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第319話 低頻度重大誤判断

 ルクス・ヴァルキュリアには、久しぶりに生活の音が戻っていた。

 命令層中枢への突入準備は続いている。

 《ルナ・ドール・リンク》の試験準備。

 《セレス・バスティオン》の低出力装備調整。

 ノクス・レクイエムの封印確認。

 研究中枢最深部へ向かうための作戦整理。

 やるべきことは多い。

 それでも、艦内には警報が鳴っていない。

 誰かが食堂で食事を取り、誰かが通路で補給品を運び、誰かが整備区画で工具を片づけている。

 そんな、ほんの少しだけ取り戻した日常の中で。

 事件は起きた。


 居住区画へ続く通路。

 レータは、アミィと並んで歩いていた。

 行き先は保護区画ではない。

 カナデに言われた「休息任務」の一環として、艦内を少し歩いているだけだった。

 戦闘訓練でも、接続訓練でもない。

 ただ、普通に通路を歩く時間。

 アミィは、少しぎこちない足取りで隣を歩いている。

「レータさん」

「うん」

「休むことが任務、というのは難しいです」

「難しい」

 レータは真面目に頷いた。

「何もしない、という行動の定義が曖昧」

「はい。何もしないのに、任務なんですね」

「カナデが言うなら、重要」

 アミィは少しだけ頷く。

「では、今は休息任務中です」

「うん」

 その時、前方からコウタが工具箱を抱えて歩いてきた。

「あ、レータさん、アミィさん。食堂ですか?」

「休息任務中」

 レータが答える。

 コウタは一瞬戸惑い、それから納得したように頷いた。

「なるほど。休息任務」

 アミィが少しだけ胸を張る。

「はい。休んでいます」

「それは良かったです。あ、通路の右側、今さっき整備班が搬送機を通したので少し滑りやすいかも――」

 コウタが言い終える前に。

 レータが、何もない床で足を取られた。

 正確には、足を取られたように見えた。

 段差はない。

 障害物もない。

 床面に大きな汚れもない。

 コウタが注意した場所より少し手前で、レータの身体が唐突に傾いた。

「え」

 アミィが声を漏らす。

 次の瞬間、レータは見事に前のめりに倒れた。

 受け身を取ろうとしたようにも見えた。

 だが、足の運びと手の出し方が妙に噛み合わず、そのまま床に額を打つ。

 鈍い音が通路に響いた。

 レータは、動かなくなった。

 コウタの顔から血の気が引いた。

「レ、レータさん!?」

 アミィの表情が凍る。

「レータさん?」

 返事はない。

 数秒前まで普通に歩いていたレータが、何もない通路で転び、頭を打って倒れている。

 アミィの手が震えた。

「レータさん……?」

 その声が、細く震える。

 コウタは工具箱を放り出し、すぐに通信端末を叩いた。

「医療班! 居住区画前通路で転倒事故! レータさんが頭を打って意識なし! 急いでください!」


 艦内は、一瞬で騒ぎになった。

 カナデ、モルド、アイナが駆けつける。

 近くにいた黒瀬も、端末を持って現場へ向かった。

 整備区画からはグリッドとタツヤが、何事かと顔を出す。

 カイトとユイも通信を受けて駆けつけた。

 通路には、仰向けにされたレータが横たわっている。

 額に軽い打撲痕があり、意識はまだ戻っていない。

 アミィは、その場で膝をついていた。

「わたしが、隣にいたのに」

 カナデがすぐにアミィの肩へ手を置く。

「アミィちゃん、まず呼吸して」

「でも、レータさんが」

「大丈夫。モルドが確認しているわ」

 モルドは冷静に診断端末を当てていた。

「呼吸、脈拍、安定。瞳孔反応、問題なし。意識消失は一時的な脳震盪の可能性が高い。頭部打撲あり。念のため医療区画へ搬送します」

 アイナが冷却パックを差し出す。

「これ、使ってください」

「ありがとうございます」

 モルドは冷却パックを受け取り、打撲部へ慎重に当てた。

 コウタは青い顔で床を見ている。

「本当に、何もない……」

 グリッドがしゃがみ込み、床面を確認した。

「段差なし。突起なし。油汚れもなし。搬送機のタイヤ跡もここにはない」

 タツヤが額に手を当てる。

「じゃあ何で転んだんだ」

 黒瀬は端末に状況を記録しながら言った。

「現時点では原因不明。通路床面の詳細検査を行います」

