第395話 暫定終戦協定
ネメシア本国圏の空に、まだ完全な静けさは戻っていなかった。
レグナリア軍港では、損傷艦の曳航が続いている。
カルディア・ベイでは、停止した自動防衛機構の安全確認が進んでいる。
ネメシア外郭防衛線では、通常軍が手動承認で砲台を維持している。
監察局施設のいくつかは封鎖され、いくつかは抵抗し、いくつかは沈黙した。
PT関連施設では、皇帝府臨時監査班と通常軍記録管理部門が記録を押収し、危険技術と保護情報の切り分けを進めている。
インペリウムは停止した。
だが、帝国はまだ止まっていない。
壊れかけたまま、動き続けている。
その帝国と、ルクス・ヴァルキュリアの間に、初めて正式な協定回線が開かれた。
完全終戦ではない。
降伏文書でもない。
勝者が敗者へ命令する場でもない。
これは、暫定終戦協定だった。
ルクス・ヴァルキュリア艦橋には、ジン、黒瀬、三島、カイト、ユイがいた。
医療区画との限定回線には、アミィが接続している。
彼女の隣にはレータがいるが、今回は映像には映っていない。
ただ、アミィが必要ならいつでも手を伸ばせる距離にいた。
画面の向こうには、皇帝府の中央会議室が映っている。
皇帝。
リゼル・オルブライト。
レグナート・ヴァルハイム。
レオン・グレイスナー。
皇帝府代表。
通常軍代表。
行政監査官。
帝国再編評議会準備室の担当官。
監察局代表の席は、そこにはなかった。
その事実だけで、この協定が以前の帝国とは違う場所から始まっていることが分かる。
黒瀬は、協定文の確認を始めた。
「ルクス・ヴァルキュリア側監査官、黒瀬です。暫定終戦協定の項目を確認します」
リゼルが頷く。
『皇帝府臨時監査班、リゼル・オルブライトです。帝国側も同時記録します』
三島が端末を操作し、協定項目を投影する。
第一項。
ルクス・ヴァルキュリアおよび同艦保護下の人員への即時攻撃停止。
第二項。
帝国通常軍による追撃停止。
第三項。
監察局単独作戦権および単独処理権限の停止。
第四項。
GD-NM-00 インペリウムの停止状態維持および封印。
第五項。
PT関連施設の封鎖、共同監査、危険技術の分割保管。
第六項。
保護対象の本人意思確認なき引き渡し禁止。
第七項。
PT達本人の意思確認と記録閲覧権の確保。
第八項。
救出対象候補記録の保全。
第九項。
量産型PTの帝国資産扱い停止、保護対象および意思確認対象への順次登録。
第十項。
皇帝権限の一部制限。
第十一項。
通常軍および行政機構による再編開始。
第十二項。
帝国再編評議会の設置準備。
第十三項。
アース・ネメシスなど主要支配圏からの暫定代表選出準備。
第十四項。
アンノウン航路は未確定領域として扱い、現段階での軍事的接続試験を禁止。
艦橋に、重い沈黙が流れた。
どれも簡単な項目ではない。
だが、どれか一つでも欠ければ、また命令に戻る可能性がある。
ジンは、表示された協定文を見ていた。
「攻撃停止と追撃停止。まずはそこだ」
レオンが画面越しに頷く。
『通常軍側は、ルクス・ヴァルキュリアへの追撃を停止する。現場部隊へはすでに命令を出している』
「命令で止まるのか」
ジンの問いに、レオンは少しだけ目を細めた。
『今度は通常軍の指揮系統で止める。インペリウムでも監察局でもない』
「ならいい」
それは信用ではない。
確認だった。
皇帝は、会議室の奥で協定文を見ていた。
玉座はある。
だが、その場にいる者達はもう、それが絶対命令の椅子ではないことを知っていた。
皇帝は失脚しない。
帝国をすぐに崩せば、各軍区、属領、支配下惑星、監察局残党、強硬派が一斉に動く。
それを避けるため、皇帝は残る。
しかし、以前のような絶対的命令権は制限される。
皇帝府だけで命令層を扱うことはできない。
監察局だけでPT達を処理することもできない。
インペリウムを再起動することもできない。
皇帝は、その制限を受け入れるために、そこにいた。
