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第267話 ノクス制御層試験

 ノクス・レクイエムは、まだ起動していない。

 整備区画の奥。

 多重ロックされた固定架台の上で、黒い機体は沈黙したまま横たわっていた。

 装甲の一部は開かれている。

 中核部へ繋がる制御ケーブルは接続されているが、主機関には火が入っていない。

 武装系も、変形機構も、レクイエム外殻側の高出力回路も封鎖されたままだ。

 今回、動かすのはノクス本体ではない。

 試験するのは、制御層だけだった。

「封印状態、維持確認」

 リクトが端末を見ながら言った。

「ノクス・リリス中核操縦系、待機状態。レクイエム外殻出力、遮断。切断術式本体、未発動。外部術式陣との同期だけ開始します」

 整備区画の床に、淡い光が広がっていく。

 リゼルが組んだ外部術式陣だった。

 円形の陣が三重に重なり、その内側に細い線が幾何学模様のように走っている。

 中央に置かれているのは、小型の模擬制御核だった。

 そこには、帝国命令層を再現した模擬術式が重ねられている。

 もちろん本物ではない。

 実際の命令層をそのまま再現すれば危険すぎるため、リクトとリゼルが安全な範囲で似せたものだ。

 ただし、単なる偽物ではない。

 命令層に似せた拘束反応。

 その奥に、本人反応に見立てた微弱な反応層。

 さらに、その二つが完全には分離していない状態。

 アミィの件を参考にした、かなり厄介な模擬構造だった。

「……意地悪な作りですね」

 ユイが小さく言った。

 操縦席には入っていない。

 彼女はノクス本体から離れた補助席に座り、外部術式陣へ制御補助だけを送る役目を担っていた。

 リクトが苦笑する。

「意地悪なくらいでちょうどいいんです。簡単に切れる模擬術式で成功しても、本番では役に立ちませんから」

「それは、そうですね」

 ユイは頷いた。

 だが、表情は硬い。

 ノクス・レクイエムに乗っているわけではない。

 武装を動かすわけでもない。

 ただ制御層の反応を、外部術式陣に向けて薄く流すだけ。

 それでも、ユイの指先には緊張があった。

 アシュは、制御卓の反対側に立っていた。

 彼女の前には、独立した停止装置が置かれている。

 艦内システムとも、リクト達の解析端末とも、ユイの補助席とも別系統のものだ。

 アシュがそれを押せば、ノクス側から伸びる制御反応は即座に遮断される。

 さらに、外部術式陣自体も強制停止する。

 荒っぽい。

 だが、確実な止め方だった。

「確認しておく」

 アシュが言った。

「危険と判断した瞬間に止める。ユイの許可は待たない。リクトやリゼルの解析完了も待たない」

「はい」

 ユイは即答した。

「止めてください」

「迷わないな」

「迷ったら、たぶん遅いので」

 アシュはしばらくユイを見ていたが、それ以上は何も言わなかった。

 リゼルが術式陣の反応を確認する。

「模擬命令層、安定。模擬本人反応、低出力で保持。干渉許容範囲を設定します。今回は切断ではなく、切断範囲の認識と減衰制御が目的です」

「つまり、切る前に止まる練習ですね」

 ミオが確認するように言った。

 彼女は支援網の監視役として同席している。

 今回は直接干渉しない。

 だが、反応の揺らぎを確認する目として、彼女の感覚は必要だった。

「はい」

 リゼルが頷く。

「ノクスの力は、対象の繋がりを線として捉えます。今回は、その線を認識した上で、どこまで近づけば危険かを見る試験です」

 リクトが続ける。

「第一段階では、命令層の表面に触れるだけ。第二段階で、ごく薄く剥がす。本人反応に接近した時点で強制減衰。そこを越えたら、アシュさんが止めます」

「越えたら、ではない」

 アシュが低く言った。

「越えそうなら止める」

「……了解です」

 リクトは素直に頷いた。

 ユイは補助席の前に手を置いた。

 画面には、三つの反応が映っている。

 ノクス制御層。

 模擬命令層。

 模擬本人反応。

 その三つの波形が、ゆっくりと同期を始める。

「ユイさん、補助入力をお願いします。出力は最低値。意識するのは“切る”ではなく、“触れる”です」

「はい」

 ユイは目を閉じた。

 ノクスを動かす感覚ではない。

 自分の中から刃を伸ばす感覚でもない。

 もっと細く。

 もっと浅く。

 相手の中にある絡まった糸へ、指先を近づけるように。

「……制御補助、入ります」

 淡い紫紺の光が、外部術式陣の縁に浮かんだ。

 ノクス・レクイエム本体は動かない。

 だが、その奥に眠る制御層だけが、わずかに反応した。

 リクトの端末に、波形が走る。

