第406話 地球帰還
太陽系地球圏。
その表示が、ルクス・ヴァルキュリアの正面モニターに灯った瞬間、艦橋の空気がわずかに変わった。
誰かが声を上げたわけではない。
歓声が起きたわけでもない。
だが、長く張り詰めていた何かが、静かにほどけていく。
ネメシア本国圏。
インペリウム。
暫定終戦協定。
帰還航路。
そのすべてを越えた先に、青い星があった。
ジンは艦長席から航路表示を確認していた。
「太陽系外縁監視網、応答あり」
通信士が報告する。
「地球統合軍管制、ルクス・ヴァルキュリアの帰還信号を受信。識別照合中」
「こちらからも正式帰還信号を送れ。戦闘停止後の帰還報告として扱う」
「了解」
艦橋の端では、黒瀬が監査記録を開いていた。
三島はその隣で、地球側へ送る初期報告項目を整理している。
カイトとユイも艦橋に立っていた。
ユイは正面モニターを見たまま、しばらく動かなかった。
地球。
帰ってきた。
その言葉は、思っていたよりも重かった。
「帰還信号、認証通過」
通信士の声が続く。
「地球統合軍より応答。受け入れ航路を指定。艦隊護衛はなし。監視付き誘導航路へ移行」
ジンが頷く。
「妥当だな」
カイトが少しだけ苦笑する。
「さすがに、いきなり歓迎って感じではないですね」
「当然だ」
黒瀬が答えた。
「こちらは帝国本国圏から帰ってきたばかりの十キロ級母艦だ。しかも、帝国との正式停戦協定はまだ結ばれていない。受け入れながら監視するのは、地球側として正しい」
三島が端末を確認しながら続ける。
「帰還報告、暫定終戦協定、インペリウム停止、命令層中枢停止、PT保護記録、ラスト・オーダー協力記録、帝国再編評議会との窓口確認。第一報だけでもかなりの分量になります」
カイトは画面を見た。
「……戻ってきても、まだやることは多いんですね」
「戦場で止まった戦闘を、政治と記録と証言の段階へ移す必要がある」
黒瀬は静かに言った。
「先の暫定終戦協定で止まったのは、撃ち合いだ。戦争そのものを終わらせるには、地球側への報告と承認が必要になる」
ジンも頷く。
「ここから先は、艦砲ではなく、記録がものを言う」
その言葉に、艦橋の片隅にいたイリスが端末を抱え直した。
「記録は、提出用と保護用に分けます」
「頼む」
黒瀬が短く答えた。
「帝国記録をそのまま渡せば、彼女達はまた分類される。だが、何が行われたかを証明するには、帝国記録も必要だ」
「はい」
イリスは頷いた。
「命令のための記録と、帰るための記録を分けます」
地球の映像は、艦内各所へ送られた。
医療区画。
整備区画。
食堂。
観測席。
待機区画。
それぞれのモニターに、青い星が映る。
ミオは食堂の椅子に座ったまま、しばらくその映像を見上げていた。
「……帰ってきたんだ」
小さな声だった。
隣にいたレイが頷く。
「ああ」
「なんか、もっと騒ぐかと思ってた」
「疲れているのだろう」
「それもあるけど」
ミオは少し笑った。
「たぶん、実感が追いついてない」
レイは画面を見た。
彼女にとっても、地球は帰る場所だった。
だが、それは最初からそうだったわけではない。
逃げて、守られて、戦って、ようやく戻る場所になった。
「それでも、帰還だ」
「うん」
ミオは頷いた。
「帰還だね」
少し離れた席で、セラは黙って画面を見ていた。
彼女の手は、膝の上で軽く握られている。
帰る。
その言葉を、自分にも使っていいのか。
まだ分からない。
それでも、表示された地球から目を離せなかった。
ミオが気づき、隣の席を軽く叩く。
「セラ、こっち」
「……ここでいい」
「そこ遠いよ」
「遠くない」
「遠い」
セラは少しだけ眉を寄せた。
だが、結局立ち上がり、ミオの隣へ移動した。
レイは何も言わなかった。
ただ、三人で同じ画面を見た。
それだけで十分だった。
別の区画では、レータとアミィが並んで地球の映像を見ていた。
アミィは、モニターに映る青と白の渦をじっと見つめている。
「ここが、地球ですか」
「うん」
レータが答える。
「私も詳しく知ってるわけじゃないけど、ユイ達が帰ってきた場所」
「帰る場所」
「アミィにとっては、初めて行く場所だね」
