第400話 アミィ・ルミナス
食堂の騒がしさが落ち着いた後も、アミィはしばらく窓のそばに残っていた。
外には、遠い星々が流れている。
そのどこかに、地球がある。
カイト達が帰る場所。
ユイやミオやレイが、帰ると言える場所。
セラが、遅れてでも帰っていいと言われた場所。
そして、自分がまだ知らない場所。
アミィは窓に映る自分の顔を見つめていた。
対象Aではない。
A系列でもない。
代替指揮支援個体でもない。
自分は、アミィ。
それはもう、分かっている。
けれど。
「アミィ」
後ろから声がした。
レータだった。
彼女は食器を片付けた後、アミィの隣へ来ていた。
「まだ見てたんだ」
「はい」
「地球?」
「はい。まだ見えませんけど」
「そりゃ、まだ遠いからね」
レータは窓の外を見た。
それから、アミィの横顔を見る。
「気になる?」
「はい」
アミィは素直に頷いた。
「地球も、気になります。でも……それだけではありません」
「名前のこと?」
アミィは少しだけ驚いたように、レータを見た。
レータは困ったように笑う。
「さっき、ずっと考えてたから」
「分かりますか」
「分かるよ。隣にいるから」
アミィはその言葉を、少しだけ胸の中で繰り返した。
隣にいるから。
代わりではなく。
命令でもなく。
隣。
食堂の一角に、カナデ、ユイ、イリス、アルベルトが集まっていた。
大きな会議ではない。
正式な登録手続きでもない。
ただ、アミィが自分の名前を考えるための、小さな場所だった。
カナデは温かい飲み物を置き、アミィに椅子を勧める。
「急いで決める必要はありません」
最初にそう言った。
「名前は、命令に対する応答ではありません。だから、すぐに答えを出さなくても大丈夫です」
アミィは椅子に座った。
レータは隣に座る。
ユイは少し離れた席に腰を下ろし、静かに見守っていた。
イリスは端末を持っているが、まだ起動していない。
アルベルトは、帝国記録の表示を投影卓に出すかどうか迷った後、最低限の項目だけを表示した。
対象A。
A系列。
代替指揮支援個体。
L系列欠損補完。
セレスティア支援中核。
文字が並ぶ。
アミィの表情が、わずかに硬くなった。
レータが隣で手を伸ばしかけたが、途中で止める。
代わりに、アミィの方を見て待った。
アルベルトが静かに言う。
「これは帝国側の分類です」
アミィは画面を見たまま、瞬きをした。
「分類」
「はい。名前ではありません」
アルベルトの声は、はっきりしていた。
「対象Aという表記は、帝国があなたを運用するために付けたものです。A系列という言葉も、代替指揮支援個体という記録も、あなたを管理するための分類であって、あなた自身の名前ではありません」
アミィは、画面の文字を見つめる。
怖くないわけではなかった。
その文字には、まだ過去の重さがあった。
けれど、以前とは違う。
それを名前だと思わなくていい。
そのことを、今、誰かが言葉にしてくれている。
「では、私は……」
アミィは小さく言った。
「対象Aでは、ないんですね」
「はい」
アルベルトは頷いた。
「あなたがそう名乗らない限り、それはあなたの名前ではありません」
イリスが静かに付け加える。
「記録上も、本人の応答を優先できます」
アミィはイリスを見る。
「本人の応答」
「はい。旧記録は削除しません。何が行われたかを残すために必要です。しかし、呼称記録は更新できます」
イリスは端末を開いた。
だが、まだ入力しない。
「アミィが、どう記録されたいかを待ちます」
レータは少しだけ姿勢を正した。
普段の軽さが、少しだけ引いている。
「私、考えてたんだ」
アミィがレータを見る。
「名前を、ですか」
「うん。勝手に決めるつもりはないよ。だけど、もしアミィがもう一つ名前を持ちたいなら、候補くらいは出してもいいかなって」
レータは少し照れたように頬をかいた。
「変だったら、すぐ却下していいから」
「却下」
「うん。アミィが嫌なら、それで終わり」
アミィはその言葉に、少しだけ不思議そうな顔をした。
嫌なら終わり。
そんなふうに名前の話をしていいのか。
帝国では、与えられた分類を拒否する余地などなかった。
けれど今、レータは拒否していいと言っている。
それだけで、アミィは少し安心した。
「聞かせてください」
