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第268話 ユイの条件

 ノクス・レクイエムの制御層試験は、成功と失敗の両方を残した。

 模擬命令層の表層剥離には成功した。

 本人反応を傷つけずに、命令層だけを薄く剥がす方向性も見えた。

 だが、それは同時に、ノクスの危険性をはっきり示した結果でもあった。

 少し出力が強くなれば、命令層の奥にある本人反応まで削りかける。

 救うための力が、救うべき相手を傷つけるかもしれない。

 その事実は、試験が終わった後も、ユイの中に重く残っていた。

 ルクス・ヴァルキュリアの医療・心理評価区画。

 ユイは、カナデの前に座っていた。

 正式な検査ではない。

 カナデが強制したわけでもない。

 ユイ自身が、話をしたいと言って訪れた。

 部屋にはカイトもいた。

 ユイが望んだからだ。

 カナデは端末を閉じたまま、ユイの言葉を待っている。

 記録用の装置も起動していない。

 今は報告ではなく、対話の時間だった。

「……怖かったです」

 ユイは、しばらく沈黙した後でそう言った。

 声は小さかった。

 けれど、曖昧ではなかった。

「ノクスを使うことが、ですか?」

 カナデが静かに問い返す。

 ユイは頷いた。

「はい。でも、ノクスだけじゃありません。私が、ノクスを使えることが怖いんです」

 カイトが、ユイを見る。

 ユイは膝の上で手を握っていた。

「私は、撃てます」

 その言葉は、部屋の空気を少し重くした。

 ユイは続ける。

「命令されたからじゃなくても。怖いから逃げるためでもなくても。必要だと思えば、私は撃てると思います。ノクスも、使えると思います」

「……ユイ」

 カイトが小さく名前を呼ぶ。

 ユイは、彼の方を見なかった。

 視線を落としたまま、自分の言葉を確かめるように話している。

「それが、怖いです。撃てないから怖いんじゃありません。撃てるから怖いんです。切れるから怖い。助けるためだと思えば、たぶん私は手を伸ばしてしまう」

 制御層試験の時も、そうだった。

 模擬命令層の奥に、本人反応に似せた小さな光が見えた。

 それを助けたいと思った。

 早く楽にしてあげたいと思った。

 その瞬間、ノクスの反応は深く入りすぎた。

 壊したいと思ったわけではない。

 けれど、助けたいという気持ちだけでも、刃は危険になる。

「私、壊したいとは思っていませんでした。でも、壊しかけました」

 カナデはすぐには否定しなかった。

 慰めることも、急いで安心させることもしなかった。

 ただ静かに頷く。

「その認識は、とても大事です」

「大事……ですか?」

「はい。怖いと思えることは、制御の前提になります」

 カナデの声は柔らかかった。

「危険な力を扱う時、一番怖いのは、自分は間違えないと思い込むことです。自分は救う側だから大丈夫。自分の目的は正しいから大丈夫。そう考え始めると、止まる理由が消えてしまいます」

 ユイは、ゆっくり顔を上げた。

「怖いと思っていても、間違えるかもしれません」

「もちろんです。怖いだけで安全になるわけではありません。でも、怖いと思えるなら、確認する理由が残ります。止まる理由が残ります。誰かに止めてもらう必要を受け入れられます」