 グリッドがレータを見た。

「いや、原因はたぶん床じゃねえな」

 ユイが静かに呟く。

「レータさん本人の可能性」

 カイトが小声で言う。

「それ、本人が聞いたら反論しそう」

 その時、アミィが震えた声で言った。

「レータさんは、壊れていませんか」

 全員が一瞬、言葉を失った。

 カナデがすぐに膝をつき、アミィと目線を合わせる。

「壊れていないわ」

「でも、返事がありません」

「今は気絶しているだけ。頭を打ったから、身体が休ませようとしているの」

「休んでいる……?」

「そう。危険だから、身体が一度止まっているの。処分でも、凍結でも、故障でもない」

 アミィは、レータの顔を見る。

「止まっているだけ」

「ええ。ちゃんと診て、休ませれば戻ってくる可能性が高いわ」

 モルドも淡々と補足した。

「医療判断としては、現時点で重大な損傷は確認されていません。念のため搬送します」

 アミィは、少しだけ息を吸った。

「わたしも、行っていいですか」

 カナデは頷いた。

「もちろん」


 医療区画。

 レータは簡易ベッドに寝かされていた。

 頭部の打撲は軽度。

 脳震盪による一時的な意識消失。

 念のため数時間の経過観察が必要。

 モルドはそう診断した。

 カナデは、アミィの反応も確認している。

 アミィはレータのベッドの横に座り、両手を膝の上で強く握っていた。

 ユイとカイトは少し離れた場所にいる。

 グリッド、タツヤ、コウタは医療区画の入口付近に立っていた。

 黒瀬は事故記録を作成している。

 しばらくして、レータの指がわずかに動いた。

 アミィが息を呑む。

「レータさん」

 レータのまぶたがゆっくり開いた。

 数秒、天井を見ている。

 それから、視線だけを横に動かした。

「……床に」

 全員が静かになる。

 レータは、真顔で言った。

「段差はありませんでした」

 医療区画に、何とも言えない沈黙が落ちた。

 グリッドが深く息を吐く。

「第一声がそれか」

 タツヤが肩を落とす。

「心配したんだぞ」

 コウタは半泣きのような顔で言った。

「本当にびっくりしたんですから!」

 レータはゆっくり瞬きをした。

「申し訳ありません」

 アミィが震える声で言う。

「レータさん」

「うん」

「生きていますか」

 レータは少し考えた。

「生きている」

 アミィの目に涙が浮かんだ。

「よかった……」

 レータは、そこでようやくアミィの様子に気づいたように、少しだけ表情を変えた。

「アミィ、怖かった?」

「怖かったです」

 アミィははっきり答えた。

「レータさんが返事をしなくなりました」

「うん」

「わたしが隣にいたのに、止められませんでした」

 レータは黙った。

 それから、ゆっくりと言う。

「今のは、止めにくい」

 グリッドが即座に言う。

「そりゃそうだ。何もないところで突然転んだからな」

 レータは真面目に反論した。

「低頻度です」

 黒瀬が端末から顔を上げる。

「低頻度でも、頭部打撲は記録対象です」

 レータは少しだけ眉を寄せた。

「記録」

「はい。艦内事故記録、医療記録、通路安全確認記録、L系列日常行動上の注意項目です」

 グリッドが呆れる。

「項目増えすぎだろ」

「必要な記録です」

 ユイが静かに言う。

「黒瀬さんらしいです」

 カイトは小さく笑った。

「でも、今回は記録しておいた方がいいと思う」

 レータは少しだけ目を伏せた。

「反論しづらい」


 アミィは、レータの手を握っていた。

 レータはまだ起き上がれない。

 モルドから、しばらく安静を命じられている。

 その様子を見て、アミィは小さく言った。

「レータさんも、倒れるんですね」

 レータは答える。

「倒れる」

「完璧じゃないんですね」

「完璧ではない」

「頭を打つんですね」

「打った」

「厨房にも入れません」

「制限されています」

「工具棚も全部は整理できません」

「限定分類だけ許可」

 アミィは、少しだけ笑った。

 その笑いは、まだ涙の残った顔に浮かぶ小さなものだった。

「レータさんは、たくさん制限されています」

 レータは真顔で頷く。

「安全のため」

「でも、みんなレータさんを嫌っていません」

 レータは少しだけ沈黙した。

「たぶん」

 グリッドが入口から言う。

