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第396話 帰還信号

 帰還信号が、静かに灯った。

 それは勝利を告げる警報ではなかった。

 戦闘終了を示す派手な音も、艦内を揺らす歓声もない。

 ルクス・ヴァルキュリアの格納区画に広がっていたのは、疲労と、安堵と、まだ完全にはほどけていない緊張だった。

『アルタイル・ノヴァ・ブレイス、帰還軌道に入ります』

『ノクス・レクイエム、誘導線確認』

『ルナ・スケイル・リフレクト、収容準備完了』

 通信士の声が、ひとつずつ機体名を読み上げていく。

 その声は普段よりも少しだけ低かった。

 誰も、軽々しく笑えなかった。

 それでも、誰も撃たれていない。

 誰も命令されて戻ってきているわけではない。

 その事実だけが、艦内にゆっくりと染み込んでいった。


 最初に格納区画へ入ったのは、アルタイル・ノヴァ・ブレイスだった。

 白い機体表面には、細かな焼け跡と衝撃痕が残っている。

 続いて、ノクス・レクイエムが誘導光に従って降下してくる。

 黒い機体は、まるでまだ戦場の闇をまとっているように見えた。

 グリッドは整備デッキの端に立ち、腕を組んだままモニターを睨んでいた。

「ノクス、右腕部の反応がまだ高い。主系統を切るな。まず補助系から落とせ」

「了解。補助系停止準備」

 レガロンが隣で別の端末を操作する。

「ルナ・スケイル・リフレクト、管制端末が熱を持ちすぎている。無理に冷却を急がせるな。中の子の負荷も見ろ」

「おい、そっちは医療班の管轄だろ」

「機体が焦げれば、乗り手も無事では済まん」

「……それもそうだな」

 グリッドは短く息を吐き、次の機体へ視線を移した。

 ヴァナルガンド。

 フェンリオン・リサイト。

 ヴァルクレイド・セレス。

 ロス・セレネ。

 ヴァイス・リッパー・リビルド。

 そして、ネヴァ。

 それぞれの機体が、順番に帰ってくる。

 格納区画の誘導灯が、ひとつずつ青へ変わっていった。

 それは、戦闘可能の表示ではない。

 収容完了の表示だった。


 医療区画では、モルドがすでに準備を終えていた。

 診療ベッドが並び、簡易検査装置が起動している。

 アイナは検査表を確認しながら、休息用の毛布と飲み物を用意していた。

「重症者は?」

「現時点では報告なし。ただし、全員が過負荷状態です」

「当然だ。勝ったから健康になるわけじゃない」

 モルドは淡々と言った。

「動ける者から順に入れろ。特にユイ、アミィ、レータ、ミオは最優先だ」

「はい」

 アイナが頷く。

 その直後、医療区画の扉が開いた。

 レータに付き添われて、アミィが入ってくる。

 彼女の足取りはゆっくりだった。

 それでも、誰かに引かれているわけではない。

 命令に従って歩いているわけでもない。

 自分の足で、ここへ来ていた。

「アミィさん、こちらへ」

 アイナが柔らかく声をかける。

 アミィは一度、レータの方を見た。

 レータは笑って、少しだけ肩をすくめる。

「大丈夫。検査だけだよ。命令じゃない」

「……はい」

 アミィは小さく頷き、自分で診療ベッドの前まで歩いた。

 そこに腰を下ろすまで、誰も急かさなかった。

 カナデがそばに立ち、静かに言う。

「今、何か聞こえますか」

 アミィは目を伏せた。

 少しの沈黙。

 そして、首を横に振る。

「命令は、聞こえません」

「では、自分の声は?」

 アミィは胸元に手を当てた。

 確認するように、ゆっくり息を吸う。

「……あります」

 その言葉に、レータの表情がほんの少し緩んだ。

「よかった」

 アミィはレータを見上げる。

「レータさん」

「なに?」

「ここに、戻ってきたんですね」

「うん」

 レータは頷いた。

「戻ってきたよ。ちゃんと、二人で」


 ノクス・レクイエムのコクピットが開いた。

 ユイはしばらく動かなかった。

 計器の光が落ちていく。

 命令層切断に使った系統は、すでに沈黙している。

 だが、身体の奥にはまだ、あの感覚が残っていた。