 カナデはそこで一度、カイトを見た。

「ユイさんは、ノクスを使う自分を信じきれない。だからこそ、条件を作る必要があるんです」

「条件……」

「はい。感情だけで使わないための条件です。戦場の勢いで判断しないための条件です。自分が正しいと思った時ほど、確認するための仕組みです」

 ユイは黙って考え込んだ。

 ノクス・レクイエム。

 命令層を断つかもしれない力。

 縛られた誰かを救えるかもしれない刃。

 けれど、それは同時に、相手の中にある大切なものまで傷つける可能性を持っている。

 便利な力ではない。

 切り札という言葉で片づけていいものでもない。

 カイトが口を開いた。

「ユイ」

「はい」

「止める役が必要なら、俺もいる」

 ユイがカイトを見る。

 カイトは、少しだけ言葉を探していた。

「ノクスの詳しい制御とか、術式の境界とかは、俺には分からない。リクトさんやリゼルさんみたいには見えないし、ミオみたいに支援網で感じ取ることもできない」

 カイトはそこで一度、息を吐いた。

「でも、ユイが無理をしている時くらいは分かると思う。焦っている時とか、自分だけで抱えようとしている時とか。そういう時に、止めろって言うなら止める」

「……カイトが?」

「うん」

 カイトは真っ直ぐに言った。

「戦場で迷うのは怖い。でも、ユイが壊れそうな使い方をするなら、俺は止める。敵を倒すより、そっちの方が大事だと思うから」

 ユイの目が、少し揺れた。

 その言葉は甘い。

 戦場では、甘すぎるかもしれない。

 けれど、ユイにとっては必要な言葉だった。

 自分が止まれなくなった時に、止めてくれる人がいる。

 それは、ノクスを使う上での支えになる。

「……ありがとうございます」

 ユイは小さく言った。

 その時、部屋の扉が開いた。

 入ってきたのはアシュだった。

 呼ばれていたわけではない。

 だが、ノクスの話をしていると知って、確認に来たのだろう。

 アシュは室内を一瞥し、壁際に立った。

「話は聞いた」

 短い言葉だった。

 カナデは特に驚かなかった。

「ちょうど、ノクス使用時の停止役について話していました」

「なら、はっきりさせておけ」

 アシュはユイを見る。

 その視線は厳しい。

「甘い判断なら俺が止める」

 ユイは黙って受け止めた。

 アシュは続ける。

「助けたい。切れば救える。今しかない。そういう理由で深く踏み込むなら、止める。敵が目前にいても、味方が焦っていても、止める」

「……はい」

「恨むなら後で恨め」

 カイトが眉を動かした。

 だが、ユイは首を横に振った。

「恨みません」

「その時になれば分からない」

「それでも、お願いします」

 ユイはアシュを見た。

「私がノクスを使う時、怖さを忘れていたら止めてください。助けるためだと思って、切りすぎそうになっていたら止めてください」

 アシュは表情を変えなかった。

「言われなくても止める」

「はい」

 ユイは頷いた。

 カナデが静かに言う。

「では、ユイさん。あなた自身の条件を言葉にしてみましょう」

「私自身の条件……」

「技術班が決める運用条件とは別です。艦橋が決める戦術規定とも別です。ユイさん自身が、ノクスを使う前に必ず確認する条件です」

 ユイは、少しの間目を閉じた。

 ノクスの力を思い出す。

 絡まった線を見つける力。

 命令層を断てるかもしれない力。

 だが、本人反応まで傷つけるかもしれない力。

 自分は撃てる。

 自分は切れる。

 だからこそ、条件がいる。

 ユイは目を開けた。

「一つ目」

 カナデが端末を開く。

 今度は記録するためだった。

「本人反応を確認できない対象には使いません」

 カナデが入力する。

 ユイは続けた。

「命令層だけが見えていても、その奥に本人反応が確認できないなら使いません。命令で動いているように見えても、その子自身がどこにいるか分からないなら、切りません」

 リクトやリゼルの解析だけでは足りない場合もある。

 ミオの支援網、カナデの心理反応確認、場合によっては通信による応答。

 本人がそこにいると確認できなければ、ノクスを使う意味はない。

「二つ目」

 ユイは、はっきりと言った。

「命令層切断以外の目的では使いません」

 カイトが頷く。

 アシュも口を挟まなかった。

「敵を倒すためとか、装甲を破るためとか、戦況を一気に変えるためには使いません。ノクスは、命令から救うためにだけ使います」

「火力としては使わない、ということですね」

 カナデが確認する。

「はい」

 ユイは頷いた。

「三つ目。外部停止役を必ず置きます」

 アシュがわずかに目を細める。

「停止役がいない状況では?」

「使いません」

 ユイは迷わず答えた。

「私がどれだけ使えると思っても、外から止める人がいないなら使いません。止める人は、私の許可を待たなくていい。危険だと思ったら止めていい。止める権限は、私より上に置きます」

