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第356話 皇帝の沈黙

 皇帝府は、帝都ネメシアの最奥にあった。

 そこは、帝国のどの区画よりも静かだった。

 外宇宙観測局の記録室には通信音がある。

 戦術演算局には端末の処理音がある。

 監察局には警告表示と削除要求が飛び交っている。

 レグナリア軍港には艦艇の発進待機音が響いている。

 だが、皇帝府には、それらの音が直接届かない。

 厚い認証壁と幾重もの中枢防壁に守られたその部屋には、ただ処理済みの報告だけが上がってくる。

 帝国にとって都合よく整理された報告。

 危険度別に分類された報告。

 誰が責任を持つべきか、あらかじめ枠を用意された報告。

 しかし、この日届いた記録は、どれも整理しきれていなかった。

『命令層中枢停止』

『再同期基盤隔離』

『監察局管理者オルフェン拘束』

『監察局観測ログ欠損』

『対象A自己応答保持』

『対象Yによる命令層接続切断』

『外縁方面軍レオン隊、監察局越権記録を保全』

『戦術演算局、命令層外安定個体群の再分類案を提出』

 玉座の前に並ぶ中枢官僚達は、誰もすぐには口を開かなかった。

 皇帝、ヴァルディウス・ネメシス三世は、報告を見ていた。

 その顔に、怒りはない。

 焦りもない。

 だが、沈黙があった。

 沈黙だけが、玉座の間を支配していた。


「監察局からの一次説明です」

 中枢官僚の一人が、慎重に声を出した。

 壁面に監察局代表の通信窓が開く。

 映った男は、深く頭を下げた。

『本件は、外縁命令層中枢における敵性勢力の工作と、通常軍現場判断の混乱が重なった結果です。監察局としては、管理者オルフェンの拘束は不当であり、速やかな身柄返還と観測記録の回収を要求します』

 室内の一部がざわつく。

 監察局代表は続ける。

『対象Y、対象A、およびルクス・ヴァルキュリア側戦力は、命令層へ直接干渉しました。これは帝国中枢に対する明確な攻撃です。通常軍は本来、監察局の作戦に協力し、対象の回収を優先すべきでした。しかし外縁方面軍は――』

