第289話 タナトス
再同期波は防がれた。
アミィは戻らなかった。
レータは守り切った。
ヴァルクレイド・セレスの防壁は、命令層の接続を遮断した。
ノクス・レクイエムは使われなかった。
それは、ルクス・ヴァルキュリアにとって小さくない成果だった。
だが、監察局にとっては敗北ではなかった。
観測は終わっていない。
記録は増えた。
次に分けるべきものが、明確になっただけだった。
第一防衛圏の外縁寄りに、黒い識別反応が浮かび上がった。
「新規機体反応!」
艦橋で索敵担当が声を上げる。
「監察局直轄識別。通常GDではありません。外縁戦で確認された特機反応に近いです」
黒瀬が端末を操作する。
「識別照合……GD-NM系列。番号照合、出ました」
画面に、黒い枠の警告表示が出る。
GD-NM-02 タナトス。
その名称が艦橋に表示された瞬間、空気が変わった。
「タナトス……」
ユイが低く呟いた。
カイトが振り返る。
「知ってるの?」
「詳細までは知りません。ただ、名前だけは記録で見たことがあります」
ユイは画面を見つめたまま続ける。
「処分用の機体です。撃破ではなく、対象を隔離し、回収不能または再処理可能な状態へ移すための機体」
「処分用……」
カイトの声が硬くなる。
ジンは前方画面を見据えた。
「敵機映像を出せ」
映像が拡大される。
タナトスは、派手な機体ではなかった。
巨大な砲口を持っているわけではない。
重装甲で押し潰すような姿でもない。
黒灰色の細い機体。
背部には、円環状の装置が複数重なっている。
腕部には刃ではなく、針のような細い展開器が並んでいた。
それは戦うための姿というより、手術器具を人型にしたような印象を与えた。
「火力反応は低い」
索敵担当が言う。
「ですが、周辺空間に異常な位相反応があります。フィールド展開機です」
黒瀬が端末を見て言った。
「監察局の目的は、撃破ではない。対象分離です」
ジンは即座に判断した。
「各機、限定出撃。カイトを前衛。セラ、照準補助。レイ、近接警戒。ミオ、支援網を最低限展開。イリスは識別補助に入れ」
「ユイは」
カイトが問う。
ジンは少しだけ間を置いた。
「ノクスは出さない。ユイはヴェルディアで支援防護。タナトスがノクスを狙っている可能性もある」
ユイは頷いた。
「了解しました」
「アミィとレータは保護区画を維持。ヴァルクレイド・セレスの防壁は最小範囲で継続。無理に出すな」
その命令に、艦内各所から応答が返る。
タナトスはまだ撃ってこない。
だが、第一防衛圏の空域が、静かに狭くなっていくように感じられた。
監察局管制区画。
オルフェン・グラードは、タナトスの出撃表示を見ていた。
「GD-NM-02、第一隔離位置へ移動開始」
局員が報告する。
「対象艦、限定出撃を開始。前衛機、アルタイル・ノヴァ・ブレイス。支援防護にGF-03。対象S、対象R、対象M、対象Iが支援に入ります」
「対象Yはノクスを使わないか」
「はい。GF-03に搭乗しています」
「妥当な判断だ」
オルフェンは淡々と言った。
「だが、こちらの目的は対象Yを切らせることではない。まずは対象群の接続を分ける」
画面に、アミィとレータ、ヴァルクレイド・セレスの防壁反応が表示される。
「対象Aと対象Lの接続は、現在も保護区画内で維持。ヴァルクレイド・セレスの防壁が自己応答を保持しています」
「では、外側から切る」
オルフェンは指示を出す。
「タナトスの第一隔離場を展開。対象艦全体ではない。支援経路、保護区画、ヴァルクレイド・セレス格納区画、GF-03の支援防護線を分断対象に設定」
「了解。戦闘データ取得を優先しますか」
「戦果は不要だ」
その言葉に、局員は何の疑問も示さなかった。
「対象がどう分かれるかを記録しろ。分離後の反応変化が必要だ」
アルタイル・ノヴァ・ブレイスが前へ出た。
カイトはコックピット内で、タナトスの位置を確認する。
敵機は近づいてくる。
だが、速度は速くない。
