第387話 皇帝の責任
皇帝府の中央会議室には、勝利を告げる旗も、敗北を悼む祈りもなかった。
あるのは、積み上がる記録と、沈黙だった。
ネメシア本国圏の防衛投影図。
停止した『GD-NM-00 インペリウム』の中核反応。
切り離された本国防衛砲台群。
手動承認へ戻された無人艦隊。
帝国中央軍港『レグナリア』の損害記録。
巨大建造ブロック『カルディア・ベイ』の自動防衛機構停止報告。
そして、命令層中枢、監察局、PT関連施設、すべてに関わる膨大な証言記録。
リゼル・オルブライトは、会議室の端に立ったまま、端末を握っていた。
帝国中枢実務官として、彼はこの場にいる。
だが、今の彼にできることは多くない。
すでに事実は積み上がっていた。
命令層中枢は停止した。
監察局の越権記録は保全された。
インペリウムは起動し、皇帝府の停止命令だけでは止まらなかった。
そして、ルクス・ヴァルキュリアはインペリウムを破壊ではなく停止・隔離した。
どの記録も、帝国にとって都合のよいものではなかった。
皇帝は、会議室の最奥に座していた。
その姿に目立つ損傷はない。
玉座は残っている。
皇帝府も残っている。
しかし、その場にいる者達は誰もが理解していた。
以前と同じ皇帝府には、もう戻れない。
会議卓の一方には、監察局残存部門の代表が並んでいる。
もう一方には、通常軍代表、中央軍司令部の連絡官、レグナート・ヴァルハイムの席があった。
レグナートは、背筋を伸ばしたまま沈黙していた。
その沈黙は、逃避ではない。
聞くための沈黙だった。
最初に口を開いたのは、監察局代表だった。
「今回の混乱は、ルクス・ヴァルキュリアによる帝国本国圏への侵入、および外部勢力による命令層干渉が原因です。監察局は、それに対処する過程で――」
「対処」
レグナートが静かにその言葉を繰り返した。
監察局代表の声が止まる。
レグナートは、会議卓の上に一つの記録媒体を置いた。
「通常軍艦艇を命令層再接続の中継器として扱うことを、対処と呼ぶのか」
監察局代表が表情を固くする。
「緊急防衛状況下における一時措置です」
「通常兵への過負荷通信。無人機の盾化。監察局端末保護のための通常軍犠牲許容。外縁方面軍への責任転嫁ログ」
レグナートは一つずつ読み上げた。
「これも一時措置か」
会議室に重い沈黙が落ちる。
通常軍代表の一人が、端末を操作した。
投影されたのは、レオン・グレイスナー隊が保全した記録だった。
エリシオンの通信ログ。
クラウス・ベルガーの作戦記録。
ヘルメス隊の回収線妨害記録。
インペリウム起動時、通常軍指揮系統が最終防衛機構へ吸い込まれかけた瞬間のログ。
監察局代表は顔をしかめた。
「それらは現場判断の断片にすぎません。帝国本国を守るためには――」
「帝国軍を機構の部品にすることは、帝国本国を守ることではない」
レグナートの声が、会議室を断った。
それは怒号ではなかった。
だが、だからこそ重かった。
「知らされていなかった、では済まん。中央軍が監察局の越権を止められなかった事実は残る」
レグナートは皇帝へ向き直る。
「陛下。中央軍にも責任があります。監察局に任せすぎた。命令層技術を、防衛網と通常軍の上に置きすぎた。結果として、帝国軍は最終防衛機構に指揮権を奪われかけました」
リゼルは、その言葉を聞きながら目を伏せた。
レグナートは責任を押しつけなかった。
監察局だけが悪い。
ルクスだけが悪い。
現場だけが悪い。
そう言えば、どこかは楽になったかもしれない。
だが、それでは帝国はまた同じ場所へ戻る。
別の官僚が、次の議題を投影した。
PT政策。
命令層中枢。
再同期基盤。
人格形成記録。
対象Y。
対象A。
対象L。
対象I。
その表示に、会議室の空気がさらに冷えた。
監察局代表が再び口を開く。
「PT関連個体については、帝国資産として再登録し、命令層から外れた個体を優先的に再分類する必要があります。自己応答保持個体は、人格機能の逸脱として――」
「その言葉を使うな」
皇帝が初めて声を発した。
会議室全体が沈黙する。
皇帝の声は低く、疲れていた。
だが、確かに場を止める力があった。