 切った線。

 切った後に生まれた空白。

 そこへ伸びてきた仲間の支援網。

 もう一人で持たなくていいと、そう言ってくれた声。

「ユイ」

 外からカイトの声がした。

 ユイは顔を上げる。

 カイトが昇降デッキに立っていた。

「降りられるか」

「……はい」

 ユイはそう答えて、立ち上がろうとした。

 けれど、足に力が入らなかった。

 視界が一瞬、揺れる。

「ユイ!」

 カイトが手を伸ばす。

 ユイは反射的に「大丈夫です」と言いかけた。

 いつものように。

 心配をかけないように。

 自分で立てると言い張るように。

 けれど、その言葉は途中で止まった。

 ユイは少しだけ唇を噛み、カイトの手を見た。

「……少しだけ」

「え?」

「少しだけ、支えてください」

 カイトは一瞬だけ目を見開いた。

 それから、迷わず頷く。

「ああ」

 ユイはカイトの手を取った。

 昇降デッキへ降りる。

 足元はまだ頼りなかったが、倒れなかった。

 カイトが支えていたからではない。

 支えてほしいと言えたからだった。

「ノクスは?」

 ユイが振り返る。

 黒い機体は、格納区画の奥で静かに沈黙していた。

 グリッドが端末越しに声を飛ばす。

「こいつはすぐ封印ってわけにはいかん。後で細かく見る。まずお前が医療区画へ行け」

「でも――」

「でもじゃない」

 別の声が割り込んだ。

 モルドだった。

「機体の心配は整備班がする。乗り手の心配は医療班がする。今はこっちに従え」

 ユイは少しだけ困ったように瞬きをした。

 カイトが横で苦笑する。

「今回は従った方がいい」

「……はい」

 ユイは素直に頷いた。

 それだけで、カイトは少し安心した。


 艦橋では、ジンが通信画面を見つめていた。

 暫定終戦協定後の通信が、複数の回線から届いている。

 帝国再編評議会準備室。

 レオン隊。

 地球統合軍への中継回線。

 監察記録保全部。

 どれもまだ確定したものではない。

 戦闘は止まった。

 だが、戦争そのものが完全に終わったわけではない。

 黒瀬は隣で記録を確認していた。

「追撃停止の確認は取れました。レオン隊からも、通常軍側の攻撃停止命令が出ています」

「監察局残党は?」

「完全沈黙ではありません。ただ、単独行動はかなり制限されています。少なくとも、すぐこちらを追える状態ではない」

「そうか」

 ジンは短く息を吐いた。

 三島が別端末から顔を上げる。

「地球側への正式報告は、帰還後になります。現時点で結べるのは、あくまで暫定合意までです」

「分かっている」

 ジンは艦橋の正面モニターへ視線を戻した。

 そこには、収容区画から送られてくる機体一覧が表示されている。

 全機、帰還済み。

 全搭乗者、生命反応確認。

 その文字を見て、ジンはほんの少しだけ目を細めた。

 勝利したという実感は、まだなかった。

 ただ、戻ってきた。

 その事実だけがあった。


 医療区画には、次々と人が運び込まれていた。

 ミオは検査ベッドに座った途端、ほとんど眠りかけていた。

「寝るなら検査が終わってからにしてください」

 アイナが言う。

「うう……あと少しだけ……」

「その『少しだけ』で検査結果が取れません」

 ミオは小さくうなだれる。

 近くでは、レイが腕を組んだまま立っていた。

「私は問題ない」

 モルドが即座に言う。

「その言葉を言う者ほど問題がある」

「本当に問題ない」

「では検査して確認する」

「……」

 レイは黙った。

 セラはその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。

 リンはナユのそばに立っていたが、アイナに視線を向けられるとすぐに姿勢を正した。

「リンさんも検査対象です」

「私は護衛を――」

「護衛対象が検査を受けるなら、護衛も休んでください」

 ナユが隣で小さく笑う。

「リン、怒られてる」

「……怒られてはいません」

「注意されています」

