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第280話 ノクス限定起動

 外縁防衛線中枢へ向かう道は、完全には開いていなかった。

 レオンのエリシオンが監察局の暴走を遮ったことで、ルクス・ヴァルキュリアは一時的な隙を得た。

 だが、それは長く続くものではない。

 外縁方面軍はすぐに防衛線を組み直す。

 ヘルメス隊も退避しただけで、戦場から消えたわけではない。

 監察局直轄部隊も、タナトスの反応停止波を絞られたことで動きを止めたわけではなかった。

 むしろ、次の手を選んでいた。

 タナトスの黒い波が、静かに収束していく。

 それは一見、反応停止波が弱まったように見えた。

 だが、リクトが最初に異常に気づいた。

『待ってください。波形が変わっています』

 艦橋のモニターに、監察局側の干渉波が表示される。

 黒い波が細く、鋭くなっていく。

 広く沈めるのではなく、特定の反応へ絡みつく形に変化していた。

 リゼルの声が硬くなる。

『これは反応停止波ではありません。命令層に近い拘束波です』

 黒瀬が目を細めた。

「対象は」

 リクトが解析を走らせる。

『ヴァルクレイド・セレスの支援核反応。それから、アミィさんの保護区画周辺の微弱反応です』

 艦橋の空気が変わった。

 アミィ。

 そして、セレスティア残留反応を再定義したヴァルクレイド・セレス。

 監察局は、そこへ直接触れようとしていた。


 前線では、レータが最初に違和感を覚えた。

 ヴァルクレイド・セレスの白い防壁が、細い黒い糸のような干渉に絡まれる。

 押し込まれているわけではない。

 砕かれているわけでもない。

 だが、白い防壁の一部が、内側から縛られるように動きにくくなる。

「……違う」

 レータは操縦席で呟いた。

「これは止める波じゃない」

 支援核フレームが、小さく震える。

 セレスティア由来の保護支援層が、外部から命令に似た形で固定されようとしていた。

 まるで、盾をもう一度檻へ戻そうとするように。

『レータさん、防壁反応が乱れています!』

 ミオの声が入る。

『広域支援で支えます。でも、これは私の支援網だけでは剥がせません』

「こっちでも押さえる」

 レータはヴァルクレイド・セレスの防壁を絞る。

 広げない。

 守る場所を限定する。

 それでも、黒い拘束波は細く入り込んでくる。

 カイトのアルタイルが前方で回収機を牽制しながら、通信を飛ばした。

『レータ、大丈夫か!?』

「まだ動ける。でも、セレス側が重い」

 レータの声には焦りが混じっていた。

 そこへ、艦内保護区画から短い反応が入る。

『……白いの、引っ張られる』

 アミィの声だった。

 カナデがすぐに補助に入る。

『アミィさん、今は艦内です。戦場には出ていません。声を聞いてください。ここはルクスです』

『分かる。でも、引っ張られる』

 その言葉に、ユイの表情が変わった。

 ノクス制御監視席。

 彼女はGF-03 ヴェルディアから帰投したばかりで、今は再び艦内の監視席に入っていた。

 ノクス・レクイエムは封印状態のまま、制御層だけが最低限の待機反応を維持している。

 端末上に、監察局の命令層拘束波が映る。

 その奥に、アミィの本人反応がある。

 そして、ヴァルクレイド・セレスの支援核反応がある。

 黒い拘束波は、本人反応を直接切る位置にはまだ届いていない。

 だが、保護支援層へ絡みつき、そこからアミィへ道を作ろうとしている。

 ユイは息を呑んだ。

「……これは、切れます」

 カナデがユイを見る。

「切る対象が分かるんですか?」

「はい。本人反応ではありません。命令層拘束波だけです。アミィ本人には触れていない。でも、このまま進めば、保護層を通じて届く」