「帝国は、彼女達を系列で呼んだ。対象で呼んだ。機能で呼んだ。命令に従う個体として扱った」
皇帝は、投影された記録を見つめる。
そこには、アミィの証言記録があった。
私は、アミィです。
戻りません。
私は、ここにいます。
その言葉を前にして、監察局代表は沈黙した。
皇帝は続ける。
「この記録を見なかったことにはしない」
リゼルは、端末を握る手に力を入れた。
その言葉は、以前皇帝が一度告げたものと同じだった。
だが、今は状況が違う。
インペリウムは起動した。
皇帝府の停止命令は、最終防衛規定に押し返された。
命令で守ってきた帝国は、その命令に皇帝自身の命令さえ上書きされかけた。
皇帝はそれを理解していた。
「PT関連施設は封鎖する。再同期処理を禁じる。人格形成記録は保護対象として扱う。帝国資産としての再登録は認めない」
監察局代表が身を乗り出す。
「陛下、それでは防衛運用が――」
「防衛を名目に、同じことを繰り返すことは認めない」
皇帝の声は、今度は明確だった。
「監察局単独でのPT関連処理を禁じる」
その一言で、会議室の空気が変わった。
監察局代表の顔色が変わる。
通常軍代表は互いに視線を交わした。
リゼルは、その命令を即座に記録へ固定する。
監察局単独処理禁止。
それは、まだ監察局解体命令ではない。
だが、監察局が帝国の影で自由に動けた時代が終わり始めたことを示す命令だった。
次に投影されたのは、皇帝権限の制限案だった。
それは、誰にとっても扱いづらい議題だった。
皇帝の責任。
皇帝府の維持。
帝国全域の秩序。
通常軍への権限移譲。
命令層技術の封鎖。
インペリウム級防衛機構の再起動禁止。
そして、帝国再編評議会の設置。
一人の中枢官僚が、慎重に口を開く。
「陛下。皇帝権限を急激に縮小すれば、各軍区、属領、支配下惑星の反発を招きます。特にアース・ネメシスを含む外部地球圏は、帝国本国の弱体化を独立の機会と見る可能性があります」
別の官僚が続ける。
「一方で、現状維持は不可能です。監察局、命令層、PT政策、インペリウム起動権限。これらを皇帝府と中枢だけで維持すれば、ルクスとの暫定停止線も崩れます」
リゼルは、準備していた再編案を投影した。
「帝国再編評議会の設置を提案します」
会議室の視線が彼へ向く。
リゼルは息を整えた。
「皇帝制を廃止するものではありません。帝国全域の秩序維持には、皇帝府の継続が必要です。ですが、皇帝府と監察局だけで命令を下す構造には戻れません」
投影図に、複数の枠が表示される。
皇帝府。
通常軍。
行政機構。
中央軍再編部門。
PT政策監査部門。
帝国再編評議会。
星域代表。
支配下惑星代表。
各地球圏代表候補。
アース・ネメシス。
リゼルは続ける。
「評議会は、当初は皇帝を否定する議会ではなく、皇帝権限を監視・制限する再編承認機関とします。監察局再建、命令層技術の封鎖解除、PT政策、インペリウム級防衛機構の扱い、支配下惑星への軍事介入には、評議会への報告および承認を必要とする」
監察局代表が冷たく言う。
「属領や支配下惑星に発言権を与えるのですか」
リゼルは答えた。
「命令だけで従わせ続けることができなくなったからです」
その言葉に、会議室が静まり返る。
「代表権を与えなければ、反乱の理由を与えることになります。権限を渡しすぎれば帝国は割れる。渡さなければ命令層支配へ戻る。ならば、皇帝を頂点に残したまま、皇帝の命令だけでは動けない制度へ移るしかありません」
レグナートが低く頷いた。
「妥当だ」
監察局代表がレグナートを見る。
「中央軍は、それを受け入れるのですか」
「帝国軍が命令層と監察局に依存しすぎた結果が、インペリウムだ」
レグナートは言った。
「受け入れるかどうかではない。受け入れなければ、次は軍区ごとに割れる」
通常軍代表の一人が補足する。
「レオン・グレイスナー隊も、通常軍指揮系統の維持を条件に戦闘停止線を保持しています。皇帝府が旧命令層へ戻るなら、通常軍内の不信は抑えられません」
その名前が出た時、皇帝はわずかに目を伏せた。
レオン。
帝国通常軍人としてルクスを止めた男。
同時に、帝国軍をインペリウムへ渡さなかった男。
