第272話 レオンの孤立
外縁方面軍旗艦『グラトン』。
その艦橋には、いつもより張り詰めた空気が漂っていた。
外縁防衛線は崩れていない。
ルクス・ヴァルキュリアは一度、後退した。
戦術的に見れば、防衛線の維持には成功している。
だが、状況は良くなっていなかった。
PT-A01アミィは奪取された。
セレスティアは制御下を離れた。
ルクス・ヴァルキュリアは、エデン方面で再調整を行った後、帝国本国方面へ再接近する可能性が高い。
そして何より、監察局が前面に出始めている。
レオン・グレイスナーは、艦橋中央の指揮席で外縁防衛線の再編図を見ていた。
正面防衛艦隊。
遊撃部隊。
ヘルメス隊の撹乱領域。
補給線。
後退時の防衛軸。
どこに戦力を置くか。
どこを削り、どこを厚くするか。
外縁防衛線は壁ではない。
動かせる戦場だ。
だが、監察局の介入によって、その自由度は明らかに下がり始めていた。
「クラウス」
「はい」
副官のクラウス・ベルガーが、端末を手に一歩前へ出る。
「本国からの追加命令は」
「監察局経由の命令が三件。帝国本国中枢からの正式通達が一件。いずれも、ルクス・ヴァルキュリアの再接近を前提にしたものです」
レオンは視線を動かさなかった。
「読め」
クラウスは、わずかに表情を硬くしてから報告を始めた。
「一件目。PT関連対象の保護、奪還、再同期を最優先事項とする。対象は、ユイ、レータ、アミィ、その他PT系列個体」
「保護ではなく拘束だな」
「文面上は保護です」
「監察局の文面は、いつもそうだ」
レオンの声は冷えていた。
クラウスは続ける。
「二件目。ノクス・レクイエムの完全起動を阻止。可能であれば鹵獲。困難な場合は、機能停止を優先」
「破壊ではなく鹵獲か」
「はい」
「それもまた、監察局らしい」
艦橋の何人かが、声には出さずに視線を伏せた。
ノクス・レクイエム。
命令層に干渉する可能性を持つ危険な機体。
帝国にとっては脅威だ。
だが、監察局にとっては観測対象でもある。
それを鹵獲したがる理由は明白だった。
「三件目。監察局直轄部隊の外縁防衛線投入。PT関連対象、ノクス・レクイエム、ヴァルクレイド・セレスに関する判断権は、監察局権限を上位とする」
クラウスの声が、わずかに低くなった。
艦橋の空気も変わる。
レオンは、ようやく画面から視線を外した。
「つまり、この戦場に監察局が指揮権を差し込むということか」
「そのように解釈できます」
「本国中枢からの通達は」
「外縁防衛線を越えさせるな、との命令です」
レオンは短く息を吐いた。
「単純で分かりやすい」
それは皮肉ではあったが、同時に本音でもあった。
外縁防衛線を越えさせるな。
その命令自体には、レオンも異論はない。
彼は帝国軍人だ。
外縁方面軍の指揮官だ。
ルクス・ヴァルキュリアが帝国本国へ接近するなら、敵として止める。
そこに迷いはない。
問題は、監察局がこの戦場を何に使おうとしているかだった。
通信回線が開き、別区画からヘルメス隊のリュカ・ヴァレンが投影された。
いつもの軽さは影を潜めている。
彼もまた、今回の命令に不快感を隠していなかった。
『レオン司令、ヘルメス隊にも監察局から直接命令が来ています』
「内容は」
『ルクス側支援網の撹乱。ノクス・レクイエム起動時の観測補助。PT対象の逃走経路封鎖。ついでに、タナトスの反応停止波を通すための誘導路確保』
「ついでに、ではないな」
『ええ。うちを露払いに使う気です』
リュカは吐き捨てるように言った。
『ヘルメス隊は撹乱部隊です。敵を乱すのは仕事ですし、防衛線維持のためならやります。ですが、監察局の実験機を通すために味方の戦域をかき回すのは、話が違います』
クラウスが補足する。
「ヘルメス隊の特性上、監察局直轄部隊との連携は可能です。ただし、通信撹乱と反応停止波が重なると、味方側の識別にも影響が出る恐れがあります」
「味方を止める可能性がある、ということか」
「はい」
レオンは目を細めた。
監察局の兵器は、敵だけを都合よく止めるものではない。
命令層、反応波、通信、機体制御。
それらに干渉する兵器は、味方の動きまで鈍らせる危険がある。
それでも監察局は使う。
彼らにとって、多少の味方損耗は観測誤差に過ぎない。
『正直に言えば、うちは監察局系の作戦とは相性が悪いです』
リュカが言った。
『相性が悪いというより、気分が悪い。敵を騙すのと、味方を実験場に置くのは違います』
「同感だ」
レオンは短く答えた。
リュカは少しだけ目を見開いた。
レオンが監察局を好んでいないことは知っていた。
だが、それをここまで明確に口にすることは少ない。
「ヘルメス隊には、外縁防衛線の撹乱と敵進路誘導を命じる。監察局直轄部隊への直接支援は、私の許可なしに行うな」
『本国命令と衝突しますよ』
「私が責任を持つ」
