第358話 無署名のノイズ
ネメシア認証網の再編は、表向きには成功した。
帝都ネメシア。
中央軍港レグナリア。
巨大建造ブロック、カルディア・ベイ。
本国防衛砲台。
無人艦管制網。
中央GD部隊の認証回線。
旧命令層残滓との接続要求。
それらは、三つの系統へ分けられた。
自動認証を維持する系統。
旧命令層残滓との接続を保留し、二重承認へ移した系統。
現場判断を含む手動防衛系統。
リゼル・オルブライトは、中枢認証管制室で再編後の認証図を確認していた。
青、黄、白の線が複雑に重なっている。
美しい図ではない。
帝国本国圏の防衛網としては、むしろ歪だ。
自動統制の統一感は薄れ、手動判断系統の白い線があちこちに挟まっている。
だが、今はそれでいい。
命令層残滓が、監察局旧回線を通じて本国防衛網へ流れ込む危険は下がった。
レグナリア軍港の発進承認も、カルディア・ベイの建造認証も、本国防衛砲台の照準系統も、少なくとも監察局単独では動かせない。
リゼルは小さく息を吐いた。
「再照合を続けてください。特に旧命令層残滓との接続要求は、変化があればすぐに出してください」
「了解」
中枢技術官達が作業を続ける。
その時、一人の技術官が手を止めた。
「リゼル観測官」
「何ですか」
「認証図に、未分類線があります」
リゼルは視線を向けた。
認証図の端に、細い灰色の線が浮かんでいる。
最初は、表示の乱れかと思った。
だが、よく見ると違う。
その線は、ネメシア中枢の奥から伸び、旧命令層残滓の一部に絡み、インペリウム関連封鎖領域の外縁で途切れている。
「所属は」
「不明です」
「監察局回線では」
「一致しません」
「通常軍記録系統は」
「違います」
「外宇宙観測局」
「該当なし」
「戦術演算局」
「正式経路にはありません」
リゼルは眉を寄せた。
「命令層標準経路では」
「違います。旧命令層残滓から派生しているように見えますが、標準経路ではありません」
「削除要求は」
「出ていません」
その言葉に、リゼルは少しだけ目を細めた。
削除要求が出ていない。
監察局の回線なら、削除か回収を求めてくる。
旧命令層の異常なら、自動修復要求が出る。
中枢防衛認証の未登録経路なら、警告が出る。
だが、その灰色の線は、ただそこにあった。
命令も出さず。
記録にもならず。
削除要求も出さず。
そして、旧命令層残滓の再接続を、わずかに遅らせている。
「この線を切った場合は」
リゼルが尋ねる。
技術官がシミュレーションを走らせる。
数秒後、表情を変えた。
「旧命令層残滓の再接続要求が増加します」
「どの程度」
「現在の三倍近くまで」
管制室の空気が変わった。
リゼルは認証図を見上げる。
無署名の灰色線。
それは不正経路に見える。
だが、同時に旧命令層残滓の再接続を妨げている。
つまり、帝国本国認証網の中に、命令層の完全な復帰を邪魔している何かが残っている。
リゼルは、戦術演算局へ照会を出した。
数分後、エルマ・ディクセンが通信に応じる。
『未分類線の照会と聞きました』
「はい。ネメシア認証網の再編中に、無署名の灰色線を検出しました。監察局、通常軍、外宇宙観測局、戦術演算局の正式経路には該当しません」
『表示してください』
リゼルは認証図を送る。
エルマは、画面を見たまましばらく黙った。
その沈黙は、これまでの彼女にしては長かった。
「心当たりが?」
『正式記録にはありません』
「正式記録には、ですか」
『はい』
エルマは拡大表示を要求した。
灰色線の周囲に、細かな断片が浮かぶ。
記録とは呼べない。
命令とも呼べない。
人格反応の残滓に似た、意味のない揺らぎ。
だが、それはただのノイズではなかった。
一定の周期で、旧命令層残滓からの再接続要求を逸らしている。
命令系統の流れを、完全に止めているわけではない。
だが、一直線に戻ることを妨げている。
エルマの目が、わずかに細くなる。
『人格機能上のノイズに近いですね』
「人格機能?」
