第361話 ネメシア本国圏到達
ルクス・ヴァルキュリアの正面に、帝国本国圏が広がっていた。
艦橋の大型投影窓には、星の光を遮るほど巨大な構造物群が映し出されている。
帝都『ネメシア』。
それは単なる都市ではなかった。
幾重もの防衛殻に包まれ、軌道上には軍事施設、行政中枢、通信塔、認証塔が重なり合っている。都市であり、要塞であり、帝国という巨大な命令構造の中心でもあった。
その外側には、帝国中央軍港『レグナリア』が横たわっている。
かつて通過した時とは違う。今見えているのは、軍港としての全容だった。
補給艦、重装艦、整備ドック、無人艦の待機区画。巨大な艦体を支える桁構造が、星間空間の中に鋼鉄の海を作っている。
さらにその奥には、巨大建造ブロック『カルディア・ベイ』があった。
艦を造るための場所。
機体を整えるための場所。
帝国の戦力を、絶えず作り直してきた場所。
その各所に、本国防衛砲台群が配置されている。砲口はまだ開いていない。だが、沈黙しているからこそ、その圧力は重かった。
無人艦管制圏には、識別信号を保留したままの艦影が並ぶ。
中央GD防衛線も、帝都外縁を取り囲むように展開を始めていた。
誰かが息を呑む音が、艦橋の中に小さく響いた。
ジンは指揮席に座ったまま、正面の表示を見つめていた。
「ネメシア本国圏外縁、到達。全艦、警戒態勢を維持」
リンの報告に、ジンは短く頷いた。
「進路は維持する。ただし、砲撃準備は最小限に留めろ。こちらから撃つな」
「了解。全砲門、待機状態を維持します」
ジンの声は静かだった。
だが、その静けさが、艦内にいる者達へ意味を伝えていた。
ここから先は、ただの突破戦ではない。
帝国本国圏に入る。
それは、敵の中心へ向かうことだった。
同時に、帝国で生きている者達の中心へ向かうことでもあった。
「黒瀬」
ジンが名を呼ぶ。
艦橋後方の監査卓で、黒瀬は複数の記録窓を開いていた。
「オルフェンの証言記録は?」
「初期整理分は保護済みです。監察局越権記録、レオン隊提出分との照合も完了しています」
黒瀬の指先が、表示を一つずつ確認していく。
「PT人格形成記録の保護領域も維持。命令層中枢から回収した記録のうち、再同期に直結する危険領域は隔離済み。閲覧権限は艦長、監査、医療、心理、技術解析班の共同承認制にしています」
「十分だ」
「十分とは言い切れません」
黒瀬は、画面から目を離さずに答えた。
「帝国側がこれを証拠として受け取るとは限りません。監察局は隠蔽を試みるでしょう。中枢派は、帝国本国防衛の名目で押し潰す可能性があります。通常軍も、全てがレオンのように動くとは限りません」
「だろうな」
ジンは正面を見たまま言った。
「だが、届けなければ始まらない」
黒瀬は一瞬だけ沈黙した。
その後、短く頷く。
「はい。だから、こちらは侵攻ではなく、記録と証言の提示を目的として進入します。監査記録上も、その線で残します」
「頼む」
ジンはそう言ってから、艦橋全体へ視線を向けた。
「全員に再確認する。これよりルクス・ヴァルキュリアは、ネメシア本国圏へ進入する。目的は帝国本国中枢の破壊ではない。命令層中枢で保護した記録、オルフェンの証言、監察局越権の証拠を届けることだ」
艦橋の空気が引き締まる。
「だが、進路を塞がれれば突破する。撃たれれば守る。命令で声を潰そうとするものがあれば、止める」
ジンは、そこで一度言葉を切った。
「これは、帝国を滅ぼすための航路ではない。命令ではない声を、帝国本国へ届けるための航路だ」
誰も、すぐには返事をしなかった。
だが沈黙は、迷いではなかった。
それぞれが、その意味を受け取っていた。
格納庫では、アルタイル・ノヴァ・ブレイスが出撃待機状態に入っていた。
カイトはコクピットの前で、機体の外装を見上げている。
整備班が最終確認を進める音が、周囲で響いていた。
だが、カイトの意識は目の前の機体だけにはなかった。
艦内モニターに映るネメシア本国圏。
帝都。
軍港。
建造ブロック。
防衛線。
それらを見て、カイトは改めて実感していた。
ここは、敵の本拠地だ。
けれど、それだけではない。
ここには人がいる。
命令を出す者だけではなく、命令に従って働く者もいる。軍人も、整備士も、技術者も、記録官も、何も知らされずに防衛線の内側で暮らす者もいる。
帝国という言葉で一つにまとめてしまえば簡単だった。
