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第397話 医療区画の声

 医療区画の照明は、戦闘時より少しだけ柔らかく落とされていた。

 白い壁。

 並んだ診療ベッド。

 低く鳴る検査装置の音。

 そのどれもが、戦場の光や警報とは違っている。

 それでも、そこに集められた者達の身体には、まだ戦闘の名残が残っていた。

「ユイ。右腕の感覚低下は?」

「少し、あります」

「少し、という表現は便利だが曖昧だ。指先は動くか」

「はい」

「握力は」

「……普段より弱いです」

 モルドは端末に数値を入力しながら、淡々と頷いた。

「ノクス・レクイエム使用後の神経負荷。想定範囲内ではあるが、軽いとは言えん。今日は機体には近づくな」

「見るだけでも、駄目ですか」

「駄目だ」

 即答だった。

 ユイは少しだけ困ったように眉を下げる。

 そばで聞いていたカイトが、小さく息を吐いた。

「モルド先生がそう言うなら、今日は休んだ方がいい」

「でも、ノクスの状態が……」

「グリッドさん達が見てる。ユイが倒れたら、そっちの方が困る」

 ユイはすぐには答えなかった。

 いつもなら、大丈夫です、と言っていた。

 気にしないでください、とも言っていたかもしれない。

 だが、今はその言葉を飲み込んだ。

「……分かりました」

 モルドが端末から顔を上げる。

「本当に分かっているか」

「はい。今日は、休みます」

「よろしい」

 その一言で、検査ベッドの横にいたアイナが、すぐに休息予定表へ印を入れた。

「ユイさん、検査後は三時間の安静。その後、軽食です。カフェインは控えてください」

「そこまで決まっているんですか」

「決めておかないと、皆さん休みません」

 アイナは真面目な顔で言った。

 カイトは苦笑し、ユイも小さく瞬きをした。

 医療区画の中に、わずかに日常の空気が戻ってくる。


 隣のベッドでは、ミオが検査装置に腕を通したまま、半分眠りかけていた。

「ミオさん。起きていますか」

「……起きてるよ」

「目が閉じています」

「これは、目を休ませてるだけ……」

「では、口頭確認です。《ルナ・ドール・リンク》使用後、頭痛はありますか」

「ある」

「視界の揺れは」

「ある」

「耳鳴りは」

「ある」

「では全部ありますね」

「……うん」

 アイナが検査表に淡々と記入していく。

 ミオはベッドに背中を預け、力なく笑った。

「さすがに、ちょっと使いすぎたかも」

 カナデが近づく。

「多重管制の反動ですね。眠気が強いのは、身体が休息を求めている証拠です」

「でも、まだ確認しないといけないことが……」

「あります。でも、今すぐあなた一人が確認しなければならないものではありません」

 ミオはその言葉に、目を開いた。

 どこかで聞いたような言葉だった。

 一人で持たなくていい。

 切った後を、受け取る。

 それはユイだけの話ではなかった。

「そっか」

 ミオは小さく呟いた。

「私も、休んでいいんだ」

「もちろんです」

 カナデが頷く。

「支える人が倒れたら、支えられる人達も困りますから」

「うわ、それ言われると反論できない」

 ミオは苦笑し、そのまま目を閉じた。

「じゃあ、少しだけ寝る」

「検査が終わってからです」

 アイナが即座に言った。

「……厳しい」

「必要な厳しさです」


 レータは、アミィの隣の椅子に座っていた。

 検査装置がアミィの手首と首筋に小さな光を当てている。

 アミィは動かなかった。

 背筋を伸ばし、視線を落としたまま、何かを待つようにじっとしている。

 モルドが数値を確認する。

「再同期波の後遺反応は残っている。ただし、命令層への再接続反応はない」

 アミィが微かに顔を上げた。

「再接続、していないんですか」

「ああ」

「本当に?」

 その声は小さかった。

 だが、確かに自分で尋ねた声だった。

 モルドは端末をアミィに見せる。

「見ても分かりにくいだろうが、命令層由来の同期波形は消えている。残っているのは疲労と、過緊張と、身体が覚えている反射だ」

「身体が、覚えている……」

「怖かったことを、身体はすぐには忘れん」

 アミィは手を見下ろした。

 指先が少し震えていた。

「では、この震えは、命令ではないんですね」

「違う」

 モルドは短く答えた。

「怖かったから震えている。それだけだ」

 その言い方は、優しくはなかった。

 だが、嘘がなかった。

 アミィはゆっくりと息を吐いた。

 レータが隣で言う。

「怖かったんだよ。だから、震えてる」

「……はい」

「命令じゃなくても、身体は動くし、止まるし、震えるんだよ」

 アミィはレータを見た。

「レータさんも、震えますか」