 アイナが訂正した。

 そのやり取りに、医療区画の空気が少しだけ柔らかくなる。

 戦闘の緊張は、まだ抜け切っていない。

 それでも、声が戻ってきていた。

 命令ではない声。

 誰かを急かす声ではなく、休ませるための声だった。


 アミィは、診療ベッドの上で自分の手を見ていた。

 指先は少し震えている。

 けれど、さっきまでとは違う。

 命令に引かれている震えではなかった。

 疲れているだけだ。

 怖かっただけだ。

 そう分かることが、アミィにはまだ不思議だった。

 カナデがそっと近づく。

「疲れましたか」

「はい」

「怖いですか」

「……少し」

「それでいいんです」

 アミィは顔を上げた。

 カナデは優しく続ける。

「怖いと思えるのは、あなたが今の自分の状態を感じ取れているからです。命令に塗りつぶされていたら、その怖さも分からなくなります」

「怖くても、いいんですか」

「はい。怖くても、ここにいていいんです」

 アミィはゆっくり息を吐いた。

 レータが隣の椅子に座る。

「じゃあ、今日は怖いまま休もう」

「怖いまま、ですか」

「うん。無理に平気なふりをしなくていいってこと」

 アミィは少し考えてから、頷いた。

「……はい。では、怖いまま、休みます」

 その言い方があまりに真面目で、レータは少し笑いそうになった。

 けれど、笑わなかった。

 代わりに、静かに言う。

「おかえり、アミィ」

 アミィは目を瞬かせた。

 その言葉を、何度か心の中で確かめるように。

「ただいま、で……いいんですね」

「いいよ」

 レータが即答する。

「ここは、戻ってきていい場所だから」

 アミィは小さく頷いた。

「ただいま、レータさん」


 格納区画の照明が、通常光へ戻っていく。

 戦闘時の赤い警戒灯は消えていた。

 整備兵達の足音が響く。

 工具の音が鳴る。

 冷却装置が低く唸る。

 グリッドはノクス・レクイエムの前に立ち、険しい顔で機体を見上げていた。

 隣では、レガロンがヴァルクレイド・セレスの状態を確認している。

「どいつもこいつも、よく動いたもんだ」

 グリッドがぼやく。

「壊れなかっただけ上等だ」

「壊れた方が楽な部品もあるぞ」

「それは整備士の言葉か?」

「整備士だから言ってんだよ」

 グリッドはそう返しながらも、視線は機体から離さなかった。

 これらはただの兵器ではない。

 誰かを縛った記録もある。

 誰かを守った記録もある。

 簡単に処分していいものではなかった。

 簡単に返していいものでもなかった。

「……帰ってきたのは人間だけじゃない、か」

 グリッドは小さく呟いた。

 レガロンが聞き返す。

「何か言ったか」

「何でもねえ。こいつらの後始末が面倒だって話だ」

「いつものことだ」

「そうだな」

 グリッドは端末を操作し、機体一覧に収容完了の印を入れた。


 艦橋に、最後の確認音が鳴った。

 三島が報告する。

「全機収容完了。搭乗者全員、医療区画または待機区画へ移動済みです」

 黒瀬が続ける。

「外部通信、暫定終戦協定に基づく追撃停止を確認。帝国側からの新規攻撃反応はありません」

 ジンは頷いた。

 艦橋にいる全員が、彼の次の言葉を待っていた。

 だが、ジンはすぐには言わなかった。

 正面モニターに映る格納区画。

 医療区画へ向かう人影。

 整備デッキで止まった機体。

 そのすべてを、短く確認する。

 そして、静かに告げた。

「全機、収容確認」

 誰も声を上げなかった。

 ジンの声だけが、艦橋に落ちる。

「ルクス・ヴァルキュリア、帰還受け入れ完了」

 それは勝利宣言ではなかった。

 敵を倒したという報告でもなかった。

 まだ帰る場所が残っている。

 その確認だった。

 ルクス・ヴァルキュリアは、静かに航路を保っていた。

 命令ではなく、戻ってきた者達を抱えるために。

 その艦内に、ようやく小さな息が戻り始めていた。

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