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第360話 ネメシア前夜

 ルクス・ヴァルキュリアの艦内は、静かだった。

 戦闘が終わった直後の静けさではない。

 損傷確認、救護、補給、機体整備、証言記録、観測ログの整理。

 やるべきことは、まだ山ほど残っている。

 それでも、艦内の空気はどこか張り詰めていた。

 命令層中枢は停止した。

 再同期基盤は隔離された。

 オルフェンは拘束され、証言対象として共同管理下に置かれている。

 アミィは、自分をアミィとして返事した。

 ユイは、命令層接続を切った。

 イリスは、命令ではない記録を残した。

 だが、それで終わりではなかった。

 帝国本国圏、ネメシア。

 そこにはまだ、命令層中枢停止の結果を受け取る者達がいる。

 艦橋の中央で、ジンは表示された複数の記録を見ていた。

 黒瀬、カイト、ユイ、ミオ、イリス、レータ、アミィ、カナデ、リクト、アルベルト、レオニス。

 それぞれが、別々の端末から報告を確認している。

 カイルやレイヴン側の記録も、別系統で照合されていた。

 ジンが口を開く。

「オルフェンの初期証言記録をもう一度確認する」

 黒瀬が頷き、端末を操作した。

『監察局管理者オルフェン』

『命令層中枢観測責任者』

『対象A再同期処理関与』

『観測ログ欠損』

『監察局端末保護優先命令への関与疑い』

『現在、ルクス側・地球側・帝国通常軍系記録との共同照合対象』

 黒瀬は淡々と読み上げる。

「本人は、再同期基盤の運用目的について一部証言を始めています。ただし、自己応答保持の瞬間については、記録欠損を理由に曖昧な供述をしています」

「逃げているのか」

 カイトが言う。

 黒瀬は首を横に振った。

「逃げている部分もあります。ですが、本当に観測できていない部分もある。あの男は、見ようとしたものを完全には記録できなかった」

 その言葉に、イリスが小さく目を伏せた。

「……命令ではない記録は、監察局に渡しませんでした」

 イリスの声は静かだった。

 だが、その声には確かな芯がある。

「アミィが自分で返事した瞬間も、ユイが切った場所も、ミオが受け取った空白も、レータとアミィが一緒に作った壁も。全部、命令の記録にはしませんでした」

 アミィは、自分の手を見つめていた。

 その手は、まだ時々震える。

 命令層中枢の揺らぎが、完全に消えたわけではない。

 再同期の残響が、彼女の奥に残っている。

 だが、彼女はもう、ただの対象Aではなかった。

「私は……覚えています」

 アミィが言った。

「記録に残っていなくても、私は、言いました」

 レータがそっと隣を見る。

「うん。聞いた」

 アミィは小さく頷いた。

「私は、アミィです」

 その言葉は、今度は戦場ではなく、艦橋の中に静かに落ちた。

 誰も急かさなかった。

 誰もそれを正式な名前として押し付けなかった。

 ただ、その声がそこにあることを確認した。


 別の画面に、保護済み記録が表示される。

 人格形成記録。

 日常記録。

 艦内適応記録。

 機体調整時の自己判断記録。

 戦闘中の判断保留記録。

 食堂での会話。

 整備区画での失敗。

 医療区画での反応。

 イリスが残した、命令ではない記録。

 カナデが、それらを見ながら言った。

「重要なのは、これを帝国側に渡すかどうかではありません。どういう形で見せるかです」

「そのまま渡せば、また分類や再制御の材料にされる可能性がある」

 リクトが続ける。

「特にアミィ、ユイ、ミオ、レータ、イリスの記録は危険です。命令層中枢で何が起きたかを示す一方で、帝国側が再現しようとすれば悪用されます」

 アルベルトが腕を組む。

「オルフェンのような者に渡せば、また観測対象にされる。エルマのような者に渡せば、再分類資料にされるでしょう」

 その名前に、ユイが反応する。

「エルマ・ディクセン……」

 レオニスが頷いた。

「帝国側に残っている人格機能評価の専門家です。彼女はおそらく、あなた達を自由になった存在とは見ない。命令層を外されても安定する、制御困難な人格機能として見るはずです」

