第365話 監察局残党
レグナリア防衛線に開いた穴は、まだ細い。
ルクス・ヴァルキュリアは、その細い進路を維持しながら前進していた。
通常軍艦隊は壊滅していない。
軍港中枢も燃えていない。
防衛砲台も、基幹部は残されている。
それでも、帝国本国圏の防衛網には確かに乱れが生じていた。
レグナリア。
カルディア・ベイ。
ネメシア本国中枢。
命令層中枢停止の余波は、帝国の内側を揺らし続けている。
その揺らぎを、利用しようとする者達がいた。
ルクス・ヴァルキュリア、記録保護区画。
黒瀬は、監査卓の前で複数の記録窓を開いていた。
オルフェン証言記録。
監察局越権証拠。
レオン隊から提出された通常軍被害記録。
命令層中枢から保護したPT人格形成記録。
再同期基盤隔離記録。
それらは、単なる戦利品ではない。
誰かを罰するためだけのものでもない。
帝国が何をしてきたのか。
監察局がどこまで越権したのか。
PT達が命令ではなく、自分の声を持つ存在であること。
その全てを示すための記録だった。
だからこそ、消されれば終わる。
捻じ曲げられても終わる。
黒瀬は、記録保護の承認階層を一つずつ確認していた。
「オルフェン証言記録、一次保護層維持。複製は三系統。改竄検知符号、再計算」
三島が隣で補助端末を操作する。
「監察局越権証拠、レオン隊提出分との照合継続中です。差分はありません」
「PT人格形成記録は」
「閲覧権限は維持。ただし、帝国側認証網から再分類用コピーを要求する通信が複数来ています」
黒瀬の手が止まった。
「発信元は」
「表向きは帝国本国中枢の防衛識別参照要求です。ただし、署名が不自然です」
「リゼル実務官の系統か」
「いいえ」
三島は首を横に振った。
「中枢系統の認証を偽装していますが、形式が古いです。監察局式の転送符号に似ています」
黒瀬は目を細めた。
「監察局残党か」
その言葉とほぼ同時に、別の表示が赤く点滅した。
『証言記録保護領域への外部照会』
『PT人格形成記録コピー要求』
『通常軍越権証拠、照合元改竄試行』
黒瀬は即座に端末を操作する。
「全記録を第三保護層へ移行。外部照会を一時停止。三島、照合元の改竄試行を隔離」
「了解」
「イリス、聞こえますか」
『聞こえています』
記録区画側から、イリスの声が返った。
「監察局式の干渉です。証言記録、PT人格形成記録、レオン隊の越権証拠。三方向から同時に来ています」
『確認します』
イリスの声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、明確な警戒があった。
『これは、単なる閲覧要求ではありません』
「何ですか」
『記録の意味を変えようとしています』
黒瀬は表情を険しくした。
記録を盗む。
記録を壊す。
それだけなら分かりやすい。
だが、意味を変えるというのは、もっと厄介だった。
『オルフェン証言記録は、観測失敗の証言から、ルクス側による強制供述記録へ置き換えようとしています』
三島が息を呑む。
『PT人格形成記録は、保護記録ではなく、再分類用素材として複製しようとしています。対象Y、対象A、対象L、対象M、対象Iの再制御検討資料として扱う形式です』
「レオン隊の証拠は」
『監察局越権証拠ではなく、通常軍の独断行動記録へ書き換える差分が混ざっています』
黒瀬は、奥歯を噛んだ。
監察局は、まだ諦めていない。
オルフェンは拘束された。
観測ログも欠落した。
皇帝府からは、監察局単独処理の禁止が出ている。
それでも、残党は動いている。
証言を奪う。
人格形成記録を再分類用に奪う。
通常軍の証拠を改竄する。
その三つが通れば、監察局は言える。
オルフェンは不当に拘束された。
PT達は保護対象ではなく、危険な再分類対象だ。
通常軍の被害は監察局の越権ではなく、現場指揮官の独断だ。
全てを、都合のいい形へ戻せる。
「ナユ」
黒瀬は別回線を開いた。
「記録回線に偽装経路があります。残響で追えますか」
『やってみます』
ナユの声が返る。
『音じゃなくて、記録の揺れを探すんですね』
「はい。通常の通信経路では隠されています。監察局式の迂回路を見つけてください」
『分かりました』
通信が切り替わる。
ロス・セレネの残響索敵が、戦場ではなく記録回線へ向けられた。
