第364話 カルディア・ベイの揺らぎ
レグナリア防衛線に、通過のための穴が開き始めていた。
だが、それは帝国本国圏の防衛が崩れたという意味ではなかった。
むしろ、崩れないために、あちこちで無理が生じていた。
帝都『ネメシア』。
帝国中央軍港『レグナリア』。
そして、巨大建造ブロック『カルディア・ベイ』。
それらは本来、命令層中枢を経由した認証網によって、極めて高速に接続されていた。
どの艦を動かすか。
どの防衛砲台を起動するか。
どの無人艦を前へ出すか。
どのGD部品をどの機体に割り当てるか。
防衛線が損傷した場合、どの補修ユニットをどこへ送るか。
その判断の多くは、命令と認証によって流れていた。
だが今、その中心は止まっている。
命令層中枢は停止し、再同期基盤は隔離され、残っているのは不安定な命令層残滓だけだった。
カルディア・ベイは、その影響を真正面から受けていた。
帝国本国中枢、防衛管制室。
リゼル・オルブライトの前に、警告表示が連続して開いた。
『カルディア・ベイ、建造記録照合遅延』
『無人艦補修部品認証、再確認要求』
『GD部品搬出経路、承認保留』
『本国防衛砲台補助制御装置、旧命令層参照要求』
『インペリウム関連補助装置、封鎖区画認証揺らぎ検出』
技術官の顔色が変わる。
「リゼル実務官、カルディア・ベイ側で認証遅延が拡大しています」
「原因は」
「命令層中枢停止に伴う、建造記録と防衛認証の照合不一致です。通常系統への切替は進めていますが、建造ブロック全体が大きすぎます」
カルディア・ベイは、ただの工廠ではない。
帝国本国圏の巨大建造・補修・防衛生産拠点。
無人艦の補修部品。
GD部隊の交換装甲。
本国防衛砲台の制御部品。
そして、インペリウム関連補助装置の一部。
それらが、膨大な建造記録と認証記録によって管理されている。
命令層が正常なら、問題は起きなかった。
命令は早い。
認証は揃う。
承認は自動で流れる。
だが今、その早さが失われている。
「旧命令層経路への再接続要求は」
「複数発生しています。特に防衛砲台補助制御装置と、無人艦管制用の部品搬出ラインです」
「遮断しろ」
リゼルは即答した。
「手動承認へ切り替える。カルディア・ベイ全区画の自動搬出を一時停止。防衛必須区画のみ三重承認で動かせ」
「しかし、それでは防衛速度が落ちます」
別の中枢官僚が声を上げた。
「ルクスはすでにレグナリア防衛線へ穴を開けています。ここでカルディア・ベイの補修能力を落とせば、ネメシア本国防衛網が維持できません」
「暴走した補修能力で防衛網を維持するつもりか」
リゼルの声が低くなる。
「旧命令層回線へ戻せば、確かに早い。だが、その回線はもう安全ではない。命令層中枢が停止した直後に、残滓だけを使って防衛認証を走らせれば、どこへ接続するか分からない」
「それでも、防衛が遅れれば本国が危険にさらされます」
「早ければ安全という段階は終わった」
リゼルは、表示を指す。
「カルディア・ベイは建造拠点だ。暴走すれば、艦も部品も砲台も、守るためではなく命令の形を取り戻すために動く。そんなものを本国防衛とは呼ばない」
中枢官僚は口を閉じた。
技術官が、手動承認への切替処理を開始する。
表示上で、自動搬出ラインが次々と黄色へ変わっていく。
防衛速度は落ちる。
だが、暴走の可能性も抑え込まれていく。
リゼルはその変化を見ながら、静かに息を吐いた。
命令だけで守れない。
その現実が、また一つ防衛網の内側に食い込んでいた。
同じ防衛管制室の別系統で、エルマ・ディクセンはカルディア・ベイの揺らぎを見ていた。
彼女の前に並んでいるのは、単なる防衛記録ではない。
対象Y。
対象A。
対象L。
対象M。
対象I。
対象S、対象R。
ルクス側PT達の再分類案だった。
命令層を外されても安定している個体群。
命令に戻らず、自己応答を保持している個体群。