『命令層内に残された、反応差、判断遅延、自己応答前駆、あるいは分類不能の人格残響。そういったものに近い』
「命令層に人格ノイズが残るのですか」
『本来は残りません。残すべきではありません』
エルマは、平坦な声で言った。
『命令層は、命令を伝達し、反応を整えるための構造です。人格由来の揺らぎは、運用効率を下げます』
「では、これは異常ですか」
『はい』
即答だった。
だが、リゼルはその灰色線から目を離せなかった。
異常。
その言葉で片付けるには、あまりにも機能的だった。
「異常にしては、旧命令層残滓の再接続を妨げています」
『異常が、別の異常を抑制することはあります』
「便利な説明ですね」
『分類不能な現象に、今すぐ物語を与えるよりは安全です』
リゼルは軽く息を吐いた。
エルマの言葉は正しい。
意味を急いで決めつけるのは危険だ。
だが、この灰色線を単なる除去対象として扱うのも、同じくらい危険に思えた。
中枢技術官が、追加解析を出す。
「灰色線の起点、完全には追えません。ただし、古い戦術演算局の補助記録領域を通過しています」
エルマの表情が、ほんのわずかに変わった。
リゼルはそれを見逃さなかった。
「エルマ主任」
『何でしょう』
「その補助記録領域に、心当たりがありますね」
『古い領域です。現在の運用では使われていません』
「誰が使っていた領域ですか」
通信越しに、わずかな沈黙。
エルマは答えた。
『複数名です』
「その中に、ヴァイス・クロムウェルは?」
管制室の数人が顔を上げた。
ヴァイス・クロムウェル。
帝国の戦術演算局、または人格機能研究に関わっていた人物。
現在は行方不明。
公式記録では、所在不明、接続権限凍結、関連研究領域の大半は封鎖扱い。
だが、その名は完全には消えていない。
命令層中枢で見つかった無署名ノイズ線。
分類不能の余白。
人格ノイズに関する痕跡。
その周囲に、彼の名がちらついていた。
エルマは、画面から視線を逸らさなかった。
『ヴァイス・クロムウェルが、その領域にアクセスしていた記録はあります』
「この灰色線は、彼が残したものですか」
『断定できません』
「可能性は」
『あります』
管制室がざわつく。
リゼルは認証図を見た。
無署名の灰色線。
命令ではない。
正式記録でもない。
削除要求も出さない。
だが、命令層残滓の再接続を妨げている。
それがヴァイスの痕跡だとすれば。
彼は、命令層の中に、命令では測れないものを残していたことになる。
意図的にか。
実験の副産物か。
消し忘れか。
あるいは、誰かが後で使えるように残した余白か。
分からない。
分からないが、今それは、ネメシア本国認証網の暴走をわずかに遅らせている。
エルマは、灰色線の解析結果を見ながら言った。
『これは、記録ではありません』
リゼルは顔を上げる。
『命令履歴でも、観測ログでも、人格形成記録でもない。帝国式分類では、正式な記録として扱えません』
「では、何ですか」
『分類不能な人格ノイズです』
その言葉は、冷たかった。
だが、どこか苛立ちにも似たものが混じっていた。
エルマにとって、分類不能という言葉は敗北に近い。
名前を付け、系列を与え、危険度を評価し、処置案を出す。
それが彼女の仕事だ。
その彼女が、分類不能と言わざるを得ない。
灰色線は、それほど扱いにくいものだった。
「削除しますか」
中枢技術官が尋ねた。
エルマは即座に答えた。
『削除を推奨します。少なくとも、防衛認証網からは切り離すべきです。人格ノイズを中枢防衛系統に残す理由はありません』
リゼルは何も言わなかった。
技術官が彼を見る。
「リゼル観測官」
判断を求めている。
リゼルは認証図を見つめた。
灰色線を削除すれば、防衛網はきれいになる。
未分類の経路が消え、認証図は整理される。
中枢官僚達にも説明しやすい。
監察局や戦術演算局からも、異常除去として通しやすい。
だが、同時に旧命令層残滓の再接続要求が増える。