『……了解しました』
リュカの声には、わずかな安堵が混じっていた。
通信が切れる。
艦橋に、再び重い沈黙が落ちた。
クラウスは慎重に口を開いた。
「司令。本国からの命令は、以前より強くなっています」
「分かっている」
「監察局の介入に制限をかければ、司令の立場はさらに悪化します。すでに、アミィ救出後の追撃を行わなかった判断について、問題視する声が出ています」
「好きに言わせておけ」
「ですが」
クラウスは、そこで一度言葉を切った。
副官として、言うべきことを選んでいる顔だった。
「このままでは、司令は本国と監察局の双方から疑われます」
レオンは静かにクラウスを見た。
その視線に怒りはない。
むしろ、よく言ったという冷静さがあった。
「クラウス。私はルクス・ヴァルキュリアを見逃すつもりはない」
「承知しています」
「外縁防衛線を越えさせるつもりもない」
「それも承知しています」
「だが、オルフェンの実験に協力するつもりもない」
クラウスは黙った。
レオンは指揮画面に視線を戻す。
「ルクスは敵だ。防衛線へ来るなら止める。必要なら撃つ。こちらの兵が傷つけられるなら、相応の反撃も行う。それが外縁方面軍の任務だ」
そこで、彼の声が一段低くなる。
「だが、兵を実験材料にはしない」
艦橋の空気が、静かに震えた。
レオンは続ける。
「監察局が何を観測したいのかは知らん。PTの反応か。ノクスの力か。ルクス側の支援網か。好きに分類すればいい。だが、そのために外縁方面軍の兵を囮にし、味方の通信を乱し、反応停止波の中へ放り込むというなら、認めない」
クラウスは、深く頭を下げた。
「了解しました」
「全艦に通達しろ」
「内容は」
レオンは立ち上がった。
艦橋全体へ向けて、はっきりと告げる。
「防衛線は守る。ルクス・ヴァルキュリアは敵として止める。だが、兵を実験材料にはしない。監察局直轄部隊との連携は、外縁方面軍の安全を損なわない範囲に限定する」
誰もすぐには返事をしなかった。
その命令は、危うい。
本国の意向に完全に逆らうものではない。
だが、監察局の自由な介入を制限する内容だった。
レオンの立場は悪くなる。
それでも、艦橋の士官たちは一斉に姿勢を正した。
「了解!」
その返答は、短く揃っていた。
通達後、クラウスはレオンの隣へ戻った。
「司令。これで監察局は、こちらをさらに警戒します」
「元から警戒している」
「オルフェンは、こちらの反応も観測対象にするでしょう」
「だろうな」
レオンは外縁防衛線の配置図を見つめる。
そこには、これから到着する監察局直轄部隊の予定航路も重ねられていた。
防衛線の外側から、まるで別の刃が差し込まれるように接近している。
「オルフェンは、ルクスだけを見ているわけではない」
レオンが言った。
「こちらも見ている。私が命令に従うか。ヘルメス隊がどう動くか。外縁方面軍が監察局の兵器にどう反応するか。すべて観測対象だ」
「では、どうしますか」
「いつも通りだ」
レオンは静かに答えた。
「防衛線を守る。兵を無駄に死なせない。敵を敵として扱う。監察局の遊戯に乗らない」
「……簡単ではありません」
「簡単なら、私の仕事ではない」
クラウスは、わずかに苦笑した。
レオンの言葉はいつも通りだった。
冷静で、硬く、感情をほとんど見せない。
だが、その立場は確実に悪くなっている。
帝国本国は、結果を求めている。
監察局は、観測と回収を求めている。
ルクス・ヴァルキュリアは、再び防衛線へ向かってくる。
その間に立つレオンは、孤立しつつあった。
それでも、彼は指揮席から離れない。
外縁方面軍の指揮官として、そこに立ち続けるしかない。
外縁宙域の端に、新たな艦影が現れた。
通常の外縁方面軍艦艇とは異なる、黒灰色の艦体。
艦側面には、監察局の標章が刻まれている。
回収処分艦『モルグ』。
その後方には、複数の直轄部隊艦艇が続いていた。
艦内格納区画では、特殊機の起動準備が進んでいる。
GD-NM-02 タナトス。
黒い固定架台に拘束された機体の周囲で、監察局技官たちが無言で調整を進めていた。
機体の外装は、戦場で目立つためのものではない。
むしろ、光を吸い込むような暗い色をしている。
その内部で、反応停止波の中核が低く脈打っていた。
タナトスは、敵を破壊するための機体ではない。
止めるための機体。
応答を鈍らせ、制御を遅らせ、対象を再び命令の枠へ押し戻すための機体。
その起動ログが、ゆっくりと立ち上がる。
『GD-NM-02 タナトス、起動準備段階へ移行』
『搭乗者、マルク・ゼルファー。同期確認待機』
監察局直轄部隊は、外縁防衛線へ到着した。
レオンが守ろうとする戦場に、オルフェンの観測装置が差し込まれる。
ルクス・ヴァルキュリアが戻る前に、外縁防衛線はすでに、別の圧力に晒され始めていた。