帝国の管理思想から見れば、危険な逸脱。
だが、防衛識別という観点では、利用価値があった。
「リゼル実務官」
エルマが声をかける。
リゼルは振り返らない。
「何だ」
「カルディア・ベイの防衛認証に、PT再分類案を接続すべきです」
管制室の空気がわずかに変わった。
リゼルは、そこでようやくエルマを見る。
「説明しろ」
「現在の防衛網は、ルクス側PTを旧来の系列識別で扱っています。Y系列、M系列、L系列、A系列といった分類です。しかし、命令層中枢停止後の彼女達は、旧分類のままでは捉えきれません」
エルマは淡々と続けた。
「対象Yは命令層切断能力保持個体。対象Aは自己応答保持個体。対象LはA系列との相互補完により指揮欠陥を補正。対象Mは支援個体から広域管制個体へ変質。対象Iは命令履歴保持ではなく、非命令記録保持へ変質しています」
その言葉には、感情がなかった。
嫌悪も、怒りもない。
ただ、分類しているだけだった。
「これを防衛認証へ反映すれば、ルクス側PTへの対処精度は上がります。カルディア・ベイの補助装置群も、彼女達の戦闘傾向に合わせた防衛部品を優先搬出できます」
「防衛識別として使うだけか」
「それだけでは不十分です」
エルマは即座に答えた。
「再制御案の一部も接続すべきです。特に対象Yと対象Aに関しては、命令層残滓を用いた限定再照合を行えば、行動予測だけでなく、反応遅延を誘発できる可能性があります」
リゼルの表情が険しくなる。
「却下だ」
エルマは目を細めた。
「理由を」
「今、命令層残滓の再接続を抑えている最中だ。その状態で、PT再制御案を防衛認証に直結すれば、カルディア・ベイそのものが再同期装置の一部になる」
「再同期ではありません。限定再照合です」
「言葉を変えても同じだ」
リゼルは低く言った。
「防衛識別としての参照は認める。ルクス側PTの行動傾向を防衛網が把握する必要はある。だが、再制御案の直結は認めない」
「防衛効率が落ちます」
「落ちてもいい」
「その判断でルクスが通過すれば、責任はあなたに向きます」
「構わない」
リゼルは即答した。
「だが、カルディア・ベイを命令層の残骸に戻す責任は取らない」
エルマは、しばらくリゼルを見ていた。
その目は、相手を人として見るものではなく、判断傾向を評価するものだった。
「あなたは、監察局より通常軍寄りですね」
「違う」
リゼルは短く返す。
「私は本国中枢側だ。だからこそ、暴走した防衛網で本国を焼くわけにはいかない」
エルマはわずかに沈黙した。
そして、再分類案の一部に制限表示を加える。
「では、防衛識別参照としてのみ接続します。ただし、記録は残します」
「残せ」
リゼルは言った。
「今は、残すものを選ぶ段階だ」
ルクス・ヴァルキュリア。
ノクス・レクイエム待機区画で、ユイは胸の奥に走る違和感に顔を上げた。
「……今の」
機体はまだ完全起動していない。
だが、ネメシア本国圏へ近づくほど、彼女の感覚に引っかかるものが増えていた。
命令層中枢で感じた、あの強い照合波ではない。
もっと薄く、細く、古い。
切れたはずの糸が、どこかでまた結び直されようとしているような感覚。
ユイは通信を開く。
「イリス、聞こえますか」
『聞こえています』
イリスの声が返ってくる。
彼女は記録区画で、保護記録の監視を続けていた。
「カルディア・ベイ側から、命令層残滓の反応が来ています。強くはありません。でも、旧回線に触ろうとしている感じがします」
『こちらでも確認しました』
イリスの声は静かだった。
『建造記録の一部が、命令層中枢停止前の認証形式を参照しようとしています。防衛記録、建造記録、搬出記録が混線しています』
「再同期波ですか」
『いいえ。今のところは違います』
イリスは少し間を置いた。
『これは、命令に戻ろうとしている記録です』
ユイはその言葉を聞いて、目を細めた。
「記録が、命令に戻ろうとしている……」