 部屋が静かになった。

 それは、ユイにとって簡単な言葉ではなかった。

 自分の機体。

 自分の力。

 自分が救いたい相手。

 それでも、最後の停止権限を自分の外へ置く。

 その決断は、ノクスを信用しすぎないためのものだった。

「四つ目」

 ユイは少しだけ息を整えた。

「主砲級火力とは連動させません」

 カイトが表情を引き締める。

 ノクス・レクイエムは、ネメシス・レクイエムの残骸を外殻と出力系に組み込んでいる。

 そのため、理論上は高火力兵装との連動も不可能ではない。

 だが、それを許せば、ノクスは救出用の刃ではなくなる。

 命令層を断つ力と、主砲級火力が連動すれば、対象を救う前に破壊してしまう。

「ノクスの切断術式を、艦砲や高出力砲撃の補助には使いません。敵の防御を破るためにも使いません。命令層に干渉する時は、火力系統から切り離します」

 アシュが短く言った。

「妥当だ」

 その言葉に、ユイは少しだけ肩の力を抜いた。

 カナデは入力を終えると、画面をユイへ向けた。

 そこには、四つの条件が並んでいる。

 一、本人反応を確認できない対象には使用しない。

 二、命令層切断以外の目的では使用しない。

 三、外部停止役を必ず置く。

 四、主砲級火力とは連動させない。

 ユイはその文字を見つめた。

 それは、ノクスを使うための条件であると同時に、ノクスを使わないための条件でもあった。

「……これを、正式記録に入れてください」

 ユイが言った。

 カナデが頷こうとした時、扉の外から声がした。

「その件なら、こちらで受ける」

 黒瀬が入ってきた。

 三島も後ろにいる。

 どうやら、ノクス関連の報告確認に来ていたらしい。

 黒瀬はいつものように落ち着いた表情で、カナデの端末を見た。

「ノクス・レクイエム使用条件。操縦者本人からの申告として、正式記録に入れる」

「黒瀬さん」

 ユイが立ち上がりかける。

 黒瀬は片手で制した。

「そのままでいい。これは謝罪や許可願いではない。運用条件の提出だ」

 ユイは、少しだけ姿勢を正した。

 黒瀬は画面の四項目を確認する。

「本人反応確認を必須化。用途を命令層干渉に限定。外部停止役の常設。主砲級火力との連動禁止。……かなり強い制限だな」

「はい」

「戦場では不利になる」

「分かっています」

「使えば突破できる場面で、使えない可能性が出る」

「それでも、必要です」

 黒瀬はユイを見た。

 問い詰めるような視線ではない。

 確認する視線だった。

「理由は?」

 ユイは答えた。

「ノクスは、敵を倒すための力にしたくありません。命令に縛られた人を助けるために使いたいです。でも、そのためには、使わない条件も決めないといけないと思いました」

 黒瀬はしばらく黙っていた。

 やがて、端末を操作する。

「分かった。正式記録に入れる」

 三島が横から補足する。

「艦橋、技術班、心理評価班にも共有しておきます。今後、ノクス使用判断時には、この四項目を最低条件として参照します」

「お願いします」

 ユイは頭を下げた。

 黒瀬は淡々と言った。

「ただし、これは草案だ。実戦を想定すれば、さらに細部を詰める必要がある。誰が本人反応を確認するのか。停止役を誰にするのか。艦橋判断と現場判断が割れた場合はどうするのか。主砲級火力との連動禁止範囲をどこまで含めるのか」

「はい」

「だが、方向性は悪くない」

 その一言に、ユイは少しだけ息を吐いた。

 カイトが小さく笑う。

「よかったな」

「はい」

 ユイは頷いた。

 だが、その表情は明るいだけではなかった。

 条件を作ったから安全になるわけではない。

 正式記録に入れたから、間違えなくなるわけでもない。

 それでも、何も決めないよりはいい。

 ノクスを便利な切り札にしないために。

 救うための力を、壊すための力に変えないために。

 自分が撃てる人間だと認めた上で、それでも止まれるようにするために。

 ユイは、画面に残った四つの条件を見つめた。

 撃てるからこそ、怖い。

 切れるからこそ、止まらなければならない。

 その怖さを抱えたまま、ノクスと向き合う。

 それが、ユイ自身が選んだ条件だった。

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