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第286話 認証網の壁

 第一防衛圏は、壁ではなかった。

 少なくとも、目に見える壁ではない。

 前方に巨大な防壁があるわけではなく、砲台群が整然と並んでいるわけでもない。

 宇宙空間は、いつも通り暗く、広く、静かだった。

 だが、ルクス・ヴァルキュリアは進めなかった。

「航路補正、再入力します」

 航法士が端末を操作する。

 表示された予定航路が、第一防衛圏の内側へ向かって伸びる。

 だが、その線は数秒後、認証網からの干渉を受けて歪んだ。

 進路がわずかに曲げられ、指定外の空域へ誘導される。

「またです。こちらの航路演算に外部補正が入ります」

 艦橋の前方画面に、複数の航路候補が表示された。

 だが、そのほとんどが赤く染まっている。

 残された緑色の進路は、帝国本国圏の中心へ向かうものではなく、外周へ沿って回り込むような軌道だった。

「こちらが選んだ航路ではないな」

 ジンが言う。

「はい。第一防衛圏認証網側が、未登録艦用の誘導航路を提示しています」

「誘導、か」

 黒瀬が端末を見ながら、低く言った。

「言い方を変えれば、拘束ですね。進むことは許可されている。ただし、向こうが指定した場所へ進め、という処理です」

 航法士が別の経路を試す。

 だが、結果は同じだった。

 ルクス・ヴァルキュリアが内側へ向かおうとするたびに、認証網が航路を塗り替える。

 強制的に停止させるわけではない。

 撃ってくるわけでもない。

 ただ、進む方向だけを、少しずつ奪っていく。

 その感覚は、砲撃よりも不快だった。

「このまま従えばどうなる」

 ジンの問いに、黒瀬は少し間を置いて答えた。

「おそらく、未登録艦用の検査空域へ誘導されます」

「検査?」

「帝国側の表現では、再認証、所属確認、積載反応検査、危険物分類、対象隔離。こちらの言葉で言えば、拘束と臨検です」

 グリッドの通信が入る。

『絶対に行くなよ。あの艦の中身を向こうに検査させたら、何を抜かれるか分からん』

「分かっている」

 ジンは短く答えた。

 ルクス・ヴァルキュリアには、帝国に見せられないものが多すぎる。

 ノクス・レクイエム。

 ヴァルクレイド・セレス。

 アミィ。

 ユイ達パルスティア。

 そして、各地球から得た技術や、帝国から回収した部品群。

 先日整理したばかりの倉庫管理規定は、艦内で危険なものを把握するためのものだった。

 だが、第一防衛圏の認証網は、そのすべてを外側から分類しようとしていた。

「こちらの中を、勝手に覗かれているようなものか」

 ジンが呟く。

「はい」

 黒瀬は頷いた。

「しかも、覗くだけではありません。見つけたものに、帝国側の分類名を付けようとしています」


 機動甲板では、各機の起動準備が制限されていた。

 出撃はまだ許可されていない。

 だが、いつでも動けるように、各パイロットは機体の近くで待機している。

 ユイは、ノクス・レクイエムの封印管理端末を見ていた。

 機体そのものは厳重に封鎖されている。

 限定起動の許可も出ていない。

 それでも、第一防衛圏の認証網は、ノクスの反応を見逃していなかった。

「ノクス・レクイエム封印区画に外部照合反応」

 グリッドが整備区画から報告する。

「照合?」

 カイトが聞き返した。

『認証網がノクスの反応にだけ、別枠の警戒タグを投げてきてる。通常の未登録兵装じゃない。危険命令層干渉体……いや、もっと上だな』

 グリッドの声が険しくなる。

『帝国側の分類だと、命令層切断危険体に近い扱いだ』

 ユイの目がわずかに細くなった。

「もう、そこまで分かっているんですか」

『前回の限定起動で記録されたか、元々ネメシス・レクイエム系の記録が残ってるかだな。どっちにしろ、向こうはノクスを普通の機体として見ていない』

 カイトはユイを見る。

「ユイ」

「分かっています。出しません」

 ユイは静かに言った。

「今ここでノクスを起動したら、認証網の警戒が跳ね上がります。航路の拘束どころでは済まなくなるかもしれません」

「でも、ノクスならこの認証網を切れる可能性はあるんだよね」

「あります」

 ユイは否定しなかった。

「ただし、切る対象が広すぎます。認証網と命令層反応と航路制御が絡み合っています。ここで雑に切れば、第一防衛圏全体を敵に回します」

 カイトは息を呑んだ。

 ユイが、使える力を持っている。

 だが、使わない。

 それは迷いではなく、判断だった。

 第284話で、使えるものほど共有し、危険なものほど管理するという方針が決まった。

 今のユイは、その方針に従っていた。

「勝手には出しません」

 ユイは、もう一度言った。

「使うなら、艦全体で条件を決めてからです」

 カイトは頷く。

「うん。それでいいと思う」

 その時、ミオから通信が入った。

『ユイさん、カイトさん。支援網側で少し分かりました。命令層反応と認証網は、完全に同じものではありません』


 解析室では、ミオとカナデが複数の反応図を見比べていた。

 そこには、第一防衛圏から流れてくる波形が重ねて表示されている。

 命令層反応。

 航路認証。

 所属識別。

 機体分類。

 PT系列反応への照合。

 それらは互いに絡み合っているが、完全に同一ではなかった。

「命令層反応は、PTや帝国由来の精神制御系に強く干渉します」

 ミオが説明する。

「でも、認証網はもっと広いです。艦、機体、部品、航路、通信、支援波。全部を登録情報と照合して、通すか、曲げるか、止めるかを判断しています」

 カナデが続ける。

「昨日アミィちゃんが揺れたのは、命令層反応に近い部分。今、艦の航路が曲げられているのは、認証網の処理。別々に見ないと、対処を間違えるわ」

 黒瀬が端末に記録を入れる。

「つまり、認証網を全部敵性干渉として切断すると、命令層以外の航路制御や防衛機構まで一斉に反応する可能性がある」

「はい」

 ミオは頷く。

「逆に、命令層反応だけを遮断しても、艦の航路制限は残ります」

 ジンが通信越しに問う。

『対処案はあるか』

 ミオは一瞬だけ迷った。

「完全な突破ではありません。ただ、支援網の安定化だけなら、少しできます」

 カナデが後を引き取る。

「先日の整理で運用区分が確定したエデン由来の術式流路ユニットと、ハーモニア式儀装フレーム部品。あれをルナ・スケイルの支援経路に一部噛ませます。支援網そのものを強くするのではなく、認証網に触れた時の揺らぎを逃がすためです」