 アシュが低く言う。

「条件を確認しろ」

 ユイは頷いた。

「ノクス・レクイエム限定起動を申請します」


 艦橋に、ユイの申請が届いた。

 ジンは即座に顔を上げる。

「ノクス限定起動?」

『はい』

 通信越しのユイの声は緊張していた。

 だが、揺れてはいない。

『主砲は使いません。ノクス本体の高出力起動もしません。制御層のみを限定接続し、命令層拘束波の切断補助だけを行います』

 黒瀬が端末を開く。

「使用条件を確認する」

 三島が記録を開始した。

「一、本人反応を確認できない対象には使用しない」

 リクトが答える。

『本人反応は確認済みです。対象はアミィさん本人ではなく、保護支援層へ絡みついている外部拘束波。本人反応との距離は確保されています』

 黒瀬が続ける。

「二、命令層切断以外の目的では使用しない」

 ユイが答える。

『目的は命令層拘束波の切断のみです。敵機攻撃、突破、火力支援には使いません』

「三、外部停止役を必ず置く」

 アシュが通信に入る。

『こちらで停止装置を保持している。危険と判断したら止める』

 黒瀬は頷く。

「四、主砲級火力とは連動させない」

 グリッドが整備区画から報告する。

『ノクス主機関、外殻出力、武装系統、アンカー、ベント、全部封鎖維持。制御層だけだ。主砲級火力とは繋がってねえ』

 ジンは最後に確認する。

「ユイ。本当に切断範囲を絞れるか」

 短い沈黙。

 それから、ユイは答えた。

『怖いです』

 誰も笑わなかった。

『でも、見えています。切る場所と、切ってはいけない場所が分かります。アミィ本人には触れません。セレスの盾を檻に戻そうとしている波だけを切ります』

 ジンは黒瀬を見る。

 黒瀬は短く頷いた。

「条件は満たしている。限定起動を正式記録」

 三島が記録する。

「ノクス・レクイエム、制御層限定起動。用途、命令層拘束波切断補助。主砲・外殻出力・武装系統連動なし」

 ジンは命じた。

「許可する。ノクス限定起動」


 整備区画の奥。

 封印状態のノクス・レクイエムが、静かに反応した。

 黒灰の機体は動かない。

 外殻は閉じたまま。

 武装も沈黙している。

 だが、その中核にある制御層だけが、薄紫白の光を灯した。

 ユイは監視席で目を閉じる。

 ノクスに乗っているわけではない。

 機体を動かすわけでもない。

 敵を撃つわけでもない。

 ただ、制御層へ手を伸ばす。

 切る力を、細くする。

 刃にしない。

 斬撃にしない。

 主砲にも、衝撃にも、破壊にも繋げない。

 糸を一本だけ選ぶ。

 アミィ本人の反応ではない。

 レータの支援核でもない。

 セレスティアを盾に作り替えた白い保護層でもない。

 そこへ絡みつく、黒い命令層拘束波だけ。

「……見えました」

 ユイが呟く。

 リクトが端末を見る。

『ノクス制御層、対象認識。切断範囲、極小。本人反応との距離、維持』

 リゼルが続ける。

『拘束波と保護支援層の接触面だけを指定します。ユイさん、深く入らないでください』

「はい」

 アシュが停止装置に手を置く。

「少しでも奥へ行けば止める」

「お願いします」

 ユイは息を吐いた。

 怖い。

 それは消えない。

 アミィを助けたい。

 レータを守りたい。

 セレスの白い盾を、檻へ戻させたくない。

 その気持ちは、刃を深く押し込みたくなる。

 だから、止まる。

 助けたいと思ったら、一度止まる。

 ユイは、以前の試験で覚えた言葉を胸の中で繰り返した。

「切断補助、入ります」

 ノクス制御層から、細い紫白の線が伸びる。

 それは戦場へ直接放たれる光ではない。

 ルナ・スケイルの支援網と、ヴァルクレイド・セレスの局地防壁を経由し、リクトとリゼルが指定した接触面へだけ届く。