ナユは目を閉じた。
普段、彼女が追うのは機体の動きだ。
推進音。
通信の遅れ。
兵装の起動。
空間に残る反応の尾。
けれど今、探すべきものは違う。
記録の中に潜む、偽装経路。
それは音を立てない。
光も発しない。
だが、全く痕跡がないわけではなかった。
記録が動いた後には、わずかな残響が残る。
誰が触れたのか。
どの順番で通ったのか。
どこで意味を変えようとしたのか。
ナユは、その揺れを追った。
「……変です」
彼女は小さく呟いた。
『ナユ?』
リンの声が入る。
「三つの経路が別々に見えます。でも、奥では同じ場所に繋がっています」
『三つというと』
「オルフェン証言記録の奪取経路。PT人格形成記録のコピー経路。レオン隊の証拠改竄経路」
ナユは、さらに深く残響を探る。
偽装された経路は、通常の本国中枢認証に見せかけられていた。
だが、反応の奥に、監察局式の癖がある。
観測用の余白。
改竄後に元記録を隠すための空白。
責任の所在を移すための署名置換。
それらは、命令層中枢で見た監察局の記録処理に似ていた。
「見つけました」
ナユは目を開いた。
「偽装経路は、カルディア・ベイの補助認証回線を経由しています。でも、そこを通っているように見せているだけです。本当の発信元は、監察局旧回線の残存ノード」
『座標を送れますか』
「送ります」
ナユは、残響データをイリスと黒瀬へ転送した。
「ただ、気をつけてください。これは奪うためだけじゃありません」
『どういうことですか』
「追いかけると、こちらの保護記録を開かせる作りです。罠です」
黒瀬の声が返る。
『了解しました。こちらからは追跡しません。入口だけ塞ぎます』
「はい。その方がいいです」
ナユはもう一度、残響を聞く。
監察局残党の回線は、細く、しつこい。
表に出て戦う力は失っている。
けれど、記録の裏側に潜り込み、意味を変える力はまだ残っている。
それは、戦場で撃ってくる敵よりも気味が悪かった。
イリスは、記録区画の中で監察局式改竄の痕跡を見ていた。
帝国の記録には、いくつかの種類がある。
命令のための記録。
照合のための記録。
責任を残すための記録。
そして、責任を消すための記録。
監察局が使っていたのは、その最後の形に近かった。
直接消すのではない。
別の意味を上書きする。
失敗を観測と呼ぶ。
暴走を実験と呼ぶ。
越権を必要措置と呼ぶ。
個人の声を、対象反応と呼ぶ。
そうして、記録の形を保ったまま、中身を命令に都合のいいものへ変えていく。
「これは、記録ではありません」
イリスは静かに言った。
彼女の前で、監察局式の改竄差分が開かれている。
オルフェン証言記録の一部に、強制供述という注釈を加える差分。
PT人格形成記録に、再分類資料としての索引を追加する差分。
レオン隊の越権証拠に、現場判断責任という注記を混ぜる差分。
どれも、少しずつ意味をずらしている。
完全な嘘ではない形で、真実を使えなくする。
イリスは、その全てに保護印を重ねた。
「これは、記録を装った命令です」
彼女は、命令層中枢で守った記録を思い出す。
PT達の初期反応。
名前ではなく系列で扱われた記録。
従属率。
適性値。
命令反応。
それでも、その中には救出対象候補として必要な情報もあった。
だから、壊すのではなく守った。
今も同じだ。
監察局式改竄を消すだけでは足りない。
何をどう変えようとしたのかも、残さなければならない。
「黒瀬さん」
『聞いています』
「改竄差分も保存してください」
『証拠として、ですか』
「はい。改竄しようとしたことも記録です」
黒瀬は一瞬だけ沈黙した。
そして、静かに答える。
『分かりました。改竄差分を隔離保存します』
「ありがとうございます」
イリスは、改竄差分の上に新しい分類を付けた。
監察局残党による証拠隠滅試行。
証言記録改竄。
人格形成記録奪取未遂。
通常軍越権証拠改竄未遂。
それは、命令ではない記録だった。
消すためではなく、二度と同じことをさせないための記録だった。
帝国本国中枢、防衛管制室。
リゼル・オルブライトの前にも、同じ異常が表示されていた。
『監察局旧回線、未承認アクセス』
『カルディア・ベイ補助認証回線への偽装接続』
『通常軍記録照合元への差分挿入試行』
『本国中枢認証署名の不正複製』