「ノクス制御層、模擬命令層を認識」

 リゼルが目を細める。

「切断線の生成前段階です。まだ刃にはなっていません」

 ユイは呼吸を整えた。

 模擬命令層は、黒い膜のように感じられた。

 その奥に、小さな灯りがある。

 本人反応を模したものだ。

 本物ではない。

 分かっている。

 けれど、ユイにはそれが誰かの声のように感じられた。

 命令に覆われて、まだ消えていない小さな反応。

 助けなければ。

 そう思った瞬間だった。

「出力上昇」

 リクトの声が鋭くなる。

「ユイさん、下げてください。ノクス側の認識が深く入りすぎています」

「……はい」

 ユイはすぐに力を緩めようとした。

 だが、ノクスの反応は一瞬遅れた。

 いや、遅れたのではない。

 制御層が、命令層を“切る対象”として捉え始めていた。

 紫紺の線が術式陣の内側に走る。

 模擬命令層の表面が裂ける。

 そこまでは想定内だった。

 だが、裂け目は止まらなかった。

「切断範囲、第二層へ接近!」

 リゼルが声を上げる。

「本人反応に近いです。減衰が追いついていません」

 ミオの顔色が変わった。

「模擬本人反応が削られています!」

 ユイの胸が凍る。

 画面の中で、小さな灯りが揺らいだ。

 命令層の一部を剥がすつもりだった。

 だが、刃はその奥へ届きかけていた。

 切ってはいけない場所へ。

「止める」

 アシュが即座に停止装置を叩いた。

 次の瞬間、整備区画の光が落ちる。

 外部術式陣が強制的に消えた。

 ノクス制御層から伸びていた反応も、乱暴に断ち切られる。

 警告音が短く鳴った。

『試験中断。制御層反応遮断。外部術式陣停止』

 沈黙が落ちた。

 誰もすぐには口を開かなかった。

 ユイは補助席に座ったまま、手元を見つめていた。

 指先が震えている。

 切ったのは模擬術式だ。

 本物の誰かではない。

 傷ついたのも、本人反応に似せた人工的な信号に過ぎない。

 それでも、ユイにははっきり分かった。

 今のままなら、壊していた。

「……私」

 声が出にくかった。

「助けようと、思いました」

 誰も責めなかった。

 だからこそ、ユイは続けるしかなかった。

「命令層の奥に、反応が見えて……早く楽にしないとって思って。それで、少しだけ深く入ってしまいました」

 アシュが静かに言う。

「少しではない。あのままなら、模擬本人反応まで切っていた」

「……はい」

「本番なら、相手の記憶か、意思か、感情を削っていた可能性がある」

「はい」

 ユイは拳を握った。

 怖かった。

 ノクスが怖い。

 自分が怖い。

 救いたいと思った気持ちが、そのまま刃を押し込んでしまうことが怖い。

「……怖いです」

 ユイは、はっきりと言った。

「壊したいと思っていなくても、助けたいと思っただけでも、間違えたら傷つける。今、それが分かりました」

 アシュは停止装置から手を離さなかった。

「それを忘れるな」

「はい」

「怖いと思っている間は、まだ止まれる」

 その言葉は厳しかったが、突き放すものではなかった。

 リクトが深く息を吐く。

「試験を止めた判断は正しかったです。ログを見る限り、ノクスは命令層の剥離ではなく、接続構造そのものを断とうとしていました」

「接続構造そのもの……」

 ミオが呟く。

 リゼルが術式図を再表示する。

「ノクスは“悪い命令だけ”を自然に選別してくれるわけではありません。繋がりを見つけると、それを断てる形に変えてしまう。だから、こちらが断つ範囲を決めなければならないのです」

「つまり、ノクス任せにしてはいけない」

 リクトが頷いた。

「はい。ノクスは答えではなく、刃です。どこに当てるかは、使う側が決めなければいけない」

 ユイは画面を見た。

 模擬本人反応は完全には消えていない。

 アシュが止めたからだ。

 もし、あの停止が一拍遅れていたら。

 そう考えるだけで、喉が詰まった。

「……もう一度、やらせてください」

 ユイが言った。

 アシュの目が鋭くなる。

「今すぐか」

「はい」

「怖いと言った直後に?」

「怖いから、です」

 ユイは顔を上げた。

「怖いまま、どう止めるかを覚えたいです。怖くないふりをしてからやる方が、危ないと思います」

 アシュはすぐには答えなかった。

 リクトとリゼルも、互いに視線を交わす。

 ミオが静かに言った。

「私は、再試験してもいいと思います。ただし、条件をもっと絞るべきです」

「条件?」

「ユイの補助入力をさらに下げる。ノクス側に切らせるのではなく、命令層の表面だけをリクトさんとリゼルさんが先に指定する。ユイはその指定範囲から外れないように押さえる役に回る」

