第279話 レオンの線、再び
外縁防衛線の右翼外周は、混乱の色を濃くしていた。
ルクス側は突破路を作ろうとしている。
ヘルメス隊は撹乱を続けている。
監察局直轄部隊は、タナトスの反応停止波を広げ、回収機を前へ出していた。
そして、その波はもはやルクス側だけを狙っていなかった。
ヘルメス隊の機体が一機、反応を鈍らせる。
ヴェス・シュトルムの軌道が乱れ、ルクス側の支援網だけでなく、帝国側の識別通信にもノイズが走る。
タナトスの黒い波は、戦場の判断を沈めていく。
敵か味方か。
攻撃対象か、観測対象か。
守るべき防衛線か、回収すべき実験場か。
監察局は、その区別を必要としていなかった。
対象を止める。
動きを鈍らせる。
回収する。
それだけが、彼らの作戦だった。
外縁方面軍旗艦『グラトン』。
艦橋の空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
クラウス・ベルガーが、戦況図を見ながら声を硬くする。
「司令、監察局直轄部隊の反応停止波が外周へ拡大しています。ヘルメス隊の一部、通常GDカスタム部隊、こちらの右翼補助艦隊通信にも影響が出ています」
レオン・グレイスナーは、無言で表示を見つめていた。
戦域図の右翼に、黒い干渉範囲が広がっている。
その中で、味方識別信号がいくつも揺らいでいた。
ルクス側のアルタイル。
ヴァナルガンド。
ヴァルクレイド・セレス。
ルナ・スケイル。
ヴェルディア。
それらを狙っているのは分かる。
だが、その周囲にはヘルメス隊もいる。
帝国の防衛機もいる。
通常部隊の兵もいる。
監察局は、それを承知で波を広げていた。
「被害は」
「現時点では撃墜報告はありません。ただし、ヘルメス隊一機が機動遅延。右翼補助艦隊の二隻が一時的に管制遅延。GD-08S随伴機の一部が味方識別を取り直しています」
「このまま続けば」
レオンが問う。
クラウスは一瞬だけ言葉を選んだ。
だが、すぐに報告する。
「このままでは防衛線が崩れます」
艦橋の空気がさらに重くなった。
「ルクス側の攻撃ではありません。監察局の干渉波によって、こちらの右翼防衛線が乱れています。ヘルメス隊も動きを制限されています。回収機の進路を開けるために、味方の防衛配置が薄くなっています」
レオンの目が細くなる。
「つまり、奴らは防衛線を使っているのではない。防衛線を削っている」
「はい」
クラウスは頷いた。
「監察局の目的は対象回収です。外縁防衛線維持とは優先順位が違います」
レオンは短く息を吐いた。
怒鳴りはしなかった。
声を荒げもしなかった。
だが、艦橋にいた者たちは分かった。
レオンは怒っていた。
ルクスを止めることに迷いはない。
帝国本国へ向かう敵艦を通すつもりもない。
だが、兵を実験材料にはしない。
その線を、監察局は踏み越えていた。
「監察局直轄部隊へ通信を開け」
レオンが命じた。
「はい」
通信士が即座に回線を繋ぐ。
だが、返ってきたのは監察局士官の冷たい声だった。
『こちら監察局直轄部隊。現在、対象回収作戦中です。外縁方面軍は防衛線維持を継続してください』
「反応停止波を絞れ」
レオンは一言で告げた。
『作戦遂行上、必要な範囲です』
「ヘルメス隊と右翼補助艦隊を巻き込んでいる」
『一時的な機能低下です。損耗率は許容範囲内と判断しています』
艦橋の数人が、わずかに顔を上げた。
許容範囲。
その言葉が、あまりにも軽かった。
レオンの声が低くなる。
「誰が許容した」
『監察局権限です』
「ここは外縁防衛線だ。私の戦場だ」
『本国命令では、PT関連対象の回収およびノクス・レクイエム完全起動阻止が最優先事項に指定されています』
「外縁防衛線を崩してまで行えとは命じられていない」
『解釈の相違です』
通信の向こうで、士官は淡々としていた。
『レオン司令。外縁方面軍は、監察局の回収作戦を妨害しないよう要請します』
その瞬間、レオンは通信士へ視線を向けた。
「通信を切れ」
「よろしいのですか」
「切れ」
通信が途切れる。
レオンはしばらく黙っていた。
そして、クラウスへ言った。
「エリシオンを出す」
クラウスはわずかに目を見開いた。
「司令自らですか」