「嫌ってたら、こんなに騒がねえよ」

 タツヤも頷く。

「心配したから騒いだんだ」

 コウタが強く頷く。

「本当に心配しました」

 アイナが冷たい水を置きながら言う。

「厨房には入れないけど、食堂には来ていいのよ」

 レータは少し考えた。

「厨房と食堂は別」

「そう。食べる側なら歓迎」

「理解しました」

 アミィは、そのやり取りを見ていた。

 失敗した。

 倒れた。

 頭を打った。

 みんなが慌てた。

 怒った。

 記録した。

 制限を増やした。

 でも、誰もレータを捨てない。

 誰も、もう使えないとは言わない。

 誰も、凍結しろとは言わない。

 アミィの手に、少し力が入った。

「失敗しても、終わりではないんですね」

 カナデが静かに頷く。

「そうよ」

「倒れても、診てもらえる」

「ええ」

「怒られても、隣にいていい」

「もちろん」

 アミィはレータを見る。

「レータさん」

「うん」

「今度、通路を歩く時は、わたしも見ます」

 レータは真面目に答えた。

「お願い」

 グリッドがぼそりと言う。

「本当に見てやってくれ」

 黒瀬が端末に追記する。

「レータの休息任務中は、同行者による周辺確認を推奨」

 レータは少しだけ不満そうに言う。

「そこまで必要?」

 全員が同時に言った。

「必要です」

 レータは黙った。


 少し後。

 医療区画には、カナデとアミィだけが残っていた。

 レータは安静のため、目を閉じている。

 眠っているわけではないが、モルドから会話を控えるように言われている。

 アミィは、その横で静かに座っていた。

 カナデが声をかける。

「怖かったわね」

「はい」

 アミィは小さく頷く。

「レータさんが返事をしなくなった時、戻れない場所へ行ったのかと思いました」

 カナデは黙って聞く。

「帝国の記録なら、反応停止。異常。処理区分。そういう言葉になるのかもしれません」

「そうね」

「でも、ここでは違いました」

 アミィはレータを見る。

「コウタさんが医療班を呼んで、モルドさんが診て、アイナさんが冷却パックを持ってきて、グリッドさんが床を調べて、黒瀬さんが記録して、みんなが怒っていました」

 カナデは少しだけ微笑む。

「ええ。みんな慌てていたわ」

「慌てるのは、大事ですか」

「大事よ」

 カナデは言った。

「誰かが倒れた時に慌てるのは、その人が大事だから。もちろん、医療班は冷静でないといけないけれど、心配して慌てる気持ちは悪いものじゃないわ」

 アミィは胸に手を当てる。

「わたしも、慌てました」

「それは、レータちゃんが大事だからね」

 アミィは少しだけ目を伏せた。

「はい」

 カナデは続ける。

「帝国は、揺れや失敗を危険として記録した。でも、ここでは、揺れたら支える。失敗したら対策する。倒れたら診る。それだけなの」

「それだけ」

「ええ。それだけのことを、ちゃんとやる場所なの」

 アミィは、その言葉を静かに受け止めた。

「わたしも、失敗したら、診てもらえますか」

「もちろん」

「怖くなったら、止めてもらえますか」

「もちろん」

「返事ができなくなったら」

 カナデは、少しだけ真剣な表情になる。

「その時は、戻ってこられるように、みんなで呼ぶわ」

 アミィの目が揺れた。

「呼んで、くれるんですね」

「ええ」

 アミィは、ゆっくり頷いた。

「では、わたしも呼びます」

「誰を?」

「レータさんが倒れたら、レータさんを。ユイさんが怖くなったら、ユイさんを。ミオさんが無理をしたら、ミオさんを」

 アミィは少し考える。

「わたしも、誰かを呼んでいいんですね」

 カナデは柔らかく頷いた。

「もちろん」


 通路事故の原因調査は、結局こう結論づけられた。

 床面異常なし。

 照明異常なし。

 搬送機油分なし。

 突起物なし。

 外部干渉反応なし。

 命令層干渉なし。

 重力制御異常なし。

 原因。

 歩行中の姿勢制御ミス。

 黒瀬は、端末にその記録を入力した後、少しだけ間を置いた。

 そして、備考欄へ追記する。

 L系列個体特性との関連可能性あり。

 ただし、重大欠陥ではなく、日常運用上の注意事項として管理。

 対策。

 休息時の同行推奨。

 通路安全確認。

 疲労時の単独移動制限。

 本人への注意喚起。

 周囲による過度な揶揄は禁止。