『カルディア・ベイは、おそらく命令で動くことに慣れすぎています。どの部品を出すか、どの艦を補修するか、どの砲台を起動するか。判断ではなく、命令で流す構造になっている』
イリスの前には、命令層中枢から保護した記録と、現在の本国圏から拾える認証反応が並んでいた。
帝国の記録は膨大だった。
そして、その多くが命令を前提にしている。
命令があれば動く。
命令があれば繋がる。
命令があれば迷わない。
だが、命令が止まった時、残された記録は行き先を失う。
その行き先を、また命令へ戻そうとしている。
「危険ですね」
ユイが言う。
『はい。ただ、完全な暴走ではありません。誰かが遮断しています』
「帝国側が?」
『おそらく』
イリスは記録を見つめた。
『旧回線へ戻ろうとする流れと、それを止める承認が同時にあります。監察局の動きとは違います。分類し、再制御しようとする反応もありますが、それを防衛認証に直結させないようにする別の判断もあります』
「リゼルでしょうか」
『可能性は高いです』
ユイは少しだけ息を吐いた。
敵側にも、全員が命令へ戻そうとしているわけではない。
その事実は、安心ではなかった。
むしろ複雑だった。
帝国は一枚岩ではない。
監察局。
通常軍。
中枢派。
リゼル。
エルマ。
それぞれが違う理由で動いている。
だからこそ、切れば終わる話ではない。
「イリス。今の反応、記録に残してください」
『はい。命令層残滓、カルディア・ベイ建造記録、防衛認証の揺らぎとして保存します』
「それと、リゼル側の遮断判断も」
『残します』
イリスは静かに答えた。
『命令に戻そうとした記録だけでなく、戻さなかった判断も、残すべき記録です』
ユイは頷いた。
「はい」
ノクス・レクイエムの待機表示が、わずかに明滅する。
まだ起動する時ではない。
今は、切るよりも見る時だった。
帝国本国圏の中で、何が命令へ戻ろうとしているのか。
何が、それを止めようとしているのか。
それを見極めなければならない。
カルディア・ベイ内部。
巨大建造ブロックの奥で、搬出ラインの一つが赤く染まった。
『旧命令層回線参照要求』
『防衛砲台補助装置、即時搬出承認要求』
『インペリウム関連補助装置、封鎖区画認証再確認』
技術官が声を上げる。
「リゼル実務官、第七建造区画が旧命令層回線へ再接続を試みています!」
「対象装置は」
「防衛砲台補助制御部、無人艦管制補修部品、それと……封鎖中のインペリウム補助装置の一部です」
管制室に緊張が走った。
インペリウム。
その名が出た瞬間、周囲の視線が揺れる。
リゼルは即座に命じた。
「第七建造区画の自動搬出を停止。旧命令層回線を遮断。手動承認に切り替えろ」
「防衛遅延がさらに拡大します」
「構わない。遮断しろ」
技術官が処理を実行する。
だが、警告表示は消えない。
旧命令層回線が、再接続を繰り返している。
まるで、命令へ戻ることが正しいとでも言うように。
リゼルは歯を食いしばった。
「まだだ」
声は大きくなかった。
だが、管制室の全員に届いた。
「命令に戻すな」
遮断命令が走る。
カルディア・ベイ第七建造区画の自動搬出ラインが停止した。
旧命令層回線の表示が、一つ、また一つと消えていく。
防衛速度は落ちた。
補修能力も鈍った。
それでも、暴走は止まった。
リゼルは表示を睨み続ける。
命令に戻せば早い。
命令に戻せば迷わない。
命令に戻せば、帝国はかつての形を一時的に取り戻せる。
だが、その先にあるものを、彼はもう見ていた。
通常軍を部品にし、PT達を対象に戻し、記録を命令へ変え、最後には帝国本国そのものを命令層の残骸に差し出す。
それは防衛ではない。
だからリゼルは、もう一度言った。
「まだだ。命令に戻すな」
カルディア・ベイの揺らぎは収まらない。
だが、その奥で、帝国本国中枢は初めて、命令以外の承認を選び始めていた。




