第283話 帝都ネメシアの影
帝国本国方面への航路に入ってから、ルクス・ヴァルキュリアの艦内は静かだった。
静かすぎるほどだった。
外縁防衛線を抜けた高揚はない。
勝利の余韻もない。
あるのは、次に待つものへの警戒だけだった。
帝国本国圏。
それは、これまでルクスが接触してきた外縁宙域とは違う。
外縁防衛線は、帝国の端だった。
前線の壁だった。
レオンのような指揮官が兵を率い、ヘルメス隊のような部隊が戦場を走り、監察局が観測と回収のために介入する場所だった。
だが、これから向かう先は違う。
命令が作られる場所。
認証網が張り巡らされる場所。
PT系列が生まれ、管理され、分類されてきた場所。
帝国の中心へ続く航路。
艦橋の大型モニターには、帝国本国圏の広域図が表示されていた。
その中央に、巨大な光点がある。
帝都『ネメシア』。
かつて、パルスティアと呼ばれていた場所。
今は、ネメシス帝国の中枢として再定義された都。
その周囲には、複数の巨大構造物が重なっている。
帝国中央軍港『レグナリア』。
無数の艦艇が出入りし、帝国本国艦隊を支える巨大軍港。
そして、さらに外側へ広がる建造ブロック。
巨大建造区画『カルディア・ベイ』。
艦艇、GD、特殊兵器、研究設備、補給施設、改修区画。
それらが一つの都市のように連なり、帝国本国圏そのものを巨大な機械の心臓のように動かしている。
ジンは、表示された規模を見て低く呟いた。
「……外縁とは桁が違うな」
黒瀬も画面を見つめていた。
「軍港、工廠、研究区画、認証網が一体化している。単なる首都ではありませんね」
リクトが端末を操作し、反応の層を表示する。
「本国圏全体に、命令層に近い認証波が流れています。距離があるので直接干渉はありませんが、外縁より密度が高いです」
リゼルが静かに言った。
「ここでは、命令が空気のように流れているのですね」
その言葉に、ユイの手がわずかに強張った。
ユイは艦橋の後方で、帝都ネメシアの表示を見ていた。
知らない場所ではない。
記録としては知っている。
帝国側にいた時の断片にも、その名は残っている。
だが、今見るネメシアは、記憶の中の都ではなかった。
巨大すぎる。
都市というより、意思を持った機械のようだった。
光の線が走り、軍港が広がり、工廠が重なり、認証網がそのすべてを覆っている。
そこに近づいているだけで、胸の奥が重くなる。
「ユイ」
カイトが隣から声をかけた。
「大丈夫?」
「はい」
ユイは答えた。
けれど、その声は少し硬かった。
「大丈夫です。でも、思っていたより……近いですね」
「ネメシアが?」
「はい。距離ではなく、反応が」
ユイは画面の命令層反応を見た。
「外縁では、命令は波として来ました。監察局が撃ってくるもの、タナトスが流してくるもの、拘束波として絡みつくもの。でも、本国圏は違います」
「違う?」
「命令が、最初からそこにある感じがします」
カイトは言葉を失った。
ユイは続ける。
「敵が撃ってくるものではなく、そこにいるだけで命令の中に入る。たぶん、帝国本国はそういう場所です」
カイトは、モニター上のネメシアを見た。
遠い。
まだ艦は第一防衛圏にも到達していない。
それなのに、ユイはすでに圧を感じている。
「ノクスは?」
カイトが問う。
「使いません」
ユイは即答した。
「今はまだ、何も切る対象がありません。ただ、近づいているだけです。怖いからといって、切っていいものではありません」
その答えに、カイトは少しだけ安心した。
ユイは怖がっている。
だが、怖いからこそ条件を守っている。
それは、外縁での限定起動を経て、よりはっきりした変化だった。
保護区画では、アミィが航路表示を見ていた。
カナデがそばにいる。
レータも隣に座っていた。
帝都ネメシア。
レグナリア。