レータは頷いた。
「ルミナス」
その言葉が、静かに落ちた。
アミィは繰り返す。
「ルミナス」
「うん。アミィ・ルミナス」
レータは少しだけ視線を落とした。
「光る、とか、明るい、とか。そういう意味があるって聞いた」
カナデが穏やかに補足する。
「暗い場所から出てきた光、という意味にもできます。誰かに照らされるだけではなく、自分で光を持つ、という受け取り方もできますね」
「自分で、光を持つ」
アミィはその言葉を、ゆっくり口の中で転がした。
光。
命令層の光ではない。
照合波の光でもない。
セレスティアの制御光でもない。
自分の中にあるもの。
あるかどうかも分からなかったもの。
けれど、戦闘の中で守った声が残っていたように、もしかしたら光も残っているのかもしれない。
ユイが静かに言った。
「いい名前だと思います」
アミィはユイを見る。
「ユイさんも、そう思いますか」
「はい」
ユイは少し考えてから続けた。
「でも、大事なのは、私達がいいと思うことではありません。アミィが、その名前で呼ばれたいと思うかどうかです」
アミィは視線を落とした。
「呼ばれたいかどうか」
「はい」
ユイの声は柔らかかった。
「名前は、誰かが勝手に貼るものではないと思います。少なくとも、今は」
アルベルトが小さく頷く。
「帝国は、先に分類しました。本人の応答を待たなかった。それが、間違いでした」
カナデも続ける。
「だから今回は、待ちます」
レータがアミィを見る。
「ゆっくりでいいよ」
イリスも、端末を持ったまま待っている。
誰も急かさない。
誰も命じない。
誰も、その名前で登録しろとは言わない。
アミィは、初めて名前を選ぶために沈黙した。
沈黙の中で、アミィはこれまでのことを思い出していた。
最初に聞こえた命令。
自分ではないものとして扱われた記録。
対象A。
代替。
補完。
支援。
セレスティア。
そのどれもが、役割だった。
誰かの不足を埋めるための言葉。
誰かの命令を成立させるための言葉。
けれど、アミィという名前は違った。
戦闘の中で、自分で守った。
私は、アミィです。
そう言った時、誰かの代わりではなかった。
そして今、もう一つの名前が差し出されている。
命令ではなく。
分類ではなく。
隣にいる人から。
「レータさん」
「うん」
「どうして、その名前を考えてくれたんですか」
レータは少しだけ困ったように笑った。
「んー……私が、そう呼びたかったから、かな」
「レータさんが?」
「うん。でも、呼びたいだけじゃ駄目だから。アミィが嫌じゃないなら、って思った」
レータは窓の外を少し見た。
「アミィは、ずっと暗いところにいたと思う。命令とか、記録とか、セレスティアとか。私の代わりだって言われたりもした」
アミィは黙って聞く。
「でも、最後に自分で返事をした。戻らないって。ここにいるって。私は、それが……光みたいに見えた」
レータの声は、少しだけ照れていた。
「だから、ルミナス。変かな」
アミィは首を横に振った。
「変では、ありません」
「そっか」
「でも、少し……大きい名前です」
レータは瞬きをする。
「大きい?」
「はい。私は、まだ光っているか分かりません」
その言葉に、カナデが微笑む。
「名前は、今の自分だけを表すものではありません。これからどう生きたいかを入れてもいいんです」
「これから」
「はい。今はまだ小さな光でも、これから大切にしていけばいい」
アミィは胸元に手を当てた。
医療区画で、自分の声を確かめた時と同じように。
そこに、はっきりした光があるわけではない。
でも、何もないわけではなかった。
イリスは端末を開いたまま、まだ何も入力していなかった。
アルベルトも、帝国旧記録の画面を閉じている。
投影卓には、今は空白の登録欄だけが表示されていた。
呼称記録。
本人応答待ち。
アミィはその空白を見つめた。
帝国の記録は、先に埋まっていた。
対象A。
A系列。
代替指揮支援個体。
そこに本人の声が入る場所はなかった。
けれど今は違う。
空白がある。
自分で答えるまで、誰も埋めない空白。
アミィは、ゆっくり息を吸った。
「私は」
全員が、静かに待つ。
「私は、アミィです」
まず、その名前を言った。
それは、戦闘の中で守った名前。
消えなかった声。
そこから、もう一歩だけ進む。