一直線に突撃してくるわけでもない。
まるで、必要な位置に器具を置くように、淡々と移動している。
「嫌な動きだな……」
カイトが呟く。
『相手は撃破を狙っていません』
ミオの声が通信に入る。
『タナトスの周囲に、複数の薄い境界線が出ています。支援網が分断されそうです』
「見えてる。前に出て止める」
『近づきすぎないでください。境界線に触れると、機体ごと支援網から切り離される可能性があります』
「了解」
カイトはアルタイルの速度を調整し、タナトスとの距離を保った。
その横から、レイのヴァナルガンドが滑り込む。
『近接で崩せるか試す』
「無理はするなよ」
『分かってる。あれ、斬る相手っていうより、触っちゃいけない相手だ』
レイの言葉通り、タナトスの周囲には薄い膜のようなものがあった。
攻撃用のフィールドではない。
だが、触れたものを別の空間へ滑らせるような歪みがある。
セラのフェンリオン・リサイトが後方に展開する。
『照準補助、開始します。ただし、通常の弱点表示が出ません』
「出ない?」
『装甲の薄い部分はあります。でも、そこを撃っても止まるとは限りません。フィールド発生器を狙う必要があります』
セラの照準補助AIが、タナトス周囲の位相変化を解析する。
機体本体ではなく、周囲の空間に浮かぶ歪み。
そこに、いくつかの節点が見えた。
『右背部円環、第三節点。あそこが隔離場の展開軸です』
「そこを撃てば止まる?」
『止まりません。でも、歪ませることはできます』
「十分!」
カイトはアルタイルのブレイスユニットを展開し、前方へ防御姿勢を取る。
タナトスが腕を上げた。
針状の展開器が開く。
次の瞬間、空間が裂けるように薄く揺れた。
保護区画。
アミィが顔を上げた。
「……遠くなる」
レータが即座に反応する。
「何が?」
「声じゃないです。レータさんが……遠くなる感じがします」
レータは端末を見た。
ヴァルクレイド・セレスとの支援線が揺れている。
防壁そのものは維持されている。
だが、その外側にある艦内支援経路が、細く引き伸ばされていた。
「タナトスの隔離場です」
エルマが報告する。
「保護区画とヴァルクレイド・セレス格納区画の間に、位相境界が形成されつつあります。このままでは、防壁の供給が不安定になります」
カナデがアミィの肩に手を添える。
「アミィちゃん、今はレータちゃんの声だけ聞いて」
「はい……」
だが、アミィの表情は不安げだった。
昨日の再同期波とは違う。
今回は命令が直接押し込まれてくるわけではない。
ただ、支えてくれているものが少しずつ遠ざけられていく。
その方が、かえって怖かった。
「レータさん」
「いる」
レータはすぐに答えた。
「私はここにいる」
だが、ヴァルクレイド・セレスとの接続波形は揺れていた。
タナトスは、レータを直接攻撃しているわけではない。
アミィを直接連れ去ろうとしているわけでもない。
ただ、二人を支えている線を、静かに分けようとしていた。
ミオはルナ・スケイル・リフレクトの支援席で、必死に支援網を維持していた。
「支援経路、分断圧が来ています」
額に汗が浮かぶ。
「押し返すと読まれます。逃がすだけだと、保護区画と格納区画の接続が薄くなります」
イリスが補助端末から声をかける。
「分断線の位相、完全な遮断ではありません。境界を固定する前に、揺らぎがあります」
「そこを使える?」
「はい。短い周期で開く隙間があります」
ミオは頷いた。
「セラさんに送ります。照準補助と合わせれば、隔離場の節点をずらせるかもしれません」
通信が繋がる。
『セラさん、分断線の揺らぎを送ります』
『受信しました』
セラの声が鋭くなる。
『照準補助AI、揺らぎ周期を反映。カイトさん、三秒後に右へ振ってください。レイさんは左側の境界に触れないで、手前で止めてください』
『了解!』
『分かった』
フェンリオン・リサイトの照準補助が、アルタイルとヴァナルガンドの動きを重ねる。
敵を撃ち抜くためではない。