カルディア・ベイ。
その名称が表示されるたび、アミィの反応はわずかに乱れた。
言葉の意味を完全に理解しているわけではない。
だが、体が覚えている。
命令の中心。
戻される場所。
自分の声が小さくなる場所。
アミィは胸元を押さえた。
「……近い」
レータが頷く。
「うん」
「帝国、こわい」
「うん」
「声、消えそう」
カナデが静かに言う。
「今は消えていません。アミィさんの声はここにあります」
アミィはカナデを見た。
それから、レータを見る。
「戻る?」
「戻らない」
レータは短く答えた。
「戻すためじゃない」
アミィは、その言葉を覚えているように口元で繰り返した。
「戻すためじゃない」
「うん。終わらせるため」
「終わらせる……」
アミィは小さく頷いた。
だが、不安は消えない。
帝国本国方面へ近づくほど、命令層の残滓が胸の奥で揺れる。
外縁で切られた黒い波とは違う。
もっと遠く、もっと深く、もっと大きなもの。
アミィは、少し震えながら言った。
「わたし、いる?」
レータは即座に答えた。
「いる」
ナユの声が、通信越しに入った。
『見失わないようにする。消えそうになったら、拾うから』
ナユは医療区画で休んでいるはずだった。
それでも、短時間だけ通信を繋いでいた。
リンの声も入る。
『近づくものは切る』
いつも通り短い。
だが、アミィには届いた。
ユイも通信に入る。
『引っ張る命令が来たら、条件を満たした時だけ切ります。アミィを切るのではなく、アミィを引っ張るものを切ります』
アミィは、画面の向こうのユイを見た。
「ユイ、こわい?」
『はい。怖いです』
ユイは隠さなかった。
『でも、怖いままでも、間違えないようにします』
アミィは、少しだけ息を整えた。
「帝国、こわい。でも、戻らない」
カナデが静かに記録する。
その言葉は、まだ震えていた。
けれど、確かにアミィ自身の言葉だった。
同じ頃。
帝国本国圏、監察局中枢。
帝都ネメシアの影に存在するその区画は、軍港とも工廠とも違う空気を持っていた。
白く、静かで、冷たい。
壁面には無数の投影画面が並び、PT系列、GD-NM系、命令層認証網、再同期装置、拘束波制御、外縁戦データが整理されている。
そこに集まっていたのは、監察局の上位者たちだった。
オルフェン・グラードの通信投影も、その中央に表示されている。
外縁防衛線での戦闘記録。
アミィの自己応答。
レータ型との共鳴。
ヴァルクレイド・セレスに再定義されたセレスティア残留反応。
ノクス・レクイエムの限定起動。
命令層拘束波の切断。
それらが、順に提示されていく。
上位者の一人が、静かに言った。
『PT-A01は、管理下から離れたにもかかわらず、自己応答を強めている』
別の声が続く。
『セレスティア支援核は、拘束機能を失い、防壁として再利用された可能性が高い』
『レータ型との接続は想定以上に安定している』
『ユイはノクス・レクイエムを完全起動させていない。だが、制御層のみで命令層拘束波を切断した』
淡々とした分析。
だが、その内容は不穏だった。
PT系列は、帝国が作り、管理し、役割を与えてきた存在だ。
そのPTが、命令から離れても自己を保つ。
互いに支え合い、命令層を拒む。
そして、ノクスによって拘束波を切断する。
それは、帝国本国にとって明確な脅威だった。
しかし、監察局にとっては同時に研究対象でもあった。
『A系列の再評価が必要だ』
誰かが言った。
『アミィ個体の自己応答は、L系列補完設計の副産物ではない可能性がある』
『残存A系列データを照合する必要がある』
『L系列凍結記録、M系列支援記録、R系列反応速度記録、S系列照準補助記録も再照合対象とする』
画面に、いくつもの記録名が並ぶ。
PT-A系列。
PT-L系列。
PT-M系列。
PT-R系列。
PT-S系列。