その判断を、皇帝府は無視できなかった。
「インペリウムについてはどうされますか」
リゼルが問うた。
会議室の空気が再び重くなる。
停止したとはいえ、インペリウムは存在している。
帝国本国認証網、命令層残滓、中枢防衛規定を統合した最終防衛機構。
帝国が命令で秩序を保とうとした最後の形。
その残骸をどう扱うか。
皇帝は、ゆっくりと答えた。
「封印する」
監察局代表が即座に反応する。
「陛下、あれは帝国本国圏の最終防衛機構です。完全封印は防衛上――」
「私の停止命令を上書きした防衛機構だ」
皇帝の声が、監察局代表の言葉を止めた。
「皇帝府の命令より、最終防衛規定を優先した。通常軍を部品にし、PT達を再照合し、防衛網を命令層へ戻そうとした。あれを再び起動する権限を、皇帝府単独に残すことはできない」
リゼルは、その言葉を記録した。
インペリウム封印。
再起動には皇帝府、通常軍、行政監査、再編評議会の多重承認が必要。
PT反応照合機能は永久停止対象。
命令層再接続核は隔離対象。
監察局による接触禁止。
それらの項目が、次々に追加されていく。
皇帝は、会議室全体を見渡した。
「皇帝の権限を制限する」
誰も声を出さなかった。
その一言は、帝国史に残るものになる。
皇帝自身が、皇帝権限を制限すると認めたのだ。
「監察局単独権限を停止する。通常軍へ一部権限を移す。PT政策を見直す。インペリウムを封印する。帝国再編評議会の設置準備を命じる。支配下惑星、各地球圏、主要星域からの暫定代表選出を検討せよ」
リゼルは、端末に表示された命令文を確認した。
命令。
だが、それは以前の命令とは違っていた。
命令だけで終わらせないための命令だった。
監察局代表は、最後の抵抗を試みた。
「陛下。それでは帝国の威信が失われます。ルクス・ヴァルキュリアは外部勢力です。外部勢力の圧力で皇帝権限を制限したと見られれば――」
「違う」
皇帝は言った。
「これは、ルクスに命じられて行うことではない」
会議室の全員が皇帝を見た。
「帝国が命令で守ってきたものが、帝国を壊しかけた。その責任を帝国が取る」
皇帝は、投影された記録へ目を向ける。
そこには、停止したインペリウムの識別表示が残っていた。
「帝国は、命令で守ってきた。その責任から逃げることはできない」
その言葉が、会議室に落ちた。
誰も、それを否定できなかった。
リゼルは深く息を吸い、命令文の最終項目を保存した。
皇帝権限の一部制限。
監察局単独権限停止。
通常軍への一部権限移譲。
PT政策見直し。
インペリウム封印。
帝国再編評議会設置準備。
支配下惑星および各地球圏代表選出検討。
すべてが、正式記録として残される。
会議の後、リゼルは皇帝府の回廊に出た。
窓の外には、ネメシア本国圏が広がっている。
まだ煙は消えていない。
レグナリアの一部区画では、救助信号が続いている。
カルディア・ベイの建造ブロックには、停止した自動防衛機構の警告灯が点滅している。
そして遠くには、ルクス・ヴァルキュリアの巨大な艦影があった。
味方ではない。
だが、今は撃ち合っていない。
リゼルは端末を見下ろした。
そこには、帝国再編評議会の仮設項目が表示されている。
まだ、ただの方針だ。
制度ではない。
議員もいない。
代表の選び方さえ決まっていない。
アース・ネメシスをはじめとする支配下の地球圏が、それを受け入れる保証もない。
反発は起こる。
暴動も起こるかもしれない。
旧監察局系、強硬派、地方軍区、属領独立派。
すべてが黙って従うほど、帝国は単純ではない。
だが、それでも命令だけで戻すよりはましだった。
リゼルは、小さく呟いた。
「命令ではなく、発言で帝国を繋ぐ……か」
その言葉は、まだ理想にも届いていない。
けれど、命令層が止まった後の帝国が選べる、最初の道だった。
皇帝府の記録端末に、正式告知が表示される。
――皇帝権限の一部制限。
――帝国再編評議会設置方針。
――監察局単独処理の停止。
――PT政策見直し。
帝国は消滅しなかった。
皇帝も退かなかった。
だが、皇帝の命令だけで帝国が動く時代は、確かに終わり始めていた。