 グリッドが通信に割り込む。

『一部って言ったな。全部じゃないな』

「全部使うと、逆に支援網が変質します」

 ミオがすぐに答えた。

「今回は補助流路として使います。外へ押し返すのではなく、触られた部分の歪みを艦内へ持ち込まないための緩衝材です」

『よし、それならまだ分かる。勝手に増設するなよ』

「はい。黒瀬さんの承認を取ってから接続します」

 黒瀬が即座に言った。

「仮設接続を承認します。ただし、使用範囲は支援網安定化に限定。命令層反応への直接干渉は禁止。接続記録は全て保存」

「了解です」

 ミオは深く息を吸った。

 支援網を広げるのではない。

 広げた分を守るのでもない。

 ただ、触られた時に壊れないよう、細い流路を作る。

 ルナ・スケイル・リフレクトの周囲に、淡い光が走った。

 エデン由来の術式流路ユニットが、支援波の外縁に薄い層を作る。

 ハーモニア式儀装フレーム部品が、波の乱れを吸収する。

 だが、その効果は限定的だった。

「支援網、安定化。ただし外部展開範囲は通常時の三割以下です」

 ミオが報告する。

「認証網からの読み取り圧は軽減。でも、遮断はできません」

 カナデが頷く。

「それで十分よ。今は広げることより、崩されないことが大事」


 ルクス・ヴァルキュリアは、再び航路を選び直した。

 今度は、ミオの限定支援網が艦内制御と機動甲板周辺を包んでいる。

 航路演算に認証網の補正が入り込むたびに、支援網がその歪みを検知し、艦内系統へ流れ込む前に逃がす。

「航路補正干渉、軽減」

 航法士が報告する。

「完全解除ではありません。ですが、こちらの手動補正が通ります」

「よし。認証網の提示航路を避けつつ、内側へ進む」

 ジンが指示を出す。

「速度は落とせ。強行突破ではない。壁の継ぎ目を探す」

「了解」

 ルクス・ヴァルキュリアの進路が、わずかに変わった。

 認証網が反応する。

 緑色の誘導航路が赤へ変わる。

 警告が艦橋に流れる。

『未登録艦。指定航路外移動を確認。所属照合を要求。積載反応検査を要求。停止を推奨』

 機械的な帝国語の音声が、通信回線の隙間から流れ込んだ。

 黒瀬が即座に遮断する。

「外部音声、遮断。艦内認証系統への侵入なし」

 だが、警告は消えない。

 音は消えても、文字が流れ続ける。

『停止を推奨』

『所属照合を要求』

『PT系列反応を確認』

『A系列反応を確認』

『Y系列反応を確認』

『L系列反応を確認』

『未登録命令層切断反応を確認』

 最後の一文だけ、警告色が違った。

 ユイはそれを見つめる。

 ノクス・レクイエム。

 帝国にとっても、あれはただの奪還対象ではない。

 命令層を切る危険な存在として、認識されている。

「ユイ」

 アシュが短く声をかけた。

「大丈夫です」

 ユイは答えた。

「今は出しません」

「出すな、ではない」

 アシュは前方の警告を見ながら言った。

「出す時を間違えるな」

 ユイは少しだけ目を伏せ、それから頷いた。

「はい」

 その返事は、以前よりもずっと静かだった。


 保護区画では、アミィがレータの隣に座っていた。

 ヴァルクレイド・セレスの防壁は、最小範囲で維持されている。

 昨日ほど強く揺さぶられてはいない。

 だが、第一防衛圏の認証網は、彼女の存在を見逃してはいなかった。

「また、見られてる気がします」

 アミィが呟く。

 レータは頷いた。

「うん。見られてる」

「返事は……」

「しなくていい」

 レータは即座に言った。

「呼ばれたら、全部返事をしなきゃいけないわけじゃない」

 アミィは小さく頷いた。

「……うん。返事、しない」

 少し間を置いてから、彼女は言い直した。

「今は、しない」

 レータはその言葉を聞いて、わずかに表情を和らげる。

「それでいい」

 命令を拒むこと。

 返事をしないこと。

 それすら、アミィにとってはまだ練習だった。

 だが、昨日よりも少しだけ、自分の言葉になっていた。


 艦橋では、第一防衛圏の航路図が更新され続けていた。