 カイトが顔をしかめた。

「つまり、また対象扱いか」

「いいえ」

 カナデは静かに否定した。

「もっと厄介です。名前を知った上で、分類する」

 艦橋に、重い沈黙が落ちた。

 ユイは目を伏せる。

 名前を奪われることには慣れている。

 対象Y。

 原型。

 切断能力保持個体。

 帝国の記録に残る言葉はいくつもある。

 だが、名前を知ったまま分類される。

 それは、別の不快さがあった。

「……私をユイと呼んで、それでも分類するんですね」

「その可能性が高い」

 レオニスは答えた。

 ユイは小さく息を吐いた。

「なら、余計に行かないといけませんね」

 カイトがユイを見る。

「ユイ?」

「帝国が私達の名前を、分類のために使うなら」

 ユイは顔を上げた。

「私達は、その名前で返事をしに行くべきです」


 黒瀬は、別の記録を表示した。

「レオン隊から通常軍系統へ提出された監察局越権記録について、帝国側内部で照合が始まっています」

 表示されるのは、外縁方面軍の戦闘記録だった。

 通常兵への過負荷通信命令。

 命令層照合波の防衛転用。

 通常軍機を中継器扱いした命令。

 無人機の盾運用。

 監察局端末保護のため、通常軍犠牲を許容した指示。

 責任転嫁用の予備ログ。

 カイトは映像を見ながら、低く言った。

「レオンがこれを出したのか」

「レオン隊とクラウス、リュカ・ヴァレンのヘルメス隊記録が中心です」

 黒瀬が答える。

「ただし、誤解しないように。レオンは我々を擁護しているわけではありません」

「分かってます」

 カイトは頷く。

「帝国通常軍の指揮権を、監察局に踏みにじられたことを問題にしてるんですよね」

「そうです」

 ジンが言った。

「だが、それで十分だ。帝国内に、監察局だけで処理できない記録が生まれた。これはこちらにとっても重要な材料になる」

 ミオが端末を見ながら言う。

「帝国側では、監察局単独での処理が禁じられたみたいです。外宇宙観測局、通常軍、戦術演算局、中枢防衛認証部門の共同照合に切り替わっています」

「皇帝府が動いたか」

 ジンの声は重い。

「即時失脚や処罰ではない。ただ、監察局の権限は削られ始めている」

 黒瀬は頷いた。

「皇帝は戦わないでしょう。ですが、責任問題から逃げることもできない。監察局にすべてを任せることも、もうできないはずです」

 艦橋に表示された帝国側情報が、次々と並ぶ。

『監察局単独処理禁止』

『通常軍越権記録保全』

『命令層外安定個体群再分類案』

『ネメシア認証網暫定再編』

『無署名人格ノイズ線、隔離保存』

『インペリウム起動準備』

 最後の表示で、艦橋の空気が変わった。

 ジンが目を細める。

「インペリウム……」

 リクトが、苦い顔で言う。

「帝国本国中枢防衛機構。皇帝専用機ではなく、監察局専用機でも通常軍機でもない。本国認証網、命令層残滓、中枢防衛システムを統合する最終防衛機構です」

 アルベルトが続ける。

「起動すれば、レグナリア、カルディア・ベイ、ネメシア防衛砲台、無人艦、GD部隊を強制管制できる。PT反応照合と命令層再接続波も使用可能と見ていいでしょう」

 セラが小さく呟く。

「また、命令で全部つなぐ機体……」

 レイが拳を握る。

「だったら、相手は分かりやすいな」

「分かりやすいだけで、危険だよ」

 ミオが返す。

「ルナ・ドール・リンクとは規模が違う。あっちは帝国本国圏そのものを繋ぐための機構。もし起動したら、ネメシア全体が一つの巨大な命令網みたいになる」

 イリスは、少し不安そうに画面を見た。

「そこにも、残っているみたいです」