だが、そこにいる全員が、監察局でも、命令層でも、オルフェンでもない。
「……ここを抜くんじゃなくて、ここに届ける、か」
カイトが小さく呟く。
背後から、ユイの声がした。
「難しい言い方をすると、そうですね」
振り返ると、ユイがノクス・レクイエムの待機区画側から歩いてきていた。
戦闘服姿だった。
ただし、その表情はいつものような軽さだけではない。
どこか遠いものを見るように、格納庫の大型表示を見上げている。
「ユイ」
「大丈夫です。まだ、ノクスは起動していません」
「いや、そこじゃなくて」
カイトは少し言葉を探した。
「戻ってきた、ことになるのか」
ユイはすぐには答えなかった。
表示の中のネメシアを見つめる。
帝国本国。
自分が作られた場所。
自分をY系列として扱い、命令層切断能力を持つ個体として記録し、現地潜伏させた構造の中心。
そこへ、今度はルクス・ヴァルキュリアの一員として来ている。
「戻ってきた、とは少し違います」
ユイは静かに言った。
「私は、あそこから出てきたんだと思います。でも、あそこへ帰るわけじゃありません」
「じゃあ、何だ?」
「返しに来たんです」
ユイは、カイトを見た。
「私達の声を。帝国が命令に変えてきたものを、命令ではない形で返しに来たんです」
カイトは、その言葉を受け止めた。
ユイは笑わなかった。
冗談で軽く流すこともしなかった。
ただ、自分の言葉として言っていた。
「怖くないか」
「怖くないと言ったら嘘になります」
ユイは素直に答えた。
「でも、命令層中枢で分かりました。切るだけでは駄目です。切った後に、どこへ渡すか。誰と持つか。それを決めないといけない」
「今度は?」
「今度は、帝国本国に見せます」
ユイはネメシアを見た。
「命令を外しても、声は残る。命令で縛らなくても、私達は壊れない。それを、見せに行きます」
カイトは小さく息を吐いた。
「なら、俺は前に出る。お前がその声を届ける時間を作る」
「はい」
ユイは頷いた。
「お願いします、カイト」
その声は、命令ではなかった。
だからカイトも、自分の意思で頷いた。
帝国本国中枢、防衛管制室。
リゼル・オルブライトは、展開される警戒表示を見つめていた。
ルクス・ヴァルキュリア。
識別不能艦ではない。
もはや帝国側も、その名を知らないふりはできなかった。
外縁防衛線を抜け、命令層中枢を停止させ、オルフェンを拘束し、対象Aの自己応答保持を成立させた艦。
監察局は、なおもそれを異常勢力、命令層破壊要因、再分類対象群と呼んでいる。
だがリゼルにとって、今重要なのは呼び名ではなかった。
接近している。
それだけが現実だった。
「本国防衛砲台群、照準待機。無人艦管制圏、第一次認証保留。中央GD防衛線、展開率六十二パーセント」
技術官が報告する。
「レグナリア軍港より、通常軍艦隊が迎撃配置へ移行中。カルディア・ベイは建造区画の防壁を閉鎖。民間連絡線は制限中です」
「命令層残滓の影響は」
「不安定です。旧命令層経路を使えば展開は早まりますが、再同期波の残留干渉が予測されます」
リゼルは眉を寄せた。
「使うな」
「しかし、通常系統だけでは防衛線の接続が遅れます」
「命令層中枢が停止した直後だ。残滓を安易に再接続すれば、防衛網そのものが暴走する」
技術官は言葉を詰まらせた。
リゼルは、表示の中に浮かぶネメシア防衛網を見た。
命令だけで守る。
かつては、それが最も早く、最も確実な方法だった。
だが今、その命令の根が揺らいでいる。
揺らいだ根を無理に使えば、防衛線は敵ではなく、内側の者を巻き込む。
「手動系統を優先する。判断できる者を各防衛節点へ置け。無人艦の自動交戦権限は凍結。砲台群は本国防衛司令の二重承認なしに撃つな」
「了解」
別の表示窓が開いた。
エルマ・ディクセンからの報告だった。
対象Y、対象A、対象L、対象M、対象Iに関する再分類案。
リゼルはそれを一瞥し、すぐに閉じた。
今は分類ではない。
今、必要なのは防衛線を壊さないことだ。
「ルクス側から通信要求は」
「まだありません。ただし、進路はネメシア本国圏に向いています」
「警告を送る準備をしろ」
「文面は」
リゼルは少しだけ沈黙した。
その後、低く言った。
「帝国本国への敵対行為と見なす。だが、即時砲撃とは書くな」
技術官が一瞬だけ目を上げる。
リゼルは続けた。
「撃てば始まる。始まれば、止められない。こちらは防衛する。だが、監察局のように実験場にはしない」