 グリッドが横から覗き込む。

「過度な揶揄は禁止、か」

「必要です」

「まあな。笑い話で済む範囲と、傷つく範囲は違うからな」

 黒瀬は頷く。

「はい。今回は笑える部分もありますが、頭部打撲です。事故としては真面目に扱います」

 タツヤが言う。

「帝国なら、こういうのも指揮型の欠陥扱いか」

「おそらく」

 黒瀬は端末を閉じた。

「ですが、こちらでは日常運用上の注意事項です」

 グリッドは少しだけ笑った。

「ずいぶん差があるな」

「その差が重要です」


 翌日。

 レータは医療区画から出ることを許可された。

 ただし、数日は安静。

 激しい訓練禁止。

 ヴァルクレイド・セレスの高負荷接続禁止。

 厨房作業禁止。

 工具棚再分類禁止。

 単独での長距離移動は非推奨。

 レータは、その一覧を見て少しだけ黙った。

「禁止が増えました」

 アミィが隣で頷く。

「安全のためです」

「アミィも言うようになった」

「はい。カナデさんに教わりました」

 レータは少しだけ考え、それから頷いた。

「では、従います」

 アミィは手を差し出した。

「通路、見ます」

 レータは、その手を見た。

 それから、そっと握る。

「お願いします」

 二人は並んで歩き出した。

 今度は、アミィが少し前を見ている。

 床を確認し、搬送機の跡を見て、曲がり角を注意する。

 レータは、その様子を見て言った。

「アミィ」

「はい」

「頼もしい」

 アミィは少しだけ驚き、それから小さく笑った。

「レータさんが転ばないようにします」

「助かる」

 少し離れたところで、コウタがそれを見ていた。

「なんか、立場が逆になってません?」

 アイナが隣で笑う。

「隣にいるって、そういうこともあるんじゃない?」

 コウタは少し考えて、頷いた。

「なるほど」


 格納区画。

 ヴァルクレイド・セレスの前で、レータとアミィは立ち止まった。

 《セレス・バスティオン》の低出力装備はまだ調整中だ。

 重装防衛線を作るための装備。

 戻されない場所を守るための壁。

 レータは、その機体を見上げる。

「私は、全部を間違えない指揮型にはなれない」

 アミィは隣で聞いていた。

「たぶん、これからも時々間違える」

「低頻度ですか」

「低頻度」

 レータは真顔で答えた。

「でも、重大になる時がある」

 アミィは少しだけ表情を引き締めた。

「その時は、止めます」

「うん」

「わたしが間違えたら」

「私が止める」

「はい」

 二人は、しばらく黙って機体を見ていた。

 帝国の記録なら、これは欠陥だった。

 指揮型として許されない、低頻度重大誤判断。

 L系列凍結の理由。

 だが、この艦では違う。

 転んだら助け起こす。

 頭を打ったら診察する。

 無理をするなら休ませる。

 危ないなら制限を付ける。

 そして、次に転ばないように、誰かが隣を歩く。

 アミィは、そのことを少しだけ理解した。

 失敗しても、終わりではない。

 隣にいるとは、相手の強さだけでなく、弱さも一緒に見ることなのだと。


 ルクス・ヴァルキュリアでは、命令層中枢への突入準備が続いていた。

 《ルナ・ドール・リンク》の初期管制試験は、数時間後に予定されている。

 《セレス・バスティオン》の低出力防壁試験も、その後に行われる。

 ノクス・レクイエムは、引き続き封印待機。

 黒瀬の承認条件はさらに分厚くなり、グリッドはそれに文句を言いながらも整備を進めている。

 その中で、レータの転倒事故は、ひとつの記録になった。

 危険な欠陥としてではない。

 日常運用上の注意事項として。

 そして、アミィが「失敗しても終わりではない」と知るための出来事として。

 帝国は、揺れや失敗を恐れた。

 予測できないものを凍結し、制御し、補正しようとした。

 だが、ルクス・ヴァルキュリアは違う。

 揺れるなら支える。

 失敗するなら対策する。

 倒れたなら起こす。

 そして、また一緒に歩く。

 命令では作れない日常が、艦内にはあった。

 その日常を守るために、彼女たちは命令層中枢へ向かう。

 低頻度重大誤判断。

 帝国がそう記録したものは、この艦では、少し騒がしい日常の一部になっていた。

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