第285話 第一防衛圏
帝国本国第一防衛圏。
その言葉は、外縁防衛線とは違う重さを持っていた。
外縁防衛線は、敵がいた。
艦隊があり、機動兵器があり、防衛拠点があった。
そこには戦う相手がいて、突破すべき線があった。
だが、第一防衛圏は違った。
ルクス・ヴァルキュリアが近づくにつれ、前方空域に広がる反応は、単純な敵影ではなくなっていった。
無数の識別信号。
重なり合う認証コード。
見えない糸のように張り巡らされた命令層反応。
それらが、艦の進路を塞ぐというより、艦そのものを読み取ろうとしていた。
「認証信号、密度上昇。外縁防衛線の三倍……いえ、比較できません」
航法士の声には、困惑が混じっていた。
「進路計算に干渉あり。敵性ロックではありません。ですが……こちらの航路を、向こうの認証網が勝手に分類しようとしています」
ジンは艦長席で前方映像を見据えた。
画面に映る宇宙空間に、巨大な壁があるわけではない。
砲門が並んでいるわけでもない。
だが、そこには確かに境界があった。
通る者を選ぶ空域。
許可された者だけを内側へ通し、それ以外を排除するのではなく、まず分類し、記録し、従わせるための空域。
「撃たれてはいない」
黒瀬が端末を確認しながら言った。
「だが、通されてもいないな」
ジンが低く応じる。
「はい。現在、ルクス・ヴァルキュリアは第一防衛圏認証網に未登録艦として捕捉されています。ただし、即時排除対象には分類されていません」
「理由は」
「艦内に帝国由来の反応が多すぎるためです」
艦橋に一瞬、沈黙が落ちた。
ユイ。
ミオ。
レイ。
セラ。
レータ。
アミィ。
ノクス・レクイエム。
ヴァルクレイド・セレス。
帝国製部品。
そして、かつて帝国に属していた反応の数々。
それらすべてが、第一防衛圏の認証網にとっては、無視できない情報だった。
「敵艦として撃つには、内側の反応が多すぎる。味方として通すには、登録が違いすぎる。そういうことか」
ジンの言葉に、黒瀬は頷いた。
「現状は、分類中です」
「分類か」
ジンは短く息を吐いた。
「嫌な言葉だな」
艦橋の空気がわずかに重くなる。
まだ戦闘は始まっていない。
警報も鳴っていない。
だが、誰も安全だとは思っていなかった。
第一防衛圏は、砲撃より先にこちらを見ていた。
機動甲板側でも、異変はすぐに表れていた。
ルナ・スケイル・リフレクトの調整席で、ミオが支援網を展開しようとしていた。
普段なら、彼女の支援波は味方機の反応を柔らかく包み、通信や照準、機体制御を安定させる。
だが、今は違った。
「……広げられません」
ミオは小さく呟いた。
隣で確認していたリクトが顔を上げる。
「支援波の出力不足か?」
「いえ、出力は足りています。でも、広げると向こうに触られます」
ミオの指先が、端末上の反応図をなぞる。
ルナ・スケイルの支援網が少しでも外へ伸びると、第一防衛圏側の認証網がそれを捕まえようとする。
攻撃ではない。
破壊でもない。
ただ、支援網の経路を読み、名前を付け、どこに属するのかを決めようとしてくる。
「未登録支援波として認識されています。さらに広げると、支援経路を逆に読まれる可能性があります」
カナデが表情を引き締める。
「つまり、ミオちゃんの支援網を通して、艦内のPT反応まで辿られるかもしれないってことね」
「はい」
ミオは頷き、支援網の範囲を絞った。
「今は、艦内と機動甲板周辺だけにします。外へ出すのは危険です」
その判断は正しかった。
直後、支援網の外縁に触れていた認証反応が、ゆっくりと引いた。
だが、完全に消えたわけではない。
まるで、次に伸びてくるのを待っているように、空域の向こう側で静かに揺れていた。
「……気持ち悪いですね」
ミオが珍しく、はっきりと不快感を口にした。
レイが近くの端末を見ながら頷く。
「ああ。攻撃された方がまだ分かりやすい」
セラも静かに言う。
「撃たれてないのに、狙われてるみたいです」
その言葉に、カナデは少しだけ目を細めた。
「狙われている、というより……返事を待たれているのかもしれないわね」