皇帝府代表が協定文を読み上げる。
『皇帝権限の一部制限について、正式に記録します。監察局単独権限は停止。命令層関連技術、PT政策、インペリウム級防衛機構、支配下惑星への軍事介入については、皇帝府単独決定を認めず、通常軍、行政監査、帝国再編評議会準備機関による多重承認を必要とする』
黒瀬が確認する。
「皇帝府は、この制限を認めますか」
会議室の空気が張り詰める。
答えたのは、皇帝自身だった。
『認める』
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
皇帝は続ける。
『帝国は、命令によって秩序を保ってきた。だが、その命令は監察局を肥大させ、命令層中枢を隠し、PT達を所有物として扱い、最終的にインペリウムを生んだ』
誰も口を挟まなかった。
『私は、その責任から退くために残るのではない。崩壊を避け、責任を処理するために残る』
リゼルは目を伏せた。
レグナートは沈黙したまま、皇帝の言葉を聞いている。
レオンも、表情を変えなかった。
皇帝は画面の向こう、ルクス・ヴァルキュリア側を見た。
『PT達を帝国所有物として扱う権限を停止する。量産型PTについても、保護対象、意思確認対象として順次登録する。再同期処理を禁じる。監察局単独での接触を禁じる』
アミィの映像が小さく揺れた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、隣にいるレータの手を握っていた。
ユイも、画面の中の皇帝を見ていた。
帝国の頂点。
自分達を作り、命令し、管理してきた構造の中心。
その人物が、今、所有物扱いを止めると言っている。
それで全部が消えるわけではない。
怖さも、記録も、傷も消えない。
けれど、言葉として残る意味はあった。
レグナートが前に出た。
『中央軍再編準備部門、レグナート・ヴァルハイム。通常軍および中央軍再編に関する項目を確認する』
画面に新たな文面が表示される。
通常軍は監察局命令を無条件に受けない。
命令層接続、PT関連作戦、通常軍指揮系統外部接続には多重承認を必要とする。
通常軍をインペリウム級防衛機構の中継器として扱うことを禁止する。
記録隠蔽命令への拒否権を認める。
民間区画を盾とする防衛命令を禁じる。
監察局施設封鎖には通常軍と行政監査が立ち会う。
レグナートは、淡々と述べた。
『中央軍が監察局に任せすぎた責任は残る。通常軍が命令層に依存しすぎた責任も残る。今後、中央軍は監察局解体と通常軍再編の実務責任を負う』
ジンが問う。
「責任者はあんたか」
『そうだ』
「逃げるなよ」
『逃げん』
短い応答だった。
だが、互いにそれ以上の言葉は必要なかった。
レオンが続いた。
『外縁方面軍およびレグナリア周辺通常軍については、私が一時的にまとめる。ルクスへの追撃停止、監察局残党の独自行動阻止、PT関連施設への通常軍立ち会いを実施する』
「ルクスを英雄扱いはしないんだったな」
ジンが言う。
レオンは頷く。
『しない。だが、記録は曲げない』
「それで十分だ」
リゼルは、防衛網と行政再編の項目を確認した。
『ネメシア本国圏防衛網は、インペリウム統合管制から切り離し、手動承認系統を維持します。レグナリア、カルディア・ベイ、ネメシア外郭砲台、無人艦隊については、通常軍と行政管制の共同承認に移行します』
黒瀬が問う。
「ルクス側への自動排除指定は」
『解除します。ただし、無条件通行許可ではありません。戦闘停止線上の移動は事前通告制とします』
ジンが頷く。
「それでいい。こちらも本国圏を好き勝手に動くつもりはない」
リゼルは次の項目を出す。
『PT関連施設は、皇帝府臨時監査班、行政監査、通常軍記録管理部門、必要に応じてルクス側監査記録との照合で管理します。救出対象候補記録は共同管理。技術再現可能な危険資料は分割保管。本人記録閲覧権を確保します』
三島が確認する。
「量産型I系列の記録抽出について」