アミィは少しだけ胸元に手を当てた。
自分の名前を確かめるような仕草。
「私は、ここを選びました」
「うん。アミィが選んだ」
「でも、まだ知りません」
「知らないから、見に行くんだよ」
レータの声は穏やかだった。
アミィはしばらく画面を見つめた後、小さく頷いた。
「はい。見に行きます」
その隣で、イリスが端末を開いていた。
地球帰還時の反応記録。
地球映像確認。
アミィ、本人意思による地球選択再確認。
レータ、同行意思継続。
そこで、イリスの指が止まる。
記録しようとして、言葉が追いつかない。
青い星。
帰る場所。
初めて選んだ場所。
そのどれもが、端末の短い項目には収まりにくかった。
アミィがイリスを見る。
「イリスさん?」
「はい」
「記録しますか」
「します」
イリスは少し考えてから答えた。
「ですが、まだ実感が追いつきません」
レータが微笑む。
「じゃあ、少し後でもいいんじゃない?」
「記録を後にする」
「うん。見てからでも遅くないよ」
イリスは画面を見た。
端末を閉じはしなかった。
ただ、入力する手を少しだけ止めた。
「では、少し見ます」
アミィも頷く。
「はい。一緒に見ます」
艦内の別区画では、ラスト・オーダー側の通信確認が行われていた。
カイルは通信画面の向こうで、どこか面倒そうに肩を回している。
『で、俺達はいつ帰る扱いなんだ?』
黒瀬が艦橋から応じる。
「地球帰還後、帰還報告と慰問会参加までは、今回の作戦における地球側協力部隊として出向扱いになる」
『出向?』
カイルの眉が動いた。
『俺達、いつから出向扱いになったんだ』
三島が端末から顔を上げずに答える。
「書類上はかなり前からです」
『聞いてねえぞ』
「聞かれていません」
『おい、黒瀬。お前の部下、言い方が似てきてるぞ』
黒瀬は表情を変えずに言った。
「正確でいい」
『いいのかよ』
通信画面の外から、クロエの声が入る。
『カイル。出向扱いであれば、地球側施設への一時滞在、慰問会参加、補給、整備、医療検査、休息予定を正式手続きにできます』
『最後の二つが余計だな』
さらにアイナの声が続いた。
『余計ではありません。重要です』
『ほら来た』
カイルは椅子にもたれた。
『まあ、飯が出るなら参加する。戦勝会じゃないんだろ?』
ジンが答える。
「戦勝会ではない。帰還者を迎えるための慰問会だ」
『ならいい。勝ったから騒ぐって空気じゃねえしな』
黒瀬が頷く。
「正式停戦前に戦勝を名乗るのは避ける。地球側にもそう伝える」
『堅いねえ』
「必要な硬さだ」
カイルは軽く笑った。
『じゃあ、帰還慰問会とやらには出る。その後で出向解除、ラスト・オーダーは帰投。これでいいな』
「それで整理する」
黒瀬が記録に反映する。
ラスト・オーダー。
地球側協力部隊として一時出向扱い。
帰還報告、慰問会参加後、出向解除予定。
整備区画では、グリッドが機体管理表を確認していた。
レガロンは火器関連端末を見ながら、ルクス帰還時の装備停止確認を進めている。
アシュはネヴァの管理データを無言で確認していた。
地球の映像は、整備区画の小さなモニターにも映っている。
アシュは一度だけ、その映像を見た。
青い星。
そこで誰かが騒いでいるわけではない。
命令を出しているわけでもない。
ただ、帰還先として表示されている。
「見るのは初めてか」
グリッドが尋ねる。
「映像では見たことがある」
「実物は違うぞ」
「そうか」
アシュは短く答え、再び端末へ視線を戻した。
グリッドはそれ以上言わなかった。
無理に感想を求める必要はない。
アシュは、日常の輪の中心に入る者ではない。
だが、その外側で見ている。
それだけでも、以前とは違っていた。
アルベルトとレオニスは、観測席にいた。
大きな窓の向こうに、地球が少しずつ近づいている。
アルベルトは静かにそれを見ていた。
「ここまで来るのに、ずいぶん遠回りをしました」
レオニスが隣で腕を組む。
「俺達が見る資格のある景色かは分からないがな」
「資格ではなく、責任でしょう」
アルベルトは答えた。
