第386話 停止後の沈黙
『GD-NM-00 インペリウム、停止』
その表示が艦橋中央の戦術投影に固定されたまま、誰もすぐには声を出さなかった。
ネメシア本国圏を覆っていた黒金の巨体から、光が落ちていく。
本国防衛砲台群の照準表示が、一つ、また一つと解除された。
無人艦隊の強制管制信号が途切れる。
中央GD部隊の突撃命令が消失し、残された機体群はその場で姿勢制御だけを維持した。
帝国中央軍港『レグナリア』の防衛線も、巨大建造ブロック『カルディア・ベイ』の自動防衛機構も、順次、最終防衛機構から切り離されていく。
勝利の歓声はなかった。
ただ、沈黙だけが広がっていた。
「……インペリウム中核反応、停止。命令層再接続波、消失」
管制席の報告が、遅れて艦橋に響いた。
別の管制士が続ける。
「本国防衛砲台群、統合照準を解除。無人艦隊、強制管制解除。中央GD部隊、動作停止または待機姿勢へ移行」
ジンは艦長席で、前方の戦術図を見つめていた。
インペリウムは止まった。
だが、ネメシアはまだそこにある。
レグナリアも、カルディア・ベイも、帝国本国圏も、消えたわけではない。
そして、ルクス・ヴァルキュリアと帝国通常軍が味方になったわけでもなかった。
「全艦へ通達」
ジンが口を開いた。
艦橋の空気が引き締まる。
「追撃禁止。広域攻撃禁止を継続。主砲封印もそのままだ。機動部隊は帰還誘導を優先。救助信号の確認、漂流機の識別、被害区画の確認を始めろ」
「了解。追撃禁止、広域攻撃禁止、主砲封印継続」
「こちらから撃つな。ただし、防御姿勢は解くな」
ジンの声は低かった。
勝利を告げる声ではない。
戦場を終わらせるための声だった。
◇
黒瀬は監査席で、震える指先を一度だけ握り込んだ。
表示されている監査項目は、まだ終わっていない。
インペリウム停止確認。
命令層再接続波消失確認。
PT反応照合波停止確認。
本国防衛網の最低限機能残存確認。
中核完全破壊なし。
停止処理。
隔離処理。
記録保護。
黒瀬は一つずつ確認し、監査記録へ記入していく。
「インペリウムは破壊ではなく、停止および隔離。戦闘機能、命令層再接続機能、PT反応照合機能の停止を確認」
三島が隣で記録照合を行っていた。
「防衛網そのものは残っています。リゼル側の手動承認系統へ一部移行中。通常軍回線はレオン隊側が維持しています」
黒瀬は頷いた。
「ルクス側による帝国防衛網の掌握は行っていません。こちらの記録にも明記してください」
「はい」
黒瀬は画面の向こうに広がるネメシア本国圏を見た。
この戦いは勝ったのではない。
止めたのだ。
それを間違えれば、ここから先のすべてが崩れる。
「……監査記録、保存します」
黒瀬がそう告げた時、艦橋に通信が入った。
中核方面からの帰還信号だった。
アルタイル・ノヴァ・ブレイスが帰還誘導線に乗る。
そのすぐ近くを、ノクス・レクイエムがゆっくりと進んでいた。
黒い機体の周囲には、もう命令層の刃のような光はない。
ただ、消耗し切った機体が、最低限の姿勢制御だけで戻ってきている。
「ユイ、聞こえるか」
カイトの声が通信に入る。
少しだけ遅れて、ユイの声が返った。
「……聞こえています」
かすれていた。
それでも、声だった。
命令ではない。
照合波への返答でもない。
ユイ自身の声だった。
カイトは息を吐いた。
「無理に話すな。すぐ戻る」
「大丈夫です。疲れただけです」
「それ、大丈夫じゃない時の言い方だろ」
ユイは少しだけ黙った。
それから、小さく笑ったような気配が通信に混ざった。
「そうかもしれません」
カイトは正面の帰還誘導表示を確認する。
中核は遠ざかっていく。
あの場所で、ユイは命令層残滓を切った。
カイトは停止の一撃を入れた。
けれど、切った後も、止めた後も、すべてが終わったわけではなかった。
「ユイ」
「はい」
「声、残ってるな」
わずかな沈黙。
その後、ユイが答えた。
「はい。残っています」
その返事を聞いて、カイトはようやく操縦桿を握る手の力を少しだけ緩めた。
帝国本国防衛管制室では、リゼル・オルブライトが立ったまま端末を操作していた。
顔色は悪い。
だが、手は止まっていない。
「第七防衛砲台群、手動承認へ移行。無人艦隊の自動再接続を遮断。カルディア・ベイ第三区画、自動防衛機構を待機状態へ」
「リゼル実務官、インペリウム中核との接続要求がまだ残っています」
「破棄しろ。最終防衛規定の再参照も止める。今は命令を戻すな」
「しかし、統合管制を失った状態では――」
リゼルは振り返った。
「統合管制を戻せば、もう一度同じことになる」
管制室の者達が黙った。
インペリウムは止まった。
だが、防衛網の奥には、まだ残骸のような接続要求が走っている。
命令層残滓。
最終防衛規定。
旧監察局系統。
それらが、まだ帝国を命令へ戻そうとしている。
リゼルは画面に指を走らせる。
「防衛網を維持する。だが、命令層には戻さない。有人承認班を起こせ。通常軍回線と照合を取る」