ミオの手が止まる。
返事。
その言葉に、機動甲板の空気が変わった。
医療保護区画では、アミィがベッドの上で小さく肩を震わせていた。
彼女はまだ完全に回復したわけではない。
意識は安定してきている。
自分の名前にも反応できる。
レータの隣にいることも、自分で選べるようになってきた。
だが、帝国本国第一防衛圏の命令層反応は、彼女にとってあまりにも濃かった。
「……音が、します」
アミィが小さく言った。
そばにいたレータが、すぐに顔を向ける。
「音?」
「はい。呼ばれているみたいな……返事をしなきゃ、いけないみたいな」
レータの表情が変わった。
室内には、カナデとエルマもいた。
アミィの状態を確認するために、保護区画には複数の観測装置が設置されている。
その一つが、低い警告音を鳴らした。
「命令層反応、上昇」
エルマが端末を操作する。
「外部からの直接干渉ではありません。空域全体に流れている認証波に、アミィの反応が引っかかっています」
「引っかかってる?」
レータの声が低くなる。
「本国側の認証網が、A系列反応を見つけたんです。まだ命令として届いているわけではありません。でも……」
エルマは言葉を区切った。
「返事を誘導しています」
アミィの視線が揺れた。
「……対象、A……」
その声は、アミィ自身のものだった。
だが、言葉の形は彼女のものではなかった。
レータが即座にアミィの手を握る。
「アミィ」
「……はい」
アミィが返事をしかけた。
その瞬間、レータの目が鋭くなる。
「返事をしなくていい」
アミィの唇が震えた。
「でも……呼ばれて……」
「呼ばれていても、返事をしなくていい」
レータは静かに、しかし強く言った。
「今は、私の隣にいて」
アミィの瞳が揺れる。
命令層反応が、もう一度彼女の中へ入り込もうとした。
その瞬間、保護区画の外部接続ラインに、別の反応が重なった。
ヴァルクレイド・セレス。
格納区画に待機していたその機体が、レータの生体反応と連動し、保護防壁を展開した。
セレスティア由来の支援波制御。
かつて命令を通すために使われていた機能が、今は命令を遮るために反転する。
アミィの周囲に、淡い光の層が生まれた。
外からの認証波が、その光に触れて鈍る。
完全に消えるわけではない。
だが、アミィの内側へ届く前に、意味を失っていく。
「防壁、展開確認」
エルマが声を上げる。
「ヴァルクレイド・セレスの保護支援波が、命令層反応を遮断しています」
アミィは小さく息を吸った。
「……返事、しない」
レータは頷く。
「それでいい」
「わたしは……今、返事しない」
「うん」
レータはアミィの手を握ったまま、静かに続ける。
「返事をするなら、自分で決めてからでいい」
アミィはゆっくり頷いた。
まだ顔色は悪い。
だが、その目から先ほどの空白は消えていた。
艦橋に、保護区画からの報告が入った。
『アミィの命令層反応、低下。ヴァルクレイド・セレスの防壁で遮断成功。ただし、第一防衛圏の認証網にA系列反応を捕捉された可能性があります』
カナデの声に、ジンは短く頷いた。
「了解した。アミィの保護を最優先。ヴァルクレイド・セレスの防壁は維持できるか」
『現状では可能です。ただ、長時間維持した場合、レータさんと機体側の負荷が増えます』
「無理はさせるな。必要なら防壁範囲を絞れ」
『了解』
通信が切れる。
黒瀬が端末を見ながら言った。
「現時点では、敵の攻撃とは断定できません」
「それが余計に厄介だな」
ジンは前方を見た。
「攻撃なら撃ち返せる。だが、これは空域の認証処理だ」
「はい。向こうにとっては、侵入者の分類と登録確認です。こちらにとっては干渉ですが、帝国本国圏の仕組みとしては通常処理の範囲内と見られます」
グリッドが通信越しに割り込んだ。
『通常処理でアミィを揺さぶられるのかよ。最悪だな』
「同感だ」
黒瀬は淡々と返した。
『ノクスを使えば切れるんじゃないのか?』
グリッドの言葉に、艦橋の数人がユイの方を見た。