技術官が険しい声で報告する。
「リゼル実務官、監察局旧回線が動いています」
「監察局本部系統か」
「いいえ。正式な本部系統ではありません。残存ノードです。カルディア・ベイ補助認証回線を経由して、本国中枢記録へ接続しようとしています」
「目的は」
「通常軍提出記録の照合元改竄。それと、ルクス側が保護している記録への照会要求を、中枢承認に偽装する処理です」
リゼルは表情を険しくした。
監察局残党。
予測はしていた。
オルフェンが拘束され、監察局単独処理が禁じられた以上、彼らは正面から動けない。
だから、記録を狙う。
記録が消えれば、責任は曖昧になる。
記録が変われば、罪の所在も変わる。
それが監察局にとって最も都合のいい逃げ道だった。
「旧回線を遮断しろ」
リゼルは即座に命じた。
「カルディア・ベイ補助認証回線を分離。本国中枢署名の不正複製を無効化。通常軍提出記録への外部差分挿入を禁止する」
「監察局側から、緊急防衛照会権限を主張しています」
「現在、監察局単独処理は禁止されている」
「ですが、彼らは本国防衛のための記録照合だと」
「本国防衛の名で証拠を変えるな」
リゼルの声が鋭くなった。
管制室が静まる。
「監察局旧回線からの全照会を一時凍結。必要な情報照会は、本国中枢実務官権限と通常軍記録官の二重承認に切り替える」
「了解」
技術官が処理を実行する。
表示上で、監察局旧回線が次々と赤く遮断されていく。
その中の一つが、最後まで抵抗するように再接続を試みた。
リゼルは目を細める。
「そこを隔離しろ。消すな。発信元を残せ」
「記録を残すのですか」
「当然だ」
リゼルは言った。
「今度は、監察局が何をしようとしたのかを残す」
技術官は頷き、残存ノードを隔離保存した。
リゼルは、ルクス側の通信状況を示す表示を見た。
彼らも、おそらく同じ干渉を受けている。
直接連絡はない。
共闘でもない。
だが、同じ証拠を狙われている。
同じ記録を、別々の場所から守っている。
「奇妙なものだな」
リゼルは小さく呟いた。
「敵の艦と同じ記録を守ることになるとは」
誰も返事をしなかった。
だが、技術官達の手は止まらない。
監察局旧回線の遮断処理が進んでいく。
ルクス・ヴァルキュリア、記録保護区画。
黒瀬は、監察局残党の干渉経路が遮断されていくのを確認していた。
「外部照会、減少。偽装経路、二系統遮断。残り一系統は帝国本国側から遮断されています」
三島が報告する。
「帝国本国側から?」
「はい。署名はリゼル・オルブライト実務官の系統です」
黒瀬は一瞬、目を伏せた。
直接の通信はない。
協力を申し合わせたわけでもない。
それでも、リゼルは同じ干渉を止めた。
監察局残党の証拠隠滅を、帝国中枢側から遮断した。
「……そうですか」
黒瀬は静かに言った。
「イリス、ナユ。状況は」
『改竄差分、隔離保存完了。原本記録は維持されています』
イリスが答える。
『偽装経路の残響も薄くなりました。まだ完全には消えていませんが、記録保護区画へは届いていません』
ナユの声が続いた。
「十分です」
黒瀬は、保護区画の封鎖承認画面を開いた。
承認者欄には、黒瀬、三島、ジン、イリス、そして記録管理補助の名が並ぶ。
この記録は、一人の判断で開けていいものではない。
誰か一人が抱えれば、また命令に似てしまう。
だから、分けて守る。
黒瀬は承認キーに手を置いた。
「記録保護区画、封鎖。外部照会は全て保留。閲覧には共同承認を必須とします」
三島が頷く。
「封鎖処理、開始します」
重い電子音が響いた。
記録保護区画の外部回線が閉じていく。
だが、記録そのものは消えない。
オルフェンの証言も。
PT人格形成記録も。
レオン隊の監察局越権証拠も。
監察局残党がそれを改竄しようとした痕跡も。
全て、残る。
黒瀬は画面を見つめたまま、静かに言った。
「この記録は、誰かを裁くためだけのものではない」
その声は、記録区画全体に届いた。
「二度と同じことをさせないためのものです」
同じ頃、帝国本国中枢でも、リゼルが監察局旧回線を遮断していた。
ルクスと帝国。
敵同士でありながら、同じ記録を別々の場所から守っていた。
監察局残党の回線が、最後に一度だけ明滅する。
そして、遮断された。
証拠は消えなかった。
声も、記録も、まだ残っていた。