「彼女達がここで生きるなら、その邪魔にならないように記録を整理する。それが、私達の後始末です」
レオニスはしばらく黙っていた。
帝国に残してきたものがないわけではない。
だが、戻ったところで何かが償われるわけでもない。
ならば、自分が知っているものをこちら側で疑う。
それだけが、今できることだった。
「帝国規格は全部疑う」
レオニスが言う。
「機体も、端末も、通信層も、命令同期の残留経路も」
少し離れたところにいたリクトが頷いた。
「機械側はレオニスさん。記録側はアルベルトさん。術式層と命令層の見えない経路は、私が確認します」
アルベルトが静かに頷く。
「地球に来ても、休む暇は少なそうですね」
レオニスは小さく息を吐いた。
「それでも、命令されて戻るよりはいい」
その言葉に、三人はしばらく黙って地球を見た。
艦橋では、受け入れ航路への移行準備が進んでいた。
地球統合軍管制から、複数の通信が入る。
帰還確認。
保護対象確認。
医療支援準備。
機体隔離区画の手配。
正式報告会議の準備。
慰問会の仮設定。
黒瀬はそれらを一つずつ整理し、三島へ振り分けていく。
「三島、慰問会の名称は戦勝会にしないよう、地球側へ確認を」
「了解です。帰還者慰問会、または帰還慰労会で調整します」
「未成年者、PT組、保護対象へのアルコール提供は禁止。正式に書面で入れる」
「了解です」
カイトが思わず尋ねる。
「そこまで書くんですか」
「書く」
黒瀬は即答した。
「後で問題が起きないようにするのが監査だ」
ジンが静かに言う。
「宴席でも戦場でも、事前確認は必要ということだ」
カイトは少しだけ苦笑した。
「なんか、帰ってきた感じがします」
「こういう面倒があるからか」
「はい」
カイトは正面モニターを見る。
地球が近づいている。
青く、白く、静かに光っている。
戦場ではない場所。
でも、これから報告し、説明し、受け入れてもらわなければならない場所。
帰る場所であり、次の始まりの場所だった。
ユイは、艦橋の窓際に立っていた。
カイトが隣に来る。
「ユイ」
「はい」
「大丈夫?」
「はい」
少し間を置いて、ユイは言い直した。
「……まだ、分かりません。でも、見ています」
カイトは頷いた。
ユイは地球を見つめる。
この星に来た時、自分はまだ多くのことを知らなかった。
ユイという名前。
竜奈という名前。
地球での生活。
カイトとの出会い。
ルクス・ヴァルキュリア。
戦い。
ノクス。
そして、帰還。
「帰ってきたんですね」
「うん」
「でも、私だけの帰還ではありません」
ユイの声は静かだった。
「ミオ、レイ、セラ。レータ、アミィ、イリス。アルベルトさん、レオニスさん。ラスト・オーダーの皆さん。みんな、それぞれ違う理由でここへ来ました」
「そうだね」
「だから、地球をちゃんと見たいです。帰る場所としてだけではなく、これから選ぶ場所として」
カイトは彼女の横顔を見た。
「一緒に見るよ」
ユイは少しだけ微笑んだ。
「はい」
地球側の誘導航路が開いた。
モニター上に、ルクス・ヴァルキュリアの進路が青い線で示される。
通信士が報告する。
「地球統合軍管制より、受け入れ航路の最終承認。ルクス・ヴァルキュリア、地球側監視下で帰還進入を許可」
ジンは艦長席に座り直した。
「了解した。進路を受け入れ航路へ」
「進路、受け入れ航路へ」
艦が、静かに向きを変える。
太陽系地球が、正面モニターいっぱいに広がった。
青い海。
白い雲。
その下にある街や人々までは、まだ見えない。
けれど、そこに向かっている。
命令されたわけではない。
追われて逃げ込むわけでもない。
それぞれが選んで、ここへ来た。
ジンは静かに告げた。
「ルクス・ヴァルキュリア、太陽系地球へ帰還する」
艦橋に、静かな応答が広がる。
イリスは端末を開き、今度は迷わず記録した。
命令による帰還ではない。
それぞれが選んだ、地球への帰還。
ルクス・ヴァルキュリアは、地球側の受け入れ航路へ入っていく。
帰る者と、初めて来る者。
記録を抱えた者と、これから名前の意味を考える者。
そして、まだ終わらせるための手続きを残した者達を乗せて。
青い星へ向かって。