ユイは艦橋後方の補助席にいた。
ノクス・レクイエムは封印管理下にある。
今すぐ起動する状態ではない。
「切れる可能性はあります」
ユイは静かに答えた。
「でも、今ここで切ると、第一防衛圏の認証網全体が反応するかもしれません」
「つまり、使えば目立つ」
ジンが確認する。
「はい。命令層だけを切れればいいですが、空域全体に絡んでいるため、範囲を誤ると大きく反応します」
黒瀬が端末に記録を入れる。
「ノクス・レクイエムの使用は現時点では保留。ヴァルクレイド・セレスの防壁、ミオの限定支援網、艦内遮断処理で対応。異論は」
ジンは即座に言った。
「ない。全力で押し返すな。まず、何に触れているのかを確認しろ」
その命令に、艦橋の全員が応じた。
撃たれていない。
だが、苦しい。
見えない手で、名前を探られている。
そういう戦場だった。
ユイは前方の映像を見つめた。
外縁防衛線とは違う。
ここは、ただの戦場ではない。
帝国が人を、兵器を、PTを、そして返事そのものを管理するための場所だった。
「……嫌な場所ですね」
ユイが小さく言う。
アシュが近くで短く答えた。
「ああ」
それ以上の言葉は必要なかった。
第一防衛圏のさらに内側。
監察局管制区画。
暗い室内に、複数の観測画面が浮かんでいた。
そこに映っているのは、ルクス・ヴァルキュリアの外形ではない。
艦内反応の分類図。
PT系列反応の分布。
命令層への接触履歴。
ノクス・レクイエムの封印反応。
ヴァルクレイド・セレスの防壁波形。
オルフェン・グラードは、それらを静かに眺めていた。
「第一防衛圏認証網、対象艦を捕捉。未登録艦。帝国由来反応多数。即時排除対象には分類されず」
監察局員が報告する。
「A系列反応を確認。対象A、外部認証波に反応。一時応答兆候あり」
別の局員が続けた。
「しかし、応答は中断されました。旧セレスティア反応を含む防壁により、命令層接続が遮断されています」
オルフェンは、わずかに目を細めた。
「防壁の波形を出せ」
画面が切り替わる。
ヴァルクレイド・セレスの反応。
かつてセレスティアとして設計された支援波制御が、今は保護方向へ変質している。
命令を通すための構造が、命令を遮るために使われている。
普通ならば、設計から外れた異常使用と判断するべき反応だった。
だが、オルフェンに驚きはなかった。
むしろ、観測結果が増えたことを確認するように、静かに端末へ指を走らせる。
「ヴァルクレイド・セレス。旧セレスティア反応、保護方向への転用を確認」
「対象Aの再同期を続行しますか」
「今は不要だ」
局員がわずかに顔を上げる。
「よろしいのですか」
「防がれたことに意味がある」
オルフェンは淡々と言った。
「対象Aは自己応答を保持している。防壁は外部認証波を遮断できる。ならば、次に観測すべきは、より強い命令層接続に対して同じ反応が維持されるかどうかだ」
画面の一つに、ノクス・レクイエムの封印反応が表示される。
「ノクス・レクイエム反応、未使用。切断条件は未観測」
オルフェンの声に、わずかな興味が混じった。
「彼女はまだ切らなかったか」
それは失望ではなかった。
苛立ちでもなかった。
ただ、次の実験条件を確認するような声だった。
局員が報告を続ける。
「対象Y、対象L、対象A、いずれも命令層反応を感知。対象Mの支援網は外部展開を制限。対象艦は第一防衛圏内への進入を継続しています」
「よろしい」
オルフェンは画面を見つめたまま言った。
「自己応答、保持。防壁あり。対象A、再分類を継続」
その言葉には、怒りも焦りもない。
アミィという名前もない。
そこにあるのは、ただの対象。
再分類すべき反応。
観測し、記録し、必要ならば再同期させるための存在。
第一防衛圏は、まだ砲火を開いていない。
だが、戦いはもう始まっていた。
ルクス・ヴァルキュリアは、帝国本国圏の内側へと進んでいく。
撃たれていないのに、苦しい空域。
名前を呼ばず、番号で呼ぶ場所。
返事を求める帝国の空。
その先に、帝都ネメシアの影が広がっていた。