 そこで、別の通信窓が開いた。

 通常軍代表だった。

『通常軍側から補足します』

 監察局代表の顔がわずかに歪む。

『発言許可は』

 中枢官僚が皇帝を見る。

 皇帝は何も言わなかった。

 ただ、視線だけを通信窓へ向ける。

 それが許可になった。

 通常軍代表は、淡々と記録を投影した。

『外縁方面軍第七機動戦隊より提出された記録です。監察局は、命令層照合波を防衛転用する過程で、通常兵への過負荷通信命令を発しています』

 映像が出る。

 通常軍機の警告。

 命令層照合波の強制受信。

 パイロット反応遅延。

 無人機の盾運用。

 監察局端末保護優先命令。

 次々と、記録が並ぶ。

『通常軍機を通信中継器として使用する指示』

『監察局端末保護のため、通常軍損耗を許容した命令』

『外縁方面軍指揮権限の一時停止要求』

『失敗時の責任を現場判断へ転嫁する予備記録』

 監察局代表が声を荒げる。

『それは敵性干渉を受けた可能性のある戦闘記録だ。監察局による再検証が必要であり――』

『再検証の名で回収し、削除するためですか』

 通常軍代表の声は低かった。

 玉座の間の空気が、さらに冷える。

 監察局代表は黙った。

 中枢官僚の一人が、慌てて口を開く。

「陛下。現時点で監察局と通常軍が正面から対立することは避けるべきです。命令層中枢が停止した今、本国防衛のためには監察局の情報網が不可欠です」

 別の官僚が続ける。

「一方で、通常軍の反発も無視できません。外縁方面軍だけでなく、中央通常軍記録部門にも越権記録は届いています」

 さらに別の声。

「皇帝府として、早急に責任の所在を定める必要があります」

 責任。

 その言葉が出た瞬間、玉座の間の誰もが、皇帝の方を見た。


 責任は、監察局だけのものではなかった。

 命令層中枢は、監察局が勝手に作ったものではない。

 再同期基盤は、一部門の実験設備ではない。

 パルスティア達を命令層で管理してきたのは、帝国そのものだった。

 そして、皇帝はその帝国の頂点にいる。

 監察局の暴走を止められなかったこと。

 命令層中枢の実態を、少なくとも黙認していたこと。

 パルスティア達を、命令層管理の対象として扱ってきたこと。

 帝国本国中枢に、インペリウムという最終防衛機構を保持していたこと。

 そのすべてが、皇帝の権威の下にある。

 誰も、それを直接口にしなかった。

 だが、全員が理解していた。

 監察局だけを切り捨てれば、皇帝府は責任から逃げたように見える。

 通常軍だけを抑え込めば、戦場の不満は爆発する。

 監察局を全面擁護すれば、レオン隊の記録が火種になる。

 皇帝が即座に謝罪すれば、帝国本国圏の権威が揺らぐ。

 皇帝が沈黙を続ければ、各部門が勝手に動く。

 どの選択も、帝国を傷つける。

 それでも、選ばなければならなかった。


 リゼル・オルブライトは、皇帝府の末席に立っていた。

 外交観測局の観測官が皇帝府会議に同席するのは、本来なら異例だった。

 だが、命令層中枢停止が外宇宙認証へ波及する可能性がある以上、彼には照合報告を行う資格があった。

 リゼルは、皇帝の沈黙を見ていた。

 恐ろしいほど長い沈黙だった。

 怒鳴れば、まだ分かりやすい。

 誰かを処罰すれば、まだ形になる。

 監察局を庇えば、敵味方がはっきりする。

 通常軍を抑えれば、力の所在が見える。

 だが、皇帝は沈黙している。

 それは逃避にも見えた。

 同時に、軽々しく誰かを切れないことを理解している沈黙にも見えた。

 リゼルは、端末に視線を落とす。

 エルマ・ディクセンの再分類案が、すでに皇帝府にも届いている。

『命令層外安定個体群』

『再同期ではなく再分類すべき』

『再制御方針:要審査』

 監察局の失態。

 通常軍の証拠。

 戦術演算局の再分類。

 本国認証網の揺らぎ。

 インペリウム関連封鎖の確認要求。

 帝国の中枢は、いくつもの方向へ裂け始めている。

 リゼルは、それを見ながら思った。

 この場で皇帝が倒れれば、帝国は割れる。

 だが、何も変えなければ、もっと深く腐る。


 監察局代表が、再び口を開いた。

『陛下。監察局単独での処理をお認めください。オルフェン管理者の身柄を取り戻し、対象Yおよび対象Aに関する欠損記録を回収します。通常軍の提出記録は、監察局内で再検証した後、必要に応じて中枢へ再提出いたします』

 通常軍代表が即座に反応する。

『それは、証拠の単独回収要求です』

『通常軍には命令層関連記録を評価する資格がない』

『通常軍には、自軍がどのように扱われたかを記録する資格がある』

『監察局の作戦を妨害した言い訳だ』

『通常軍を監察局端末の盾として扱った事実は消えない』

 双方の声が重なる。

 中枢官僚達が顔をしかめる。

「陛下、このままでは――」

 その時、皇帝がわずかに手を上げた。

 それだけで、玉座の間は静まり返った。

 皇帝は、ゆっくりと視線を動かした。

 監察局代表。

 通常軍代表。

 中枢官僚。

 リゼル。

 そして、壁面に並ぶ報告記録。

 彼は長い時間、何も言わなかった。

 その沈黙の中で、全員が自分に都合のよい命令を待っていた。

 監察局は、単独処理の許可を。

 通常軍は、記録保全の承認を。

 中枢派は、本国認証網維持の明確な指針を。

 リゼルは、監察局報告だけに依存しない照合権限の保証を。

 皇帝は、そのすべてを理解しているように見えた。

 だが、彼の口から出た言葉は、短かった。

「監察局単独での処理を禁じる」

 空気が止まった。

 監察局代表の顔から、わずかに血の気が引く。

『陛下』

「本件に関わる記録、身柄、証言、戦術評価、認証照合は、監察局単独では扱わせない」

『しかし、それでは情報統制が――』

「統制ではなく、欠損を生む」

 皇帝の声は低かった。

「命令層中枢は停止した。観測ログは欠けている。オルフェンは拘束された。通常軍は越権記録を持っている。戦術演算局は再分類案を提出した。外宇宙観測局は認証網への波及を確認している」