空間をずらし、隔離場の形成を乱すための照準。
セラは息を止めるように集中した。
「今です!」
カイトがアルタイルを右へ振る。
ブレイスユニットが展開し、タナトスの前方に防御光を張る。
同時にレイが左側から踏み込み、境界に触れる直前で機体を止めた。
タナトスの隔離場が、その二つの動きに反応する。
セラが撃った。
フェンリオン・リサイトの射撃は、タナトス本体には当たらない。
だが、右背部円環の第三節点をかすめるように通過し、空間の歪みを一瞬だけずらした。
「節点、乱れました!」
ミオが叫ぶ。
「防壁接続、戻ります!」
保護区画の光が安定した。
アミィの表情から、不安の色が少しだけ薄れる。
「近くなった……」
レータは大きく息を吐いた。
「よかった」
「レータさん、まだいます」
「いるよ」
レータは微笑む。
「どこにも行かない」
だが、エルマは端末を見ながら表情を引き締めていた。
「今のは一時的な回復です。タナトスの隔離場そのものは消えていません」
カナデが頷く。
「つまり、倒したわけじゃない」
「はい。形成を乱しただけです」
アミィはその言葉を聞いて、少しだけ手を握る。
「また、遠くなるんですか」
レータは答えた。
「遠くなっても、戻す」
「……はい」
アミィは小さく頷いた。
「戻されるんじゃなくて、戻ってきます」
その言葉に、レータは一瞬だけ目を見開いた。
それはまだ小さな言葉だった。
だが、アミィが自分で選んだ言葉だった。
外部空域では、タナトスが後退する気配を見せていなかった。
右背部円環の一部に乱れはある。
だが、機体の損傷は軽微。
隔離場の出力も、完全には落ちていない。
「やっぱり倒せてないか」
カイトが舌打ちする。
『でも、突破口は作れました』
セラが言う。
『節点を撃てば、隔離場は一時的に乱せます。ただし、同じ場所を続けて使うとは限りません』
『相手も学習するってことか』
レイが言った。
タナトスは、攻撃を受けても慌てない。
反撃もしてこない。
ただ、隔離場の形を組み替え、次の分断角度を探っている。
ユイのヴェルディアが、支援経路の外縁を保護しながら移動する。
「これは、戦闘というより処置ですね」
ユイが言う。
「向こうは勝とうとしていません。分けようとしているだけです」
「それが一番嫌だな」
カイトは前方を睨む。
タナトスの円環が、再び展開する。
今度は、アルタイルとヴェルディアの間に薄い境界が走った。
「カイトさん、ユイさん、分断線!」
ミオが叫ぶ。
カイトは機体を前に出す。
「ユイを切り離させない!」
アルタイルがブレイスユニットを広げ、分断線に割り込む。
だが、境界に近づいた瞬間、機体の通信が乱れた。
『カイ……ト……さん……』
「ミオ?」
通信が一瞬、遠くなる。
視界の端で、ヴェルディアの反応が薄くなる。
距離は近い。
だが、支援網上では遠ざかっている。
タナトスの隔離場は、物理距離ではなく、接続を分けていた。
「くそっ……!」
カイトは機体を踏みとどまらせる。
そこへ、イリスの声が入った。
『カイトさん、境界の固定点は下方です。真正面から押すと、逆に切り離されます』
「ならどうする!」
『斜めにずらしてください。ユイさん、ヴェルディアの防護層を薄く広げてください。ミオさん、支援網を一点に集めず、二点に分けます』
ミオがすぐに応じる。
『できます。セラさん、照準補助をもう一度お願いします』
『了解しました』
ユイはヴェルディアの防護層を展開する。
薄く、広く。
遮断するのではなく、境界を滑らせるための層。
アルタイルが斜めに動く。
セラが節点を撃つ。
レイが側面からタナトスを牽制する。
隔離場が再び揺らいだ。
「接続、戻ります!」
ミオの声が戻る。
カイトは息を吐いた。
「危なかった……」
ユイも静かに答える。
「今のは、かなり危険でした」
「分かってる」
カイトはタナトスを睨んだ。
「あいつ、こっちを倒す気がないのに、下手な敵より怖い」