 リクトがすぐに端末を操作する。

「それなら可能です。切断ではなく剥離ですね。命令層の一部を断つのではなく、表面を薄く剥がして、本人反応との接続を弱める」

 リゼルも頷く。

「刃で斬るのではなく、貼り付いた膜を少しずつ剥がす形です。ノクスの本来の出力からすれば、かなり窮屈な使い方になります」

「窮屈でいいです」

 ユイは即答した。

「むしろ、その方がいいです」

 アシュは、まだ停止装置の前に立ったままだった。

「再試験を許可する条件がある」

「はい」

「私の停止判断に、誰も異議を挟まない。ユイもだ」

「分かりました」

「リクト、リゼル。本人反応との境界に接近した時点で、即座に警告を出せ。解析を続けようとするな」

「了解です」

「ミオ。支援網に違和感があれば、数値より先に言え」

「はい」

 アシュは最後にユイを見た。

「そしてユイ。助けたいと思ったら、一度止まれ」

 ユイは、その言葉を胸に刻むように頷いた。

「はい」

 外部術式陣が再起動する。

 今度は、光が先ほどよりも弱い。

 模擬命令層も、再構成された。

 本人反応との接続は残っている。

 だが、リクトとリゼルによって、剥離可能な表層だけが薄く指定されていた。

「第二試験、開始」

 リクトの声が響く。

「ユイさん、補助入力は最低値のさらに半分。ノクス制御層の認識補助だけお願いします」

「はい」

 ユイは目を閉じた。

 助けたい。

 その気持ちは消えない。

 けれど、今は前へ押し込まない。

 相手の奥へ手を伸ばすのではなく、表面に触れる。

 握るのではなく、支える。

 切るのではなく、浮かせる。

 紫紺の光が、模擬命令層の表面に触れた。

 先ほどのような鋭い線ではない。

 細く、薄く、揺らぐ光だった。

「ノクス制御層、命令層表面を認識」

 リクトが言う。

「切断線、未形成。剥離反応に変換中」

 リゼルが続ける。

「本人反応との距離、維持。境界接近なし」

 ユイは息を吐いた。

 力を入れすぎない。

 早く終わらせようとしない。

 少しずつ。

 薄く貼り付いた命令層が、表面から浮き上がる。

 剥がれた部分はすぐに消えるのではなく、外部術式陣の補助領域へ逃がされていった。

 模擬本人反応は、揺らいでいる。

 だが、削れてはいない。

「剥離成功率、二十二パーセント」

 リクトが言った。

「まだ低いですが、本人反応への損傷なし」

「続行可能です」

 リゼルが確認する。

 ユイは頷いた。

「続けます」

 再び、薄く剥がす。

 ノクスの力は、何度も強くなろうとした。

 繋がりを見つけるたびに、断ち切ろうとする衝動のような反応が出る。

 そのたびに、ユイは止まった。

 助けたいと思ったら、一度止まる。

 アシュの言葉を思い出す。

 切る場所を決める。

 切らない場所を守る。

 急がない。

「剥離成功率、四十一パーセント」