 彼はそこで一度言葉を切った。

「この状況で、監察局単独の報告を帝国の判断とすることはできない」

 監察局代表は黙った。

 それは、処罰ではない。

 解体命令でもない。

 監察局の権限を完全に奪うものでもない。

 だが、初めてだった。

 皇帝の口から、監察局単独での処理を禁じる命令が出たのは。


 中枢官僚の一人が、慎重に尋ねた。

「では、陛下。今後の処理体制は」

「共同照合とする」

 皇帝は答えた。

「監察局、通常軍、戦術演算局、外宇宙観測局、中枢防衛認証部門による共同照合。記録原本の単独回収を禁じる。オルフェンの身柄についても、監察局への単独引き渡しを認めない」

 リゼルは、思わず目を上げた。

 それは、ルクス側が要求した共同管理条件と、形こそ違えど近い判断だった。

 もちろん、皇帝がルクス側を認めたわけではない。

 PT達の自己応答を認めたわけでもない。

 監察局を断罪したわけでもない。

 だが、少なくとも。

 監察局だけが、すべてを握ることはできなくなった。

 通常軍代表が深く頭を下げる。

『通常軍記録部門は、提出済み記録の保全を継続します』

 監察局代表は、苦々しく返す。

『監察局は、共同照合に協力します』

 その言葉が本心ではないことは、誰の目にも明らかだった。

 だが、皇帝の命令が出た以上、表向きは従うしかない。

 リゼルは静かに息を吐いた。

 帝国は崩れていない。

 だが、ひびは入った。


 会議が終わった後も、皇帝はしばらく玉座に残っていた。

 中枢官僚達が退出し、通信窓が閉じ、監察局と通常軍の代表も消える。

 リゼルも退出する直前、ほんの一瞬だけ皇帝を見た。

 皇帝は報告画面を見ていた。

 そこには、パルスティア達の再分類案が残っている。

 ユイ。

 アミィ。

 レータ。

 ミオ。

 イリス。

 セラ。

 レイ。

 ナユ。

 リン。

 名前が並んでいた。

 対象番号ではなく、名前が。

 それを皇帝がどう受け取ったのか、リゼルには分からない。

 だが、皇帝は画面を閉じなかった。

 ただ、沈黙したまま見ていた。


 皇帝府からの命令は、すぐにネメシア全域へ送られた。

『監察局単独処理禁止』

『命令層中枢停止関連記録、共同照合対象』

『オルフェン身柄、監察局単独引き渡し不可』

『通常軍提出記録、保全継続』

『戦術演算局再分類案、審査対象』

『外宇宙観測局、認証網波及確認継続』

『中枢防衛認証部門、インペリウム関連封鎖状態を再確認』

 それは、小さな命令だった。

 監察局を解体するものではない。

 皇帝が責任を認めたわけでもない。

 パルスティア達を自由な存在として認めるものでもない。

 だが、監察局の権威は確かに削られた。

 これまでなら、監察局が「回収する」と言えば、記録は監察局へ渡った。

 「再検証する」と言えば、欠損は監察局の内部で処理された。

 「対象」と呼べば、その名は消えた。

 しかし、今回は違う。

 監察局だけでは扱えない。

 通常軍が記録を持つ。

 外宇宙観測局が照合する。

 戦術演算局が分類する。

 中枢防衛認証部門が警戒する。

 皇帝府が沈黙のまま、すべてを見ている。

 帝国はまだ倒れていない。

 だが、命令で繋がれていた線は、少しずつ緩み始めていた。

 皇帝の沈黙の後に下された、小さな命令。

 それが、監察局の権威低下の始まりだった。

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