 白い盾に絡みつく黒い糸。

 そこへ、ノクスの線が触れた。

 切る。

 ただし、薄く。

 命令層拘束波だけを、保護層から剥がすように。


 前線で、ヴァルクレイド・セレスの白い防壁が震えた。

 黒い拘束波が、支援核へ絡みつこうとしている。

 その一部が、紫白の細い光に触れた瞬間、断ち切られた。

 鋭い爆発は起きない。

 衝撃波もない。

 ただ、黒い糸が一本ずつほどけるように消えていく。

『拘束波、剥離しています!』

 ミオが声を上げる。

『レータさん、防壁を維持してください。ユイさんが切っています。でも、押し返すのはそちらです』

「分かった」

 レータは白い盾を保つ。

 押し込まない。

 広げすぎない。

 ユイが切った場所を、もう一度檻にされないよう守る。

 アミィの保護区画でも、反応が変わった。

 アミィは胸元を押さえていた手を、少しだけ緩める。

「……引っ張るの、切れた」

 カナデがそばで頷く。

「はい。今、ユイさんが切っています」

「ユイ?」

「はい」

 アミィは画面を見た。

 そこにノクス・レクイエムの映像はない。

 ただ、封印状態の機体反応と、細い紫白の線が表示されている。

「怖い、光」

 アミィは小さく言った。

「でも……黒いの、切ってる」

 カナデは静かに答える。

「そうです。アミィさんを切っているのではありません。アミィさんを引っ張るものを切っています」

 アミィは、ゆっくり頷いた。

「……切る。こわい。でも、戻らない」


 監察局観測艦『ヴァル・ゼリア』。

 オルフェン・グラードは、ノクス制御層の反応を見て目を細めた。

「ノクス・レクイエム、起動反応」

 監察局士官が報告する。

「ただし、主機関反応なし。外殻出力なし。武装系統反応なし。制御層のみの限定接続です」

「限定起動か」

 オルフェンは笑みを浮かべた。

「なるほど。撃たない。出さない。だが、切る」

 画面上では、命令層拘束波が次々と剥がされていく。

 力任せではない。

 大出力の斬撃でもない。

 正確に、絡みついた拘束波だけを切っている。

「厄介だな」

 その声には、苛立ちよりも興味が強かった。

「ノクスを兵器としてではなく、手術具のように扱おうとしている」

 士官が問う。

「拘束波を再展開しますか」

「する。だが、切断範囲を観測しろ。どこまで切れるか、どこから切れないか。ユイの限界を測る」

 オルフェンは画面の中の紫白の線を見つめる。

「怖がりながら切る。面白い制御だ」


 ノクス制御監視席。

 ユイの額に汗が浮かんでいた。

 切断は成功している。

 命令層拘束波は、保護支援層から剥がれていく。

 アミィ本人反応には触れていない。

 レータの支援核にも深く入っていない。

 だが、負荷は大きかった。

 切りたい衝動を抑え続ける。

 深く入りすぎないよう、何度も止まる。

 相手を救うために、刃を進めすぎない。

 それは、撃つよりもずっと難しかった。

「ユイさん、出力が上がっています」

 リクトが警告する。

「切断範囲を維持してください」

「……はい」

 ユイは息を整える。

 黒い拘束波が、何度も絡み直そうとする。

 それを見るたび、もっと強く切りたくなる。

 根元から断てば楽になる。

 タナトスごと切れば早い。

 監察局の干渉源を切れば終わる。

 けれど、それは条件外だ。

 ノクスは敵を倒すために使わない。

 命令層拘束波以外には使わない。

 主砲級火力とは連動させない。

 本人反応を傷つけない。

 ユイは歯を食いしばった。

「切るのは、ここだけ……!」

 紫白の線がさらに細くなる。

 強くするのではなく、絞る。

 拘束波の接触面だけを、薄く剥がす。

