げる。
「……異常ではありませんか?」
カナデはゆっくり首を横に振った。
「違うわ」
「それが普通なの」
「PTだからじゃない」
「あなた達も、ちゃんと心があるから」
イリスは数秒だけ黙り込む。
その間も、食堂側から騒がしい声が聞こえていた。
カナデはその方向を見ながら小さく笑う。
「急がなくていい」
「分からない事は、一つずつ覚えればいいの」
レータも静かに頷く。
イリスは再び食堂方向を見る。
少しだけ。
本当に少しだけ。
その表情が柔らかくなっていた。
その姿を見ながら、ユイは少しだけ安心する。
PTは兵器じゃない。
ちゃんと変われる。
生きられる。
そう思えた。
その時、遠くでまた食堂側から騒がしい声が聞こえる。
グリッドが何か爆発させたらしい。
クロエが怒鳴っている。
アイナが笑っている。
ナユが多分また変なことをしている。
そんな音を聞きながら、イリスは静かにその方向を見る。
「……帰る場所みたいです」
ユイは少し目を細める。
帝国でもない。
地球でもない。
戦場でもない。
それでも、今ここには確かに、居場所が生まれ始めていた。