『本人反応確認前の強制抽出は禁止。記録保持個体は証拠保全対象であると同時に保護対象として扱います』
ユイが静かに息を吐いた。
イリスがこの場にいれば、きっと頷いただろう。
命令のために残された記録を、証言と保護のために使う。
その基準が、協定に入った。
次は、各地球圏と再編評議会の項目だった。
帝国再編評議会。
まだ名前だけの制度。
議員もいない。
代表の選び方も決まっていない。
だが、皇帝府と監察局だけで帝国を動かす時代を終わらせるためには、必要な枠だった。
リゼルが説明する。
『帝国再編評議会の設置準備を開始します。主要星域、支配下惑星、各地球圏から暫定代表を選出する方向で検討します』
皇帝府代表が補足する。
『アース・ネメシスについては、帝国との関係が深く、暫定代表参加候補として扱います』
黒瀬が確認する。
「ルクス側は各地球圏の代表にはなりません」
『承知しています』
「デッドエンドとカタストロフは復興課題として残します。支援対象候補として登録してください」
『登録します』
「ヴェルデ、フォージ、ネオジェネシス、エデンなど安定している地球群については、現地の意思確認を優先してください」
『はい』
「アンノウンは未確定航路です。現段階での軍事的接続試験は禁止してください」
リゼルは頷いた。
『協定に入れます。未確定領域として記録し、帝国側による独断接続試験を禁止します』
カイトは、その言葉を聞きながら、これまでの旅を思い出していた。
多くの地球。
多くの選択。
助けたもの。
助けきれなかったもの。
まだ分からないもの。
その全部を、今ここで解決することはできない。
でも、勝手に命令で決められることだけは、止められる。
それが、今できることだった。
皇帝府代表が、最後の重要項目を読み上げた。
『保護対象の引き渡し禁止について確認します。ルクス・ヴァルキュリア側保護下にあるPT達、地球側関係者、ラスト・オーダー関係者について、本人意思確認なき帝国側への引き渡し、再管理、帝国施設移送を禁じる』
黒瀬が頷く。
「はい」
『ただし、証言、政策見直し、救出対象候補確認については、本人の意思と心理的安全を前提に協力を求める』
カナデが通信に短く参加した。
『心理的安全が確保されない接触は認めません。本人の拒否を無視した協力要請は、保護違反と見なします』
リゼルが答える。
『承知しています』
アミィの回線が少しだけ明るくなる。
黒瀬が確認した。
「アミィさん。協定文に、あなたの証言記録を添付することを認めますか」
アミィは一瞬、レータの方を見た。
それから、画面へ向き直る。
「はい」
その声は小さい。
でも、しっかりしていた。
「私は、所有物ではありません。私は、ここにいます」
以前の証言が、協定の付属記録として再確認される。
ユイも続いた。
「私も、帝国で作られたことを否定しません。でも、帝国に管理されるためにここにいるわけではありません」
カイトは、その横顔を見た。
ユイは逃げ続けているだけではない。
今、自分の場所を選んでいる。
アミィも、戻らないことを選んでいる。
その言葉が、協定に残る。
完全な社会的立場は、まだ整理されていない。
彼女達が帝国でも地球でもどう扱われるのか。
量産型PT達の権利はどうなるのか。
名前のない個体達をどう探すのか。
それはこれからの課題だった。
だが、少なくとも、所有物には戻さない。
その線だけは引かれた。
協定文の最終確認が始まった。
黒瀬がルクス側の記録を保存する。
三島が改竄防止符号を付ける。
リゼルが皇帝府側の文面を確定する。
レグナートが中央軍再編部門の署名を入れる。
レオンが通常軍一時停止線の承認を入れる。
皇帝府代表が行政監査の承認を入れる。
最後に、皇帝の承認欄が残る。
皇帝は、しばらく文面を見ていた。
そこには、かつてなら考えられない項目が並んでいる。
皇帝権限制限。
監察局単独権限停止。