 最後の黒い糸が、白い保護層から離れた。

『拘束波、切断成功!』

 リクトが叫ぶ。

『アミィさん本人反応、損傷なし。ヴァルクレイド・セレス支援核、安定。命令層拘束波、対象領域から剥離しました!』

「停止」

 アシュが即座に言った。

「これ以上は続けるな」

「はい……!」

 ユイは接続を切った。

 ノクス制御層の光が弱まる。

 封印状態のノクス・レクイエムは、再び沈黙へ戻っていく。

 正常終了の確認音が鳴る。

『ノクス・レクイエム、制御層限定起動終了。主砲・外殻出力・武装系統、封印維持』

 ユイは椅子に背を預けた。

 呼吸が乱れている。

 指先が震えていた。

 カナデがすぐに近づく。

「ユイさん、大丈夫ですか」

「……大丈夫、です」

 声は少しかすれていた。

「でも、重いですね。これ」

 アシュが停止装置から手を離す。

「今のは成功だ。だが、長くは使えない」

「はい」

 ユイは目を伏せた。

「分かりました。怖かったです」


 艦内保護区画。

 アミィの反応は安定していた。

 命令層拘束波は切断され、保護支援層への干渉も止まっている。

 ヴァルクレイド・セレスの白い盾は、再び防壁として機能していた。

 アミィは、カナデに付き添われながら、ユイのいる監視席へ短時間通信を繋いだ。

 画面越しに、ユイの顔が映る。

 少し疲れている。

 笑おうとしているが、まだ呼吸が整っていない。

 アミィは、じっとユイを見た。

「ユイ」

「はい」

「こわかった?」

 その問いに、ユイは少しだけ目を見開いた。

 アミィが、ユイの感情を尋ねた。

 自分が怖かったかどうかではなく。

 ユイが怖かったかどうかを。

 ユイは、ゆっくり頷いた。

「怖かったです」

 そして、続けた。

「でも、切れました」

 アミィはその言葉を、ゆっくり受け止める。

「黒いの?」

「はい。アミィを引っ張る黒い波だけを切りました。アミィは切っていません」

 アミィは胸元に手を当てる。

 そこに、自分の声があることを確かめるように。

「……わたし、いる」

「はい」

 ユイは微笑んだ。

「アミィは、います」

 アミィは小さく頷いた。

「ユイ、こわい。でも、切った」

「はい。怖いまま、切りました」

 その言葉に、アミィは少しだけ考えた。

 そして、短く言った。

「ありがとう」

 ユイは一瞬、言葉を失った。

 それから、静かに答えた。

「どういたしまして」


 艦橋では、黒瀬が正式記録をまとめていた。

「ノクス・レクイエム制御層限定起動。使用目的、命令層拘束波切断補助。主砲・外殻出力・武装系統封印維持。本人反応損傷なし。対象拘束波切断成功。ただし、操縦者負荷大」

 三島が補足する。

「次回使用時は、連続使用不可。精神負荷確認、外部停止役、解析班、支援網との連携を必須条件として継続」

 ジンは頷いた。

「ノクスは使えた。だが、切り札にはしない」

 黒瀬が静かに答える。

「その記録で残します」

 前線では、ヴァルクレイド・セレスの白い盾が再び安定し、ミオの支援網が突破路を維持している。

 監察局の命令層拘束波は切られた。

 だが、敵はまだいる。

 タナトスも、回収部隊も、監察局の観測も終わってはいない。

 ノクス・レクイエムは、初めて条件付きで使われた。

 撃つためではなく。

 壊すためでもなく。

 命令に引き戻されそうになった声を、そこから切り離すために。

 そして、その成功は同時に示していた。

 ノクスは使える。

 だが、使えばユイに大きな負荷がかかる。

 怖いまま、切る。

 それが、今のユイに許されたノクスの使い方だった。

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