「監察局の波が広がり続ければ、右翼防衛線が崩れる。ルクス側はそこを抜ける。監察局は対象回収に失敗し、こちらは防衛線を失う。最悪だ」
「ですが、エリシオンを動かせば、ルクス側にも隙ができます」
「分かっている」
レオンは立ち上がった。
「だが、監察局の暴走を放置すれば、より大きな穴が開く」
クラウスは、短く頷いた。
「ご命令を」
「中央防衛線は維持。右翼への追撃は最小限。ヘルメス隊へ退避経路を送れ。監察局直轄部隊には、防衛線維持のための戦域制限を通達する」
「監察局が従わない場合は」
レオンは、一拍置いて答えた。
「エリシオンで遮る」
艦橋の空気が凍る。
それは、監察局を攻撃するという意味ではない。
だが、監察局の干渉波と回収部隊の進路を、エリシオンの防衛領域で封じるという意味だった。
帝国同士の衝突。
そこまでいかなくても、明確な妨害と取られかねない。
クラウスは、深く頭を下げた。
「了解しました」
レオンは歩き出す。
「ルクスは止める。監察局の暴走も止める。どちらか一方ではない」
彼の声は静かだった。
「防衛線は守る。だが、兵を実験材料にはしない」
外縁防衛線右翼。
タナトスの黒い波が、さらに広がろうとしていた。
カイトはアルタイル・ノヴァ・ブレイスで回収部隊の進路を塞ぎながら、機体の重さに耐えていた。
判断が沈む。
反応が遅れる。
それでも、引けない。
アミィを戻させない。
レータを捕まえさせない。
ユイをノクスへ引きずり出させない。
そのために、ここで踏みとどまるしかない。
『カイト、左から回収機!』
レイの声が飛ぶ。
ヴァナルガンドが側面から一機を弾く。
だが、別の回収端末が、薄い影のようにレータの後方へ回り込もうとしていた。
『見えました。消えた跡があります』
ナユのロス・セレネが、低出力の《セレネ・リップル》を広げる。
薄い波紋が戦場に走り、隠れていた回収端末の輪郭が震えた。
『リン、右後方……!』
『見えた』
リンのヴァイス・リッパー・リビルドが即座に割り込む。
回収端末から伸びた拘束ワイヤーが、レータ機へ届く直前。
リンの刃が、ワイヤーを断ち切った。
『ナユは見つけろ。こっちは切る』
『うん……お願い』
ナユの声は少し震えていた。
拾いすぎれば、頭が痛む。
だが、今は見なければならない。
ミオの支援網が、ナユの拾った欠落座標を全体へ共有する。
『回収端末の位置を支援網に反映します。レータさん、防壁を右後方へ』
『受ける』
ヴァルクレイド・セレスの白い盾が、回収端末の進路を塞ぐ。
だが、タナトスの黒い波はさらに強くなった。
その時だった。
戦場中央から、白灰と金の機体反応が動いた。
GD-NM-03 エリシオン。
レオン・グレイスナーの機体だった。
カイトは、一瞬身構えた。
「エリシオン……!」
前回と同じなら、エリシオンは防衛線を固定し、こちらの進路を塞ぐ。
今このタイミングで出てくれば、突破路は消える。
だが、エリシオンはルクス側へ一直線に向かってこなかった。
その巨体は、タナトスの黒い波が広がる中心と、ヘルメス隊の退避軌道の間へ入った。
盾を展開する。
白灰の防御領域が広がり、タナトスの反応停止波の一部を遮った。
完全に消すわけではない。
だが、外周へ雑に広がっていた波の一部が、そこで歪み、逸らされる。
ヘルメス隊の一機が、機動を取り戻した。
リュカの声が通信に入る。
『レオン司令……?』
エリシオンから、短い指示が飛ぶ。
『ヘルメス隊、外周退避。右翼補助艦隊は陣形を戻せ。監察局直轄部隊は、反応停止波を指定範囲内へ絞れ』
監察局側から即座に抗議通信が入る。
『レオン司令、現在対象回収中です。防衛領域の展開は作戦妨害に該当します』
レオンの声は低かった。
『防衛線を崩しているのはそちらだ』
『監察局権限に基づく作戦です』
『外縁防衛線を維持する権限は、こちらにある』
エリシオンの防御領域がさらに前へ出る。
それは監察局を攻撃するものではない。
だが、タナトスの波と回収機の進路を、明確に制限していた。
ルクス・ヴァルキュリア艦橋。
ジンはその動きを見て、即座に判断した。
「今だ」
黒瀬が画面を見る。
「エリシオンが監察局の波を遮っています。右翼外縁に一時的な空白」
「レオンは、こちらを助けているわけじゃない」