「何が?」

 カイトが聞く。

「命令ではないもの。無署名のノイズ。誰かが残した、分類できない線」

 黒瀬が端末を確認する。

「帝国側では隔離保存扱いになっている。ヴァイス・クロムウェルの痕跡の可能性あり」

 ユイが、その名前を聞いて顔を上げた。

「ヴァイス……」

 カナデの表情がわずかに曇る。

「本人がいるとは限りません。ただ、彼が昔、命令層内部に命令では測れない人格ノイズを残していた可能性はあります」

「それは、使えるのか」

 ジンが尋ねる。

 リクトは慎重に答えた。

「今はまだ分かりません。突破口になる可能性もありますし、罠や暴走要素になる可能性もある。ただ、少なくとも帝国側でも削除されずに残っている」

 黒瀬が言う。

「リゼル・オルブライトが保存を命じたようです」

「リゼル……」

 ユイはその名を繰り返した。

 アース・エデンで接触した帝国外交観測官。

 帝国側の人物でありながら、監察局とは違う判断をする男。

 味方ではない。

 だが、何もかも監察局に渡す人物でもない。

 その存在が、ネメシア本国圏で何かを変え始めている。


 ネメシア本国圏。

 リゼル・オルブライトは、再編後の認証図を見ていた。

 命令層残滓は、完全には消えていない。

 監察局旧回線も、完全には死んでいない。

 通常軍は防衛判断権を得たが、その分責任も背負った。

 エルマの再分類案は、中枢の奥で審査対象になっている。

 インペリウムは、本格起動こそしていないが、起動準備に入った。

 帝国は、まだ保たれている。

 だが、リゼルは知っていた。

 これは安定ではない。

 嵐の前に、無理やり線を結び直しただけだ。

 通信窓が開く。

 外縁方面軍、レオン隊からだった。

 画面に映ったレオンの表情は、いつも通り硬い。

『ネメシア防衛網の再編状況を確認した』

「外縁方面軍にも届きましたか」

『通常軍系統で共有された。監察局旧回線の保留と、現場防衛判断権の限定付与も確認している』

「反対ですか」

『必要な処置だ』

 リゼルは少しだけ意外そうに目を細めた。

 レオンは続ける。

『ただし、ルクス・ヴァルキュリアがネメシア本国圏へ向かうなら、通常軍は防衛行動を取る』

「分かっています」

『監察局の越権を認めないことと、帝国本国を守ることは矛盾しない』

「ええ」

 リゼルは頷いた。

「私も、ルクス側を通すために認証網を再編したわけではありません」

『ならばいい』

 通信が切れる直前、レオンは短く付け加えた。

『だが、監察局に記録を消させるな』

 リゼルは一瞬だけ黙り、それから答えた。

「そのために、残しています」

 通信が切れる。

 リゼルは、認証図の片隅に隔離保存された灰色線を見た。

 無署名人格ノイズ線。

 分類不能。

 正式記録ではない。

 だが、削除されずに残っている。

 帝国の中に、まだ命令ではない何かが残っている。

 それが何を意味するのか、リゼルにも分からなかった。


 ルクス・ヴァルキュリアの作戦会議室では、ネメシアへ向かう理由が整理されていた。

 ジンは全員を見渡す。

「確認する。我々は帝国本国を攻め落とすためだけにネメシアへ向かうわけではない」

 カイトが頷く。

「命令層中枢が止まっても、帝国本国にはまだ記録が届いていない。届いていても、監察局やエルマ達の分類で別の意味に変えられる可能性がある」

 カナデが続ける。

「アミィの自己応答、ユイの切断、イリスの記録、レータとアミィの共同防壁、ミオの支援網。それらを、監察局の観測記録ではなく、本人達の声と保護記録として示す必要があります」