PT所有物扱い停止。
量産型PT保護対象登録。
インペリウム封印。
帝国再編評議会設置準備。
支配下惑星代表選出。
それは、帝国が帝国であり続けるために、自分自身を変える協定だった。
皇帝は、静かに言った。
『命令で終わらせることはできない』
会議室の全員が皇帝を見る。
『ならば、記録と証言から始める』
その言葉が、協定記録に残る。
ジンは画面の向こうの皇帝を見た。
長い沈黙の後、短く返した。
「それで十分だ。まずは、撃つのをやめろ」
皇帝は頷いた。
『帝国通常軍は、ルクス・ヴァルキュリアへの攻撃を停止する。追撃を禁じる。監察局残党による独自行動を反逆行為として扱う』
レオンが続ける。
『通常軍側も承認する。戦闘停止線を維持する』
レグナートが言う。
『中央軍再編準備部門も承認する』
リゼルが最後に告げた。
『皇帝府臨時監査班、暫定終戦協定の成立を確認します』
黒瀬が、ルクス側で保存キーを押した。
「ルクス・ヴァルキュリア側監査記録、暫定終戦協定成立を確認」
三島が続ける。
「改竄防止符号、付与完了」
艦橋の中央投影に、短い表示が浮かぶ。
――暫定終戦協定、成立。
その表示を見た瞬間、誰も大きな声を上げなかった。
歓声はない。
勝利宣言もない。
ただ、長い緊張が少しだけ緩んだ。
カイトは、ゆっくりと息を吐いた。
「終わった……んですかね」
ジンは首を横に振る。
「完全には終わっていない」
黒瀬も言う。
「暫定です。問題は残っています」
ユイが静かに画面を見つめる。
「でも、撃つのは止まる」
「そうだ」
ジンは答えた。
「まずはそれでいい」
アミィの通信回線から、小さな声が聞こえた。
『戻らなくて、いいんですね』
カナデの声が、そっと続く。
『はい。少なくとも、本人の意思なしに戻されることはありません』
アミィは何も言わなかった。
けれど、通信の向こうで、レータが彼女の手を握っている気配があった。
ユイは、画面に表示された協定文を見つめる。
命令で終わらせることはできない。
記録と証言から始める。
その言葉は、完全な救いではない。
でも、命令だけで戻される世界よりは、ずっとましだった。
皇帝府側の通信が切れる前に、リゼルが最後に言った。
『ルクス・ヴァルキュリアは、協定成立後、帰還準備に入ることができます。ただし、航路安全確認と戦闘停止線通過の調整が必要です』
ジンは頷く。
「手続きは守る。だが、こちらの帰還を妨げるな」
『妨げません』
レオンが短く言う。
『通常軍側で通過線を確保する。ただし、帝国本国圏を抜けるまでは相互警戒を維持する』
「当然だ」
ジンは答えた。
敵ではなくなったわけではない。
だが、撃たない理由はできた。
それで今は十分だった。
通信が切れる。
艦橋に、ルクス・ヴァルキュリアの通常音が戻ってくる。
遠くで、整備班の報告が流れる。
医療区画からは、検査継続の連絡。
航法班は、帰還航路の再計算に入っている。
黒瀬は監査記録を閉じる。
三島が次の作業一覧を出す。
ジンは艦長席で、前方投影に映るネメシア本国圏を見た。
「帰還準備に入る」
その一言で、艦橋の空気が変わった。
戦闘のためではない。
逃げるためでもない。
帰るために、艦が動き始める。
カイトは、ユイを見た。
「帰りましょう」
ユイは少しだけ目を伏せ、それから頷いた。
「はい」
アミィの通信回線にも、その言葉は届いていた。
彼女は、隣のレータの手を握ったまま、小さく言った。
『帰る場所が、あるんですね』
その声に、ユイが答える。
「あります」
暫定終戦協定は、すべてを解決したわけではない。
帝国の責任は残る。
PT達の立場も、量産型個体の未来も、各地球圏の再編も、まだこれからだ。
命令では片付けられない問題を、記録と証言で一つずつ整理していく。
その始まりとして、撃ち合いは止まった。
ルクス・ヴァルキュリアは、帰還へ向けて動き出す。
帰還への道程からは、帰る者達の時間が始まる。