ジンは言った。
「防衛線を守るために、監察局を止めているだけだ」
「ですが、結果として突破路が開きます」
「使う」
ジンは通信を開いた。
「全機、突破路へ移動。エリシオンには近づきすぎるな。レオンは敵だ。防衛線を抜けた後は必ず止めに来る」
『了解!』
カイトが答える。
アルタイルが進路を変える。
レイが側面を抑え、リンがナユの周辺へ戻る。
セラは回収端末の牽引装置を撃ち抜き、ミオは支援網を一瞬だけ広げた。
ヴァルクレイド・セレスの白い防壁が、その中心を守る。
ユイのヴェルディアも後方から回収機の進路を乱し、突破路へ向かう味方の退路を確保した。
カイトはエリシオンを見た。
あの機体は、ルクスを通そうとしているわけではない。
防衛線を守るために、監察局の暴走を止めている。
それでも、その結果として隙が生まれている。
「……レオン司令」
カイトは呟いた。
エリシオンの盾が、タナトスの黒い波を押し止めている。
その背後に、外縁防衛線の中枢へ続く薄い道が見えた。
「分かった。今だけ、使わせてもらう」
アルタイルが前へ出る。
レイのヴァナルガンドが左側面を抑え、カイルのレイヴン・ハウルが外周のヘルメス隊を押し戻す。
ナユのロス・セレネが消えた反応を拾い、リンが拘束端末を切る。
セラのフェンリオンは、監察局回収機の装備だけを正確に撃ち抜いていく。
ルクス側は、監察局隊を撃破しようとしていない。
レオン隊と正面衝突しようともしていない。
ただ、抜ける。
その一点へ、全ての動きを集めていた。
タナトスが反応停止波の出力を上げようとする。
だが、エリシオンの防衛領域がその広がりを抑え込む。
監察局の回収機が、ルクス側へ再接近しようとする。
しかし、ヘルメス隊が退避したことで、外周の撹乱密度は一時的に下がっていた。
カイルとレイが、その隙間を押さえる。
突破路が開く。
ジンが命じる。
「ルクス・ヴァルキュリア、進路修正。外縁防衛線中枢側へ接近する」
巨大艦が、ゆっくりと航路を変える。
その動きに合わせて、各機が防衛線の隙間を押し広げる。
その時、エリシオンから通信が入った。
宛先はルクス・ヴァルキュリア。
公開回線ではない。
短距離の限定通信だった。
ジンは一瞬だけ迷い、それを受けた。
画面にレオンの顔が映る。
表情は変わらない。
怒りも、感謝も、妥協もない。
ただ、冷静な敵指揮官の顔だった。
『勘違いするな』
最初の一言がそれだった。
ジンは答える。
「そのつもりはない」
『私は監察局の暴走を止めただけだ。貴艦を通すためではない』
「分かっている」
『次はない』
レオンの声は低い。
『防衛線中枢へ近づけば、外縁方面軍は全力で止める。監察局がどう動こうと、こちらの任務は変わらない』
ジンは短く頷いた。
「なら、こちらも抜けるために全力を尽くす」
『そうしろ』
通信が切れる直前、レオンはもう一言だけ告げた。
『兵を実験材料にしない。それだけだ』
通信が途切れた。
艦橋に、短い沈黙が落ちる。
黒瀬が静かに言った。
「敵ですね」
「ああ」
ジンは答える。
「だが、監察局とは違う」
外縁防衛線右翼の混乱は、まだ収まっていない。
監察局直轄部隊は体勢を立て直そうとしている。
タナトスはなお戦場に黒い波を残している。
ヘルメス隊は一時的に退避しながらも、完全に戦場を離れたわけではない。
そして、レオンのエリシオンは防衛線へ戻ろうとしていた。
ルクス側に与えられた隙は、長くない。
だが、その短い隙で十分だった。
アルタイルが先導し、ヴァナルガンドとレイヴン・ハウルが外周を押さえる。
フェンリオンが回収装備を撃ち抜き、ルナ・スケイルが支援網を繋ぐ。
ヴァルクレイド・セレスが局地通信保護を維持し、ロス・セレネが隠れた反応を拾う。
ヴァイス・リッパー・リビルドが、伸びる拘束ワイヤーを断つ。
ヴェルディアが後方から味方の進路を整える。
そして、ルクス・ヴァルキュリア本体が、外縁防衛線のさらに奥へ進む。
防衛線中枢。
帝国本国へ続く道の、次の壁。
ルクスは、そこへ近づきつつあった。
レオンが作ったわずかな線の隙間を抜けて。
だが、その先で待つのは、より厚い防衛線と、さらに強くなった帝国の意思だった。