「通常軍回線は、外縁方面軍第七機動戦隊が一部保持しています」
「レオン・グレイスナーか」
リゼルは一瞬だけ目を伏せた。
帝国通常軍。
ルクスを敵として止めようとした男。
だが、インペリウムに軍を渡さなかった男でもある。
「接続を開け。命令ではなく、確認通信としてだ」
レグナリア防衛線の残骸の間で、エリシオンは防壁を解除せずに立っていた。
レオン・グレイスナーは、通常軍回線を開いたまま、次々に入る報告を聞いていた。
「第三艦隊、強制管制解除。損傷艦多数」
「ヘルメス隊、全機帰還中。リュカ隊長より、追撃意思なしとの報告」
「中央GD部隊、一部が待機姿勢へ移行。ただし命令層残滓による再起動の可能性あり」
クラウス・ベルガーが淡々と整理する。
レオンは頷いた。
「全通常軍へ通達。無断戦闘再開を禁じる」
クラウスが一瞬だけ手を止めた。
「よろしいのですか。ルクスはまだ帝国本国圏内にいます」
「分かっている」
「では――」
「だからこそ撃たせない」
レオンの声は鋭かった。
「今撃てば、インペリウム停止後の防衛網が崩れる。ネメシア中枢も、レグナリアも、カルディア・ベイも巻き込む。帝国を守るための発砲にはならん」
クラウスは短く頷き、通信文を打ち込んだ。
レオンは通常軍回線へ告げる。
「全通常軍へ。発砲停止。ただし防衛線は維持しろ。ルクス・ヴァルキュリアを歓迎する必要はない。だが、撃つな」
通信の向こうで、いくつもの部隊が応答する。
命令ではなく、確認の声が返ってくる。
それを聞きながら、レオンは静かに息を吐いた。
「……帝国軍は、まだ残っている」
その言葉は、誰かに向けたものではなかった。
自分自身への確認に近かった。
ルクス・ヴァルキュリアの艦橋に、レオンからの通信が入った。
ジンは数秒だけ黙った後、受信を許可した。
戦術投影の一角に、エリシオンの識別表示が出る。
映像通信ではない。
音声のみ。
それが今の距離だった。
『レオン・グレイスナーより、ルクス・ヴァルキュリアへ』
ジンが応じる。
「こちらジン。聞こえている」
『通常軍は、現時点をもって無断戦闘再開を禁じた。レグナリア防衛線も、追撃は行わない』
艦橋に緊張が走る。
ジンはすぐには答えなかった。
黒瀬が監査席から頷く。
一時戦闘停止として記録可能。
ただし、停戦協定ではない。
ジンはそれを確認してから口を開いた。
「こちらも追撃はしない。広域攻撃も行わない」
『条件は』
「記録と保護対象には手を出させない。オルフェン証言、監察局越権記録、PT人格形成記録、保護対象候補。これらを監察局に戻すことはない」
レオンの返答は少し遅れた。
『監察局に戻すつもりは、こちらにもない』
ジンは目を細めた。
「帝国本国中枢はどうだ」
『それは、これから決めることだ』
「曖昧だな」
『戦場で即答できる問題ではない。帝国はまだ割れている』
レオンの声には疲労があった。
だが、崩れてはいなかった。
『通常軍も撃たせない。だが、帝国本国圏への侵入を認めたわけではない』
ジンは艦長席の肘掛けに指を置いた。
「こちらは追撃しない。だが、記録と保護対象は渡さない」
艦橋の誰もが、そのやりとりを聞いていた。
味方同士の会話ではない。
敵同士が、これ以上撃たないために線を引いている。
それだけの通信だった。
だが、その線がなければ、ここからまた戦場に戻る。
『了解した』
レオンが答える。
『一時戦闘停止線を設定する。通常軍はその線を越えない。ルクス側も、これ以上ネメシア中枢へ進むな』
ジンは黒瀬を見た。
黒瀬が短く答える。
「監査上、現時点では受諾可能です。ただし、保護対象と記録の安全が条件です」
ジンは頷いた。
「分かった。一時戦闘停止線を受け入れる」
『感謝はしない』
「こちらもだ」
短い沈黙。
その後、通信が切れた。
艦橋に、少しずつ音が戻ってくる。
被害確認。
帰還誘導。
医療班の待機。
整備区画の受け入れ準備。
停止したはずの戦場の中で、まだ無数の作業が続いていた。
ジンは立ち上がらず、ただ前を見た。
ネメシア本国圏は、まだ巨大だった。
帝国は倒れていない。
ルクスも、勝利者としてそこにいるわけではない。
ただ、撃つのをやめただけだ。
「三島」
「はい」
「一時戦闘停止線、記録しろ。黒瀬、監査記録にも残せ」
「了解しました」
黒瀬が答える。
ジンは続けた。
「医療班へ。カイトとユイの帰還後、最優先で検査。ノクス周辺の隔離処理も忘れるな」
「医療班、了解」
「整備班へ。全機体の武装安全確認。再出撃準備ではなく、暴発防止だ」
「整備班、了解」
ジンはそこで一度だけ息を吐いた。
そして、静かに告げる。
「戦闘は止まった。だが、終わったわけじゃない」
その言葉を、艦橋の全員が聞いた。
命令層で守っていた帝国は、もう戻らない。
けれど、命令が消えた後に何を残すのか。
それは、まだ誰も決めていなかった。
ネメシア本国圏に、停止後の沈黙が続いている。
その沈黙の中で、ルクス・ヴァルキュリアと帝国通常軍の間に、最初の戦闘停止線が引かれた。




