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第402話 観測席の記録

 観測席は、食堂よりも静かだった。

 艦内の奥に設けられたその区画には、大きな窓と、複数の記録端末が並んでいる。

 戦闘中は索敵、航路確認、外部反応の記録に使われる場所。

 だが今は、警報もなく、急かす声もなかった。

 星の光が、窓の外をゆっくり流れていく。

 イリスは観測席の中央に座り、端末を開いていた。

 そこには、命令層中枢戦から帰還後までの記録が並んでいる。

 戦闘記録。

 機体記録。

 医療区画記録。

 食堂記録。

 ノクス管理規定。

 そして、アミィ・ルミナスの新しい呼称記録。

 イリスは、それらを一つずつ確認していた。

 削除するためではない。

 分類するためでもない。

 誰かが、自分で選んだことを残すために。


「ここにいたの」

 最初に入ってきたのは、ミオだった。

 検査後の休息を取ったとはいえ、まだ少し眠そうな顔をしている。

 それでも、食堂の時よりは表情がはっきりしていた。

 イリスは端末から顔を上げる。

「はい。記録を整理しています」

「やっぱり」

 ミオは苦笑しながら近くの椅子に座った。

「食べてからにしてって言ったけど、食べ終わったら止められないよね」

「はい。食後の記録作業は許容範囲内と判断しました」

「誰が許容したの?」

「私です」

「うん、そうだと思った」

 ミオは端末画面を覗き込む。

 そこには、命令層中枢戦の各場面が整理されていた。

 ただし、帝国の戦闘記録とは違う。

 撃破数や出力値、命令達成率だけが並んでいるわけではなかった。

 選択。

 保留。

 待機。

 非攻撃判断。

 保護領域維持。

 そうした項目が、丁寧に残されている。

「……私の記録もある?」

「あります」

 イリスは画面を切り替えた。

 ミオ・ルナ・スケイル・リフレクト。

 《ルナ・ドール・リンク》運用記録。

 撃破対象選定。

 非攻撃領域設定。

 味方退避線保持。

 通信線保護。

 帰還経路維持。

 ミオは画面を見つめ、少しだけ目を細めた。

「撃った場所じゃなくて、撃たなかった場所が残ってる」

「重要な記録です」

「そうかな」

「はい」

 イリスは迷わず頷いた。

「ミオは、撃てる範囲を広げたのではありません。撃たない場所を決めました。そのため、全員の帰還経路が残りました」

 ミオは少しだけ照れたように笑う。

「そう言われると、なんかすごいことしたみたい」

「すごいことです」

 イリスは真顔だった。

 ミオは笑いかけて、やめた。

 イリスが真剣に言っていると分かったからだ。

「そっか」

 ミオは椅子の背にもたれた。

「じゃあ、残しておいて」

「はい」


 次に入ってきたのは、セラだった。

 彼女は観測席の入口で立ち止まり、すぐには中へ入らなかった。

 ミオが気づいて手を振る。

「セラ、こっち」

「……邪魔ではない?」

「大丈夫。記録される側が来た方が、たぶん正確になるよ」

 セラは少し迷った後、中へ入った。

 イリスは端末を操作し、セラの記録を表示する。

 S系列。

 射撃戦闘記録。

 その文字が一瞬だけ映り、セラの表情が硬くなる。

 だが、イリスはすぐに別の欄へ切り替えた。

 命令層中枢戦。

 射撃保留。

 非攻撃判断。

 味方支援線保護。

 偽端末への射撃中止。

 残響索敵結果待機。

 本命端末一点狙撃。

 セラは、画面の前で黙った。

「……撃たなかったことが、記録されているの」

「はい」

「帝国の記録なら、失敗扱いになる」

 セラの声は低かった。

「射撃命令受諾。照準固定。命令対象撃破。そうでなければ、命令未達成」

 イリスは静かに聞いていた。

 セラは続ける。

「私は、撃たなかった。撃てるものを撃たなかった。それは、帝国の記録では……」

「命令違反記録ではありません」

 イリスが言った。

 セラが顔を上げる。

 イリスは画面を見ながら、淡々と続けた。

「これは命令違反記録ではありません。あなたが選んだ記録です」

 セラは言葉を失った。

 選んだ。

 撃つことではなく、撃たないことを。

 命令に逆らったのではない。

 状況を見て、待って、必要な一点だけを撃った。

 それを、選択として残されている。

「……選んだ」

 セラは小さく繰り返した。

 ミオが柔らかく言う。

「そうだよ。あの時、セラが撃たなかったから、ナユの索敵線が残った。だから本命を見つけられた」