 黒瀬が言う。

「同時に、オルフェンの証言、監察局越権記録、帝国通常軍の提出記録を照合する。帝国本国中枢に、監察局単独では処理できない形で渡す」

「それでも、戦闘は避けられないでしょうね」

 ミオが言った。

「ネメシア本国防衛網は再編されたけど、私達を歓迎するためじゃない。むしろ、次に来るなら止めるための準備です」

 レータが、アミィの方を見る。

「アミィは、大丈夫?」

 アミィは少し考えた後、頷いた。

「怖いです」

 その正直な言葉に、誰も笑わなかった。

「でも、私は残っています。記録にも、ここにも」

 彼女は自分の胸に手を当てた。

「だから、行けます」

 イリスが静かに言う。

「私も、記録します。命令ではなく、みんながどう選んだかを」

 ユイは二人を見てから、カイトへ視線を向けた。

 カイトは頷く。

「行こう。今度は、こっちから届ける番だ」


 ルクス・ヴァルキュリアの格納庫では、機体整備が進んでいた。

 アルタイル・ノヴァ・ブレイス。

 ノクス・レクイエム。

 ルナ・スケイル・リフレクト。

 ヴァルクレイド・セレス。

 フェンリオン・リサイト。

 ヴァナルガンド。

 ロス・セレネ。

 ヴァイス・リッパー・リビルド。

 レイヴン・ハウル。

 クロウヴェイル・ノア。

 どの機体も、次の戦闘がただの突破戦ではないことを示している。

 ネメシア本国圏へ向かう。

 そこには、帝国の防衛網がある。

 通常軍がいる。

 監察局残党がいる。

 エルマの再分類案がある。

 皇帝府の沈黙がある。

 そして、インペリウムが眠っている。

 命令で繋ぐ最後の形。

 それに対して、ルクス側が持っていくのは、命令ではない記録だった。

 誰かが自分で返事をした記録。

 誰かが撃たなかった記録。

 誰かが切り、誰かが受け取り、誰かが守った記録。

 命令ではなく、自分達の声で残した記録。


 艦橋に戻ったジンは、進路図を確認した。

 ネメシア本国圏までの航路が表示される。

 そこには、レグナリア軍港、カルディア・ベイ、防衛砲台群、無人艦管制圏、中央GD防衛線が重なるように配置されている。

 容易な道ではない。

 だが、行かなければならない。

 ジンは静かに言った。

「次は、帝国本国がこの記録をどう受け取るかだ」

 ユイは、その言葉を聞いて少しだけ目を閉じた。

 命令層中枢で切った線。

 アミィの声。

 イリスの記録。

 ミオの支援網。

 レータの防壁。

 カイトの判断。

 カナデ達が守った人格形成記録。

 それらは、まだ帝国本国に届ききっていない。

 届いたとしても、分類されるかもしれない。

 歪められるかもしれない。

 危険として扱われるかもしれない。

 それでも。

 ユイは目を開けた。

「なら、届けに行きましょう」

 彼女は静かに答えた。

「命令ではなく、私達の声で」

 ジンは頷いた。

「ルクス・ヴァルキュリア、ネメシア本国圏へ向けて進路設定」

 艦橋に、短い応答が重なる。

「進路設定」

「主機出力、段階上昇」

「外縁警戒網、展開」

「証言記録、保護区画へ移送」

「PT人格形成記録、封鎖維持」

「各機、出撃準備へ」

 巨大戦艦ルクス・ヴァルキュリアが、静かに向きを変える。

 その先にあるのは、帝国本国中枢。

 命令で秩序を保とうとする帝都、ネメシア。

 そして、その奥で眠る最終防衛機構。

 ネメシア前夜が、始まった。

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