それが何を意味するか、まだ分からない。
分からないものを削除するのは、帝国では正しい。
分類できないものを消すのは、効率的だ。
不正経路を残さないのは、安全だ。
だが、今の帝国は、その正しさで命令層中枢を失ったのではないか。
リゼルは、ゆっくりと息を吐いた。
「削除しません」
エルマの視線が、通信越しに彼へ向く。
『理由は』
「削除時の影響が大きすぎます。旧命令層残滓の再接続要求が増加する以上、防衛網から即時除去するのは危険です」
『人格ノイズを残す方が危険です』
「そうかもしれません」
『ならば』
「ですが、これは現在、防衛網の一部を壊しているのではなく、旧命令層残滓の復帰を遅らせています」
リゼルは端末を操作する。
「隔離保存します」
『隔離?』
「はい。防衛認証網に直接接続させず、しかし削除もせず、独立した観測領域で保全する。接続影響は監視。自動削除禁止。監察局単独回収も禁止」
中枢技術官が確認する。
「無署名灰色線を、隔離保存対象へ指定しますか」
「指定してください」
エルマが言った。
『ヴァイス・クロムウェル関連の可能性があるものを残すのですか』
「可能性があるから残します」
『彼は行方不明です。関連研究領域も凍結されています』
「だからこそ、今ここで消せば、何を消したのか分からなくなる」
リゼルは静かに答えた。
「欠けた記録を、さらに欠けさせるつもりはありません」
それは、監察局に対して言った言葉と同じだった。
エルマはしばらく黙っていた。
やがて、短く答える。
『隔離保存に異議を記録します』
「記録してください」
『分類名はどうしますか』
リゼルは少し考えた。
「無署名人格ノイズ線。暫定保存名です」
『記録ではありません』
「分かっています」
『分類不能です』
「それも記録してください」
エルマは目を細めた。
『あなたは、分類不能のものを残すのですね』
「今は、消すより安全です」
『帝国らしくありません』
「そうかもしれません」
リゼルは認めた。
隔離保存処理が始まる。
灰色線は、防衛認証図から完全には消えなかった。
ただし、直接の自動接続からは切り離される。
旧命令層残滓の再接続を妨げる影響だけを監視し、無制限に広がらないよう封じ込める。
中枢技術官達は、慎重に作業を進めた。
『無署名人格ノイズ線』
『正式所属不明』
『監察局経路該当なし』
『通常軍記録該当なし』
『命令層標準経路該当なし』
『戦術演算局旧補助記録領域を通過』
『ヴァイス・クロムウェル関連可能性あり』
『旧命令層残滓再接続を遅延』
『削除禁止』
『隔離保存』
その記録が作成される。
リゼルは、それを見つめていた。
無署名。
分類不能。
人格ノイズ。
帝国が嫌うものばかりだ。
だが、その嫌うものが、今は命令層残滓の再接続を遅らせている。
ならば、残す価値はある。
通信終了前、エルマが言った。
『リゼル観測官』
「何でしょう」
『そのノイズが、後で別の異常を起こす可能性もあります』
「承知しています」
『ヴァイス・クロムウェルは、人格機能の余白を過大評価していました』
「あなたは、過小評価しているのですか」
エルマは一瞬だけ黙った。
『私は、分類できないものを運用対象に含めるべきではないと考えています』
「ならば、今は運用しません。保存します」
『保存も、選択です』
「ええ」
リゼルは頷いた。
「だから、私の責任で保存します」
エルマは、それ以上何も言わなかった。
通信が切れる。
管制室には、再編中の認証図だけが残った。
そこには、まだ灰色の細い線がある。
防衛網から外され、隔離され、監視対象に入れられた小さな線。
だが、その線は消えていない。
帝国の中枢に、分類不能の余白が残った。
ヴァイス・クロムウェル本人は、そこにはいない。
だが、彼が残したかもしれない無署名のノイズは、確かにネメシアの奥に存在していた。
そしてそれは、命令層再接続を、ほんのわずかに遅らせ続けていた。