 セラは視線を落とした。

 自分の手を見る。

 銃を握った手。

 命令で撃ってきた手。

 けれど、今その手は、撃たないことも選べた手として記録されている。

「変な感じ」

 セラが呟く。

「嫌?」

 ミオが尋ねる。

 セラは少し考えた。

「嫌ではない」

 短い返答だった。

 けれど、それで十分だった。


 レイとリンは、ほぼ同時に観測席へ入ってきた。

 後ろからナユも続く。

 ナユは眠そうだったが、足取りは安定している。

 リンはその横についていた。

 ただし、以前ほど前に出すぎてはいない。

 ナユの半歩後ろ。

 必要なら支えられる距離。

 けれど、道をふさがない距離。

 イリスはその位置取りを見て、端末に短く何かを入力した。

 リンが気づく。

「今、何を記録しましたか」

「リンの位置取りです」

「位置取り?」

「はい。護衛対象の行動を妨げない距離に修正されています」

 リンは少しだけ言葉に詰まった。

「それは、記録するほどのことでしょうか」

「重要です」

 イリスは迷わず答える。

「以前のリンなら、ナユの前に出ていた可能性があります」

 ナユが頷く。

「うん。前に出てた」

「ナユ」

「でも今は隣にいる」

 ナユは自分の横の席を軽く叩いた。

「座って」

 リンは一瞬、出入口を確認しようとした。

 だが、途中でやめた。

 そして、ナユの隣に座る。

 イリスはその動きも記録した。

 リンは苦笑に近い表情を浮かべる。

「全部記録されるのですね」

「全部ではありません。残すべきものだけです」

「それが残すべきものですか」

「はい」

 イリスは真剣に言った。

「守るために、前に出すぎなかった記録です」

 リンは黙った。

 その言葉は、予想していたよりも重かった。


 レイは腕を組み、端末の前に立っていた。

 イリスはレイの戦闘記録を表示する。

 近接戦闘記録。

 突入判断。

 待機。

 保留。

 残響索敵結果待ち。

 切断中止。

 罠発見後、最小接触で突破。

 レイは画面を見て、眉を寄せた。

「待機、保留、判断待ち……」

「はい」

「戦闘記録に残す言葉か?」

 レイの声には、不満というより違和感があった。

 帝国の記録なら、近接型の価値は突破速度、撃破数、反応時間で測られる。

 待ったこと。

 斬らなかったこと。

 それは、評価項目ではなかった。

 イリスは静かに答える。

「残す言葉です」

「なぜ」

「斬らなかったことで、罠を回避しました。待ったことで、ナユの残響索敵が間に合いました。保留したことで、セラの射線が通りました」

 レイは画面を見つめる。

 その記録は、派手ではない。

 だが、確かに戦闘の結果を変えていた。

「私は、斬れるなら斬るべきだと思っていた」

 レイが言う。

「以前は」

 ミオが小さく付け加える。

 レイはミオを見る。

 少しの沈黙の後、頷いた。

「以前は」

 その訂正に、ミオは少しだけ笑った。

「今は?」

 レイは端末の記録を見る。

「斬らないことで守れるなら、待つ」

 リンが静かに頷いた。

「私も、同じです」

 レイはリンを見る。

 二人の役割は違う。

 けれど、戦闘で前へ出る者として、同じ答えに近づいていた。

 斬るために前に出るのではない。

 守るために、斬る時と斬らない時を選ぶ。

 イリスはその会話を記録した。


 ナユは観測席の窓の近くに立っていた。

 外を見ているようで、少し違う。

 彼女は耳を澄ませるように、静かに目を細めていた。

「残響は、まだ聞こえますか」

 イリスが尋ねる。

 ナユは少し考えてから答えた。

「少し。でも、戦闘中みたいに強くない」

「不快ですか」

「ううん。今は、遠い」

 ナユは窓に手を当てた。

「でも、あの時の危ない音は、覚えてる。偽物の奥に、本命があった音」

 イリスはナユの記録を表示する。

 残響索敵。

 偽記録反応識別。

 隠匿端末発見。

 攻撃判断補助。

 退避線維持。

 ナユはその文字を見て、首を傾げた。

「私の記録、増えてる」

「はい」

「昔の記憶は、まだ全部戻ってないのに」

「今の記録は、今のナユのものです」

 イリスが言う。

 ナユは振り向いた。

「昔を思い出さないと、私の記録にならないわけじゃない?」

「はい」

 イリスは頷いた。

「失われた記録があっても、今残した記録は消えません」

 ナユは少しだけ黙った。

 リンが隣に立つ。