「震えるよ」

 レータは少しだけ笑った。

「さっきだって、結構怖かった」

「レータさんも?」

「うん。私も」

 アミィはその答えを、少し不思議そうに受け止めた。

 強い人も、怖いと思う。

 守る人も、震える。

 それは、アミィの中にまだなかった感覚だった。


 カナデは椅子を引き寄せ、アミィの前に座った。

「アミィさん」

「はい」

「今、何か聞こえますか」

 アミィは目を閉じた。

 医療区画の音が聞こえる。

 検査装置の小さな駆動音。

 アイナが端末を操作する音。

 ミオが眠気と戦っている息遣い。

 ユイとカイトの低い会話。

 レータが隣で椅子をずらす音。

 けれど、そこに命令はなかった。

 戻れ。

 補完せよ。

 代替せよ。

 支援せよ。

 その声は、もう聞こえない。

 アミィは目を開けた。

「命令は、聞こえません」

「では、自分の声は?」

 アミィは答えようとした。

 けれど、そこで止まった。

 自分の声。

 それが何なのか、まだはっきり分からなかった。

 戦闘中には言えた。

 私は、アミィです。

 戻りません。

 ここにいます。

 だが、命令が止まった後。

 静かな医療区画で。

 戦闘が終わった今も、それが残っているのか。

 アミィには、少し不安だった。

「……分かりません」

 正直にそう言うと、レータが何かを言いかけた。

 だが、カナデがそっと目で止める。

 レータは口を閉じた。

 待つ。

 それが、今のレータにできることだった。

 カナデは穏やかに尋ねる。

「分からない、と思ったのは誰ですか」

 アミィは瞬きをした。

「……私、です」

「では、それはあなたの声です」

 アミィは息を止めた。

 カナデは続ける。

「はっきりした答えだけが、自分の声ではありません。不安です、分かりません、怖いです。そう思えることも、あなたの中から出てきた反応です」

「でも、私は……命令がなくなったら、何も残らないのかと」

「声は、命令層が作っていたものではありません」

 カナデの声は、静かだった。

「命令層は、あなたの返事を加工していただけです。命令に合わせて、形を変えさせていた。けれど、元になる返事は、あなたの中にありました」

 アミィは胸元に手を当てた。

 そこに何かがあるわけではない。

 けれど、確かめずにはいられなかった。

「では、私が言った言葉は……」

「あなたの言葉です」

「私は、アミィです、という言葉も?」

「はい」

 カナデが頷く。

「あなたが守った名前です」

 アミィの指が、胸元で少しだけ握られる。

「名前……」


 少し離れたベッドで、ユイはその会話を聞いていた。

 検査用の端子が外され、腕の感覚が少しずつ戻ってくる。

 カイトはベッドの横に立っていた。

 モルドは端末を確認しながら言う。

「ユイ。頭痛は」

「あります」

「吐き気は」

「少し」

「視界の揺れは」

「あります」

「隠さなくなったのは進歩だな」

 ユイは少しだけ視線を落とした。

「隠していたわけでは……」

「隠していた」

 モルドが即答する。

 カイトも横から言う。

「隠してたな」

「カイトまで」

「だって、前なら全部『大丈夫です』で済ませてただろ」

 ユイは返す言葉を探したが、見つからなかった。

 結局、小さく頷く。

「……はい。隠していました」

 モルドは満足したように端末へ記録を入れた。

「よし。では次からも隠すな。負荷を隠す者に、危険機体の管理は任せられん」

 その言葉に、ユイは顔を上げた。

「ノクスの管理……」

「まだ正式には決まっていない。だが、少なくともお前一人が抱えるものではない」

 カイトが静かに続ける。

「俺も確認する。黒瀬さんも、ジン艦長も、リクトさん達も見る。だから、ユイだけが無理して平気な顔をする必要はない」

 ユイはしばらく黙っていた。

 ノクス・レクイエムは、確かに自分にしか扱えない部分がある。

 けれど、扱えるからといって、一人で持つ必要はない。

 第340話で、ミオが受け取ってくれた。

 レータとアミィが守ってくれた。

 イリスが記録を重ねてくれた。

 カイトが通信を繋いでくれた。

 その後も同じでいいのだと、今になって少し分かった。

「……次からは、言います」

「次からじゃなくて、今もだ」

 カイトが言う。

 ユイは少し驚いて、それから小さく笑った。

「はい。今、少し頭が痛いです。腕も重いです。あと、眠いです」

「よろしい」

 モルドが頷く。

「では寝ろ」

「今すぐですか」

「今すぐだ」

 アイナがすでに毛布を持ってきていた。

 カイトが笑いをこらえる。

 ユイは困ったように眉を下げたが、今度は逆らわなかった。