艦橋では、戦況が記録され続けていた。
「タナトス、隔離場を再構成。こちらの対応に合わせて分断対象を変更しています」
黒瀬が報告する。
「戦果ではなく、データ取得を優先しているな」
ジンが言った。
「はい。現時点でタナトスは、こちらの機体撃破を狙っていません。支援経路、PT反応、防壁、ノクス未使用時の対応を観測しています」
「厄介だな」
「非常に」
グリッドの通信が入る。
『撃って壊せないのか』
「壊せる可能性はある。だが、近づけば分断される。遠距離から撃っても隔離場の節点をずらされる」
黒瀬が答える。
『面倒くせえ処分機だな』
「処分用だからこそ、正面戦闘を避ける設計なのだろう」
ジンは判断した。
「深追いはしない。目的は突破口の維持だ。タナトスを倒すことではない」
黒瀬が頷く。
「各機へ通達します」
ジンは前方を見た。
第一防衛圏は、さらに奥へ続いている。
そして、その奥にはまだ監察局の本隊がいる。
「今は、あいつの動きを覚える。次に備えろ」
タナトスは、一定距離で動きを止めた。
撃破されていない。
追い払われたわけでもない。
ただ、必要な観測を終えたかのように、隔離場をゆっくりと収束させていく。
カイトは警戒を解かなかった。
「下がるのか?」
『後退ではありません』
ミオが言う。
『観測線がまだ残っています。タナトス本体は距離を取りますが、分断データは取られています』
ユイはヴェルディアの中で、タナトスの反応を見つめた。
「次は、もっと正確に来ます」
その言葉に、カイトは何も返せなかった。
今回、タナトスは倒せなかった。
だが、ルクス側も守り切った。
アミィとレータは分断されなかった。
ユイもノクスを使わなかった。
それは勝利と言えるかもしれない。
だが、監察局にとっては観測結果が増えただけだった。
監察局管制区画。
オルフェン・グラードは、タナトスの戦闘記録を確認していた。
「第一隔離場、対象Aと対象Lの完全分離には至らず」
局員が報告する。
「対象Sの照準補助により、隔離場節点を一時的に攪乱。対象Mと対象Iの支援補助により、分断線の揺らぎを検知。対象前衛機とGF-03により、支援経路の完全遮断を阻止されました」
「ノクスは」
「未使用です」
「よろしい」
オルフェンは淡々と言った。
「タナトスの隔離場は有効。対象側は、節点攪乱により一時的な対処が可能。対象Sの照準補助、対象Iの位相識別、対象Mの支援網が鍵になる」
局員が記録する。
「次回は、対象Sまたは対象Mへの妨害を先行しますか」
「候補に入れろ」
画面に、各対象のタグが更新されていく。
対象S。
隔離場節点攪乱能力あり。
対象M。
支援経路維持能力あり。
対象I。
位相識別補助能力あり。
対象L。
対象A保護防壁維持。
対象Y。
命令層切断反応未使用。
オルフェンは、その最後の表示を見た。
「切らない判断を続けている」
「警戒しているものと思われます」
「それでいい」
オルフェンは静かに言った。
「切らせる必要はない。切らなければ守り切れない状況を作れば、いずれ条件は見える」
局員は次の指示を待った。
オルフェンはタナトスの記録を閉じ、別の暗い表示を開く。
GD-NM-?? モルス。
記録沈黙機能、待機。
「タナトス単独では、対象群の接続を完全には断てない。ならば、次は見えなくする」
「モルスの準備を進めますか」
「まだだ」
オルフェンは答えた。
「まずは、再同期波と隔離場への対処で、彼らが何を優先するかを見る」
彼は、ルクス・ヴァルキュリアの進路を表示させた。
艦はまだ進んでいる。
帝国が示す航路ではなく、自分たちで選んだ航路を進んでいる。
その抵抗すら、監察局の記録には反応として残る。
「進ませろ」
オルフェンは言った。
「次の境界で、さらに分ける」
タナトスは後退した。
だが、その存在は消えていない。
第一防衛圏のどこかで、黒い処分機は次の隔離条件を待っている。
ルクス・ヴァルキュリアは、まだそれを倒せていなかった。