「ナユ?」

「うん」

 ナユは小さく笑った。

「今の私も、増えてるんだね」

「はい」

 リンは静かに答えた。

「増えています」

 その声は、護衛報告ではなかった。

 確認でもない。

 隣にいる者としての返事だった。

 ナユはリンを見上げる。

「リンも、記録に残る?」

 リンは少しだけ困ったようにイリスを見た。

 イリスはすでに端末へ入力していた。

「残っています」

「早い」

「重要なので」

 リンは少しだけ息を吐いた。

 けれど、嫌そうではなかった。


 イリスは全員分の記録を並べた。

 セラ。

 撃たなかった記録。

 レイ。

 斬らずに待った記録。

 リン。

 前に出すぎず、隣にいた記録。

 ナユ。

 残響で危険を見つけた記録。

 ミオ。

 撃たない場所を決めた記録。

 アミィ・ルミナス。

 本人応答により、名前を受け取った記録。

 ユイ。

 ノクス・レクイエムを一人で管理しないと決めた記録。

 それらは、戦果一覧ではなかった。

 撃破数でも、命令達成率でもない。

 けれど、確かに戦いを終わらせるために必要だった記録。

 そして、帰るために必要だった記録だった。

 セラが画面を見て、静かに言う。

「帝国の記録とは違う」

「はい」

 イリスは頷く。

「帝国の記録は、次に命令するための記録でした」

「これは?」

 レイが問う。

 イリスは、少しだけ考えた。

 すぐに答えられる問いだったはずなのに、きちんと言葉を選びたかった。

「これは、次に自分で選ぶための記録です」

 観測席に、静かな沈黙が落ちる。

 ミオが小さく息を吐いた。

「いいね、それ」

 ナユが頷く。

「うん。怖くない記録」

 リンも静かに言う。

「従わせるためではなく、戻るための記録ですね」

 イリスはその言葉を端末に入力した。

 戻るための記録。


 しばらくして、観測席にカナデが顔を出した。

 全員が起きていることを確認し、少しだけ目を細める。

「皆さん、休息予定は守っていますか」

 ミオが目をそらす。

「守ってる途中です」

「途中」

「記録が終わったら戻る予定」

 カナデはイリスを見る。

 イリスは端末を閉じかけていた。

「まもなく終了します」

「なら、あと少しだけです」

 カナデはそう言って、観測席の入口に立ったまま待つ。

 その姿を見て、セラが小さく呟いた。

「見張り?」

「見守りです」

 カナデが即答する。

 ミオが笑った。

「言い方だけで結構違うね」

「実際に違います」

 カナデは穏やかに言った。

「見張りは逃がさないため。見守りは、戻れるようにするためです」

 その言葉に、イリスの手が止まった。

 彼女はもう一度端末を開き、最後の注記にその言葉を加えた。

 見張りではなく、見守り。

 命令ではなく、選択。

 違反ではなく、判断。

 分類ではなく、名前。

 それらを、イリスは一つずつ記録へ残した。


 記録整理が終わる頃、観測席の外には静かな艦内音だけが残っていた。

 誰かが走る音はない。

 警報も鳴っていない。

 急いで出撃する必要もない。

 イリスは全ての記録を保存し、最後に確認画面を開いた。

 命令層中枢戦後記録。

 分類、非命令行動記録。

 保存対象、本人選択・帰還支援記録。

 旧帝国記録との扱い、別系統保存。

 イリスはゆっくり息を吸った。

 以前なら、記録は命令のために残すものだと思っていた。

 次の命令を正確に出すため。

 次の管理を効率化するため。

 次の従属率を測るため。

 けれど、今は違う。

 誰かが、自分で選んだことを忘れないため。

 迷った時に、戻る場所を見失わないため。

 命令にされたくない言葉を、そのまま残すため。

 イリスは端末を閉じた。

「命令ではありません」

 静かな声だった。

 けれど、観測席にいる全員へ届いた。

「これは、帰るために残した記録です」

 セラは自分の手を見た。

 レイは窓の外へ視線を向けた。

 リンはナユの隣に座ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。

 ナユは小さく笑った。

 ミオは、眠そうにしながらも満足げに頷いた。

 イリスは閉じた端末を胸元に抱える。

 その記録は、誰かを従わせるためのものではない。

 彼女達が、もう一度自分の足で帰るためのものだった。

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