 認証網は、ルクス・ヴァルキュリアを止めようとしている。

 いや、正確には、止める前に従わせようとしている。

 指定航路に戻れ。

 所属を示せ。

 積載反応を開示しろ。

 PT系列を登録しろ。

 命令層切断反応を隔離しろ。

 その要求が、形を変えながら艦へ押し寄せる。

「敵機反応は」

 ジンが問う。

「周辺に通常GD反応はありません。ただし、監察局系の観測ビーコンと思われる反応が複数。距離を保っています」

「まだ見ているだけか」

「はい」

 黒瀬が端末を見たまま答える。

「ですが、こちらが指定航路を拒否したことで、分類は一段階進んだ可能性があります」

「どういう分類だ」

「未登録艦から、制御拒否艦へ」

 艦橋の空気がさらに重くなった。

 ジンは前方の航路を見据える。

 進むことはできる。

 だが、進むたびに、帝国の認証網がこちらの名前を変えていく。

 未登録。

 照合対象。

 制御拒否。

 危険反応保持。

 命令層切断危険体搭載艦。

 それは砲撃ではない。

 だが、間違いなく攻撃だった。

 こちらを、帝国の言葉で定義し直そうとする攻撃。

「進路、このまま維持」

 ジンは静かに命じた。

「認証網の誘導には乗らない。だが、挑発もしない。こちらの航路で進む」

「了解」

 ルクス・ヴァルキュリアは、第一防衛圏の内側へ少しずつ進んでいった。

 見えない壁に触れながら。

 名前を奪おうとする声を退けながら。

 艦内にいる者たちの返事を、勝手に決めさせないために。


 監察局管制区画。

 オルフェン・グラードは、更新される分類情報を静かに見ていた。

「対象艦、指定航路への誘導を拒否。手動補正により第一防衛圏内へ進行継続」

 局員が報告する。

「支援網の外部展開は制限されたままです。ただし、艦内支援網の安定性が上昇しています」

 別の画面に、ルナ・スケイル・リフレクトの波形が表示された。

「M系列反応に、異文明由来の補助流路を確認。エデン系と推定されます」

 オルフェンは画面を見た。

「支援網の変質ではない。緩衝材として使っている」

「はい。外部干渉を遮断するほどではありませんが、揺らぎを逃がしています」

「妥当な判断だ」

 その声には、褒める響きはなかった。

 ただ、観測結果として認めただけだった。

 次の画面に、ノクス・レクイエムの反応が表示される。

「命令層切断反応、未起動。対象Yは使用を保留」

「切らないか」

 オルフェンは静かに呟いた。

「認証網と命令層を切り分けた可能性があります。対象M、または艦内解析班によるものかと」

「ならば、次は切り分けられない状況を作ればいい」

 局員がわずかに沈黙する。

 オルフェンは画面から目を離さない。

「通行そのものに負荷をかける。認証網への拒否を重ねれば、対象艦はさらに内側の処理へ移行する」

「制御拒否艦として、監察局権限で介入しますか」

「まだ早い」

 オルフェンは答えた。

「対象Aは自己応答を維持。対象Lの防壁は最小範囲で稼働。対象Yは切断を保留。対象Mは支援網を制限し、異文明技術で安定化している」

 彼は、淡々と記録をまとめていく。

「十分な情報だ。だが、まだ足りない」

 画面の隅に、別の機体反応が待機表示されていた。

 黒い識別枠。

 監察局直轄。

 処分用機体。

 隔離運用待機。

 オルフェンはそれを一瞥する。

「認証網の壁を越えるなら、次は対象を分ける」

 局員が確認する。

「タナトスの準備を進めますか」

「進めろ。ただし、投入はまだだ」

 オルフェンは静かに言った。

「まずは、彼らがどこまで自分の航路を選べるかを見る」

 第一防衛圏の認証網は、なおもルクス・ヴァルキュリアを包み込んでいる。

 進めば進むほど、艦は分類される。

 拒めば拒むほど、危険度は上がっていく。

 それでも、ルクス・ヴァルキュリアは進んでいた。

 帝国が示す航路ではなく、自分たちで選んだ航路を。

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