 レイは検査ベッドの上で、腕を組んだまま座っていた。

 アイナが端末を見ながら言う。

「筋肉負荷、神経反応ともに高めです。今日は訓練禁止です」

「訓練ではなく、確認なら」

「禁止です」

「素振り程度なら」

「禁止です」

「……分かった」

 レイは不満そうだったが、引き下がった。

 隣ではセラが射撃補助神経の検査を受けている。

 彼女は自分の手を見つめ、静かに呟いた。

「撃たなかったのに、疲れるのね」

 ミオが眠そうな顔を上げる。

「撃たないのも、結構疲れるよ」

 セラは少しだけ目を細めた。

「そう」

「うん。選ぶって、疲れる」

 その言葉に、セラは何も返さなかった。

 だが、拒絶もしなかった。

 少し離れて、リンとナユも検査を受けていた。

 ナユは残響索敵の反動で、音に少し敏感になっている。

 リンはその横に立とうとして、アイナに椅子へ座らされていた。

「護衛中でも座ってください」

「しかし」

「ナユさんが休むためにも、リンさんが休んでください」

 ナユが小さく笑う。

「リン、座って」

「……分かりました」

 リンはようやく座った。

 その姿を見て、レータが小さく笑う。

 医療区画に、少しだけ穏やかな空気が流れた。

 戦場で張り詰めていた糸が、一本ずつほどけていく。

 それは、戦いの終わりというより、休むことを許されていく時間だった。


 アミィは、まだ胸元に手を当てていた。

 名前。

 アミィ。

 それは自分が守った言葉だと、カナデは言った。

 けれど、それだけでいいのか。

 そんな考えが、胸の奥に小さく浮かんだ。

 帝国の記録には、対象Aとあった。

 A系列。

 代替指揮支援個体。

 補完制御。

 セレスティア支援中核。

 どれも名前ではなかった。

 では、自分はこれから、何と名乗るのだろう。

「アミィさん?」

 カナデが気づいて声をかける。

 アミィは少し迷ってから、口を開いた。

「アミィ、だけでいいのでしょうか」

 レータが目を瞬かせる。

「名前の話?」

「はい」

 アミィは小さく頷いた。

「私は、アミィです。でも……これからもずっと、それだけでいいのか、少し分かりません」

 カナデはすぐに答えなかった。

 それは今すぐ決めるべきことではないと、分かっていたからだ。

「急がなくて大丈夫です」

「急がなくて、いいんですか」

「はい。名前は、命令のように即時応答するものではありません。これから生きる自分に合うものを、ゆっくり受け取っていいんです」

 アミィはその言葉を、ゆっくり考えた。

 レータが隣で言う。

「今はアミィでいいよ。これから増やしたくなったら、その時に考えよう」

「増やす……」

「うん。名前って、奪われるものじゃなくて、持っていくものだから」

 アミィは少しだけ目を伏せた。

 持っていくもの。

 それは、まだ実感のない言葉だった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 検査が一段落した頃、医療区画は少し静かになった。

 ミオはようやく眠ることを許され、毛布をかけられている。

 ユイも目を閉じていたが、カイトがそばにいることを確認するように、時々指先を動かしていた。

 レイは不満そうに休息用の椅子へ座り、セラはそれを横目で見ている。

 リンはナユの隣で座ったまま、まだ完全には警戒を解いていない。

 ナユは目を閉じ、医療区画の静かな音を聞いていた。

 モルドは端末を閉じる。

「全員、命に関わる異常はない。ただし、全員が休息不足だ」

 アイナが休息予定表を掲げる。

「順番に食事と睡眠を取ってもらいます。拒否は受け付けません」

 カイトが小さく笑う。

「強いな、アイナさん」

「必要です」

 アイナは真顔だった。

 そのやり取りを聞きながら、アミィはゆっくり顔を上げた。

「カナデさん」

「はい」

「私は、まだ……ここにいます」

 声は小さかった。

 けれど、医療区画の中で確かに響いた。

 誰もそれを命令として処理しなかった。

 誰も記録番号に変換しなかった。

 カナデはアミィの前に立ち、静かに微笑んだ。

「はい」

 そして、ゆっくりと言った。

「命令が止まっても、あなたの声は残っています」

 アミィは胸元に置いた手を、少しだけ強く握った。

 そこにある声を、逃がさないように。

 そして、隣にいるレータが、それを急かさず待ってくれていることを確かめるように。

 医療区画の照明は、変わらず穏やかだった。

 戦場の光ではない。

 命令層の光でもない。

 戻ってきた者達が、ようやく自分の声を聞き直すための光だった。

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