PT-I系列。
そして、PT-Y系列。
すべてが、まだ過去のものではなかった。
残存研究。
凍結データ。
廃棄されていない培養記録。
未起動個体の記録。
再同期試験の残滓。
それらの存在が、はっきりとは語られないまま、画面の端に並んでいた。
オルフェンは、その表示を見て薄く笑った。
『ルクス・ヴァルキュリアは、本国圏へ近づいています』
上位者の一人が問う。
『歓迎しているように見えるな、オルフェン』
『観測機会としては、これ以上ない状況です』
『危険でもある』
『もちろんです』
オルフェンは否定しなかった。
『だからこそ、価値があります』
帝国中央軍港『レグナリア』。
その規模は、外縁防衛線の軍港とは比べものにならなかった。
巨大艦が複数並び、補給ドックが光を放つ。
艦隊の修理アームがゆっくりと動き、GD格納区画からは無数の機体反応が流れている。
その奥には、巨大建造ブロック『カルディア・ベイ』が広がっていた。
工廠というより、都市だった。
建造中の艦体。
分解されたGD。
特殊兵器の試験区画。
隔離された研究棟。
命令層認証網の中継柱。
それらが複雑に接続され、まるで帝国そのものの心臓のように脈動している。
監察局中枢からの命令を受け、レグナリアでは本国第一防衛圏の起動準備が進んでいた。
通常艦隊の展開。
GD部隊の再配置。
監察局追跡部隊との連携。
PT関連対象の再分類。
その中で、一部のデータは厳重に封鎖された研究区画へ送られていく。
アミィの反応。
レータの反応。
ユイのノクス限定起動反応。
そして、まだ表に出ていない他PT系列の残存研究記録。
帝国本国は、ただ待っているだけではない。
ルクスが近づくほど、眠っていた記録もまた動き始めていた。
ルクス・ヴァルキュリア艦橋。
航路上に、新たな警戒領域が表示された。
帝国本国第一防衛圏。
外縁防衛線とは異なり、軍港、認証網、工廠支援、監察局管制が重なった防衛領域だった。
ジンは表示を見て、静かに息を吐いた。
「来たか」
黒瀬が確認する。
「第一防衛圏までの距離、接近中。敵艦隊反応はまだ遠いですが、認証網の密度が上がっています」
リクトが続ける。
「命令層反応も強くなっています。直接干渉ではありませんが、PT関連機体には注意が必要です」
ミオが支援網の状態を確認する。
「広げすぎると、本国側の認証網に触れるかもしれません。しばらくは縮小運用を維持します」
レータがアミィの反応を確認するため、保護区画へ向かう準備をしていた。
ユイは、ノクス・レクイエムの封印状態を確認する。
カイトはアルタイルの修復状況を見つめ、セラはフェンリオンの弾薬補充を待っていた。
ナユはロス・セレネの残響ログを閉じ、リンはヴァイス・リッパー・リビルドの刃の調整に入っている。
カイルは、レイヴン・ハウルの外周哨戒を申し出ていた。
ジンは全員へ向けて言った。
「ここからは、帝国本国圏だ。外縁の延長と思うな」
艦橋に緊張が走る。
「ネメシア、レグナリア、カルディア・ベイ。どれも単独で巨大な脅威だ。だが、問題はそれらが一つの命令系統で繋がっていることだ」
黒瀬が頷く。
「本国圏では、戦場そのものが帝国の管理下にあると考えるべきですね」
「そうだ」
ジンは前方を見た。
「第一防衛圏へ接近する。各班、警戒態勢。PT関連反応、命令層干渉、監察局の追跡、すべて警戒しろ」
航法士が報告する。
「帝国本国第一防衛圏、接近まで間もなく」
ルクス・ヴァルキュリアの前方に、巨大な防衛領域が広がっていく。
その奥に、帝都ネメシアの影があった。
まだ遠い。
だが、確かに見え始めていた。
帝国の中心。
命令の中心。
そして、ユイ、レータ、アミィたちが、かつて縛られていた場所へ続く道。
ルクス・ヴァルキュリアは、その第一防衛圏へ近づいていった。