「そして……」
アミィはレータを見た。
レータは何も言わず、ただ頷いた。
「アミィ・ルミナス、です」
言葉にした瞬間、アミィは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
大きすぎると思った名前。
けれど、拒みたい名前ではなかった。
誰かに押しつけられた分類ではない。
自分で受け取った名前だった。
イリスが静かに尋ねる。
「記録名を更新しますか」
アミィはイリスを見る。
それから、はっきり頷いた。
「はい」
少し間を置いて、もう一度言う。
「私は、アミィ・ルミナスです」
イリスの指が端末に触れた。
旧記録は削除しない。
それは、帝国が何をしたかを残すために必要だった。
けれど、呼称記録は更新される。
対象Aではない。
A系列でもない。
代替指揮支援個体でもない。
新しい欄に、文字が刻まれていく。
アミィ・ルミナス。
本人の応答により、記録名を更新。
イリスはその文字を確認し、静かに言った。
「記録しました」
アミィは画面を見る。
そこに、初めて自分で受け取った名前があった。
帝国の分類とは違う。
命令の記号とも違う。
呼ばれたいと、自分で認めた名前。
ユイが小さく微笑む。
「アミィ・ルミナスさん」
アミィは少し驚いたように顔を上げた。
カナデも続ける。
「はい。アミィ・ルミナスさん」
レータが少し照れくさそうに笑う。
「アミィ・ルミナス」
その声を聞いた時。
アミィは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
名前を呼ばれることが、怖くない。
分類されることと、呼ばれることは違う。
その違いが、ようやく分かった気がした。
「はい」
アミィは答えた。
その返事は、少し震えていた。
けれど、命令に引かれた震えではなかった。
「私は、ここにいます」
レータが隣で頷く。
「うん。隣にいる」
しばらくして、イリスは記録文を整えた。
アミィはまだ画面を見ている。
アルベルトは、旧記録と新記録の紐付けを慎重に確認した。
「旧記録は封印ではなく、参照制限付きで保護します。本人の同意なしに運用記録として使われないようにします」
黒瀬へ送るための注記も加えられる。
カナデは心理記録欄に短く記入する。
本人応答安定。
名前受容時、強い拒絶反応なし。
自己認識継続。
ユイはそれを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
「よかった」
アミィが尋ねる。
「ユイさん」
「はい」
「名前を持つと、少し怖いです」
ユイは目を瞬かせた。
アミィは続ける。
「失くしたくないと思うからです」
ユイはその言葉を、ゆっくり受け止めた。
そして、静かに答える。
「それなら、失くさないように一緒に覚えます」
「一緒に?」
「はい。アミィ・ルミナスさんが忘れそうになったら、私達が呼びます」
レータがすぐに頷く。
「何回でも呼ぶよ」
イリスも言う。
「記録にも残します」
カナデが微笑む。
「でも、一番大事なのは、あなた自身がその名前に返事をしていいと思えることです」
アミィは胸元に手を当てた。
アミィ。
アミィ・ルミナス。
どちらも、自分を縛るための名前ではない。
自分が返事をするための名前。
「はい」
アミィは小さく答えた。
「私は、この名前に返事をします」
食堂の窓の外には、まだ遠い星々が流れていた。
地球は見えない。
けれど、向かう場所は少しずつ決まり始めている。
アミィ・ルミナスは、窓に映る自分の顔をもう一度見た。
さっきまでと同じ顔。
けれど、そこに映る名前は違っていた。
対象Aではない。
アミィ・ルミナス。
本人の応答により、記録名を更新。
イリスが端末に最後の一文を加える。
命令による改名ではない。
分類変更でもない。
本人が、これから生きるために受け取った名前。
アミィはその文字を見た。
そして、初めて少しだけ笑った。
その笑みは小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
命令層の暗さから出て、誰かに照らされるだけではなく。
自分の中に残った小さな光を、これから守っていくために。
彼女は、その名前を受け取った。