「了解しました」
リゼルは、画面の中のルクス・ヴァルキュリアを見た。
「来るなら、正面から来い」
それは挑発ではなかった。
防衛責任者としての言葉だった。
レグナリア軍港外縁。
通常軍艦隊の中で、レオンはエリシオンの指揮座にいた。
クラウスが横で状況を読み上げる。
「ルクス・ヴァルキュリア、ネメシア本国圏外縁へ到達。進路は本国中枢方面。砲撃準備反応は低。防御出力は上昇中です」
「撃つ気はない、か」
「少なくとも、今のところは」
クラウスは言葉を選んで答えた。
「本国中枢より迎撃配置命令。ただし、監察局単独指揮ではありません。通常軍系統での防衛指揮です」
レオンは短く息を吐いた。
監察局単独処理の禁止。
皇帝府から下った、その小さな命令が、ここにも影響している。
以前ならば、監察局が命令層の名を使い、通常軍を駒として配置していただろう。
今は違う。
少なくとも、命令系統上は通常軍が通常軍として動いている。
「リュカ隊は」
「ヘルメス隊、側面妨害位置へ移動済み。ただし、監察局残存端末には接近させていません」
「それでいい」
レオンは正面の表示を見る。
ルクス・ヴァルキュリアの巨大な艦影が、遠くに浮かんでいた。
敵だ。
その認識は変わらない。
帝国防衛線を越え、命令層中枢を止め、本国圏へ接近している以上、帝国通常軍として見過ごすことはできない。
だが同時に、レオンは知っている。
監察局は帝国通常軍を実験材料にした。
命令層の名で兵を消耗させ、責任を押しつけようとした。
ルクスが敵であることと、監察局が正しいことは同じではない。
「閣下」
クラウスが静かに言った。
「本国防衛戦です。ここから先、判断を誤れば、通常軍は中枢派にも監察局残党にも利用されます」
「分かっている」
「ルクスを通すわけにはいきません」
「ああ」
レオンは頷いた。
「通すわけにはいかない。だが、帝国軍を部品にする命令にも従わない」
クラウスは、それ以上何も言わなかった。
レオンは指揮卓に手を置く。
「全艦へ通達。ルクス・ヴァルキュリアを迎撃する。ただし、監察局残存端末からの直接命令は受けるな。本国防衛司令と通常軍指揮系統のみを有効とする」
「了解」
「無人艦を盾にする配置も禁じる。有人艦を命令層中継器にする要求が来た場合は、私に回せ」
クラウスが小さく頷く。
「記録します」
「記録しろ。今度は、残すためにな」
レオンは正面を見据えた。
ルクスは来る。
ならば、自分も立つ。
味方としてではない。
帝国を守る通常軍人として。
そして、帝国軍を命令の部品にしないために。
ルクス・ヴァルキュリア艦橋。
警告音が鳴った。
「ネメシア本国圏より通信。全周波数に同時送信です」
リンが振り返る。
ジンは頷いた。
「開け」
艦橋中央に、帝国本国中枢からの警告文が表示される。
音声も同時に流れた。
『ルクス・ヴァルキュリアへ告げる。これ以上の進入は、帝国本国への敵対行為と見なす』
艦橋の空気が張り詰めた。
カイトはアルタイル・ノヴァ・ブレイスのコクピット内で、その通信を聞いていた。
ユイも、ノクス・レクイエムの待機回線で同じ声を聞いている。
黒瀬は記録窓を開き、通信内容を監査ログへ保存した。
ジンはしばらく黙っていた。
そして、通信席へ視線を向ける。
「返信を送る」
「はい」
リンが回線を開く。
ジンは立ち上がらなかった。
声を荒げることもしなかった。
ただ、艦長として、正面に向かって答えた。
「こちらはルクス・ヴァルキュリア艦長、ジン」
艦橋が静まり返る。
「記録を届けに来た。命令層中枢で保護した記録、監察局越権の証拠、オルフェンの証言、そして命令ではない声だ」
ジンは一度だけ、正面のネメシアを見た。
「だが、通さないなら、こちらも進むしかない」
通信が送信される。
その瞬間、ネメシア本国圏の防衛線が、ゆっくりと動き始めた。
帝国中央軍港『レグナリア』の艦隊が前へ出る。
本国防衛砲台群が沈黙したまま砲口を開く。
無人艦管制圏の識別信号が、一斉に明滅する。
中央GD防衛線が、帝都の前に壁を作る。
カイトは操縦桿を握った。
ユイはノクス・レクイエムの起動キーに手を添えたまま、まだ押さなかった。
黒瀬は記録を閉じず、次の承認画面を開いた。
ジンは静かに命じる。
「ルクス・ヴァルキュリア、前進」
命令ではない声を届けるために。
帝国本国圏への進入が、始まった。