「本人反応、安定」

「切断線、形成兆候なし」

 リクトとリゼルの声が続く。

 ミオが静かに言った。

「さっきより、支援網への引っかかりが浅いです。命令層だけが薄くなっています」

 ユイは小さく息を吐いた。

 模擬命令層の黒い膜が、少しずつ薄くなる。

 奥にある灯りは、消えない。

 守れている。

 完全ではない。

 だが、少なくとも、壊してはいない。

「剥離成功率、五十八パーセント。予定値に到達」

 リクトが言った。

「ここで終了しましょう。これ以上は深部に近づきます」

 ユイはすぐに手を離した。

「停止します」

 外部術式陣の光がゆっくりと弱まっていく。

 今度は警告音ではない。

 正常終了を示す、短い確認音だけが鳴った。

『第二試験終了。模擬命令層、表層剥離成功。模擬本人反応、損傷なし』

 整備区画に、静かな安堵が広がった。

 ユイは補助席から立ち上がる。

 足元が少し頼りなかった。

 ミオがすぐに近づく。

「大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫……だと思います」

 ユイは苦笑した。

「でも、すごく疲れました」

「それくらいでいい」

 アシュが言った。

 ユイがそちらを見る。

 アシュはまだ厳しい顔をしていた。

 だが、停止装置からは手を離していた。

「簡単に扱えると思うより、その方がいい」

「……はい」

 リクトは試験ログを保存しながら言った。

「今日の結果で、ノクス使用条件の草案を作れます」

「使用条件……」

「はい。最低限、必要なのは三つです」

 リクトは画面に項目を表示した。

 一つ目。

 ノクス本体の高出力切断術式は、原則使用禁止。

 二つ目。

 命令層への干渉は、本人反応の位置が確認できた場合のみ許可。

 三つ目。

 使用時は操縦者、解析班、外部停止役の三系統承認を必須とする。

 リゼルがそこに追加する。

「さらに、切断ではなく剥離を第一選択にするべきです。命令層を一撃で断つのではなく、本人反応から薄く離していく」

 ミオも頷く。

「支援網で本人反応を支える準備がない場合も、使用禁止にした方がいいです。切った後に支えられないなら、使うべきではありません」

 アシュが短く言う。

「外部停止役には、使用中止の単独権限を持たせる。これは絶対だ」

 ユイは、その項目を見つめていた。

 制限ばかりだった。

 禁止事項ばかりだった。

 すぐには使えない。

 戦場で万能の切り札にはならない。

 けれど、それでよかった。

「……お願いします」

 ユイは言った。

「ノクスを、簡単に使えない力にしてください」

 リクトは少しだけ驚いたようにユイを見た。

 リゼルは静かに頷いた。

 アシュは何も言わなかったが、反対もしなかった。

 ノクス・レクイエムは、整備区画の奥で沈黙している。

 その力は、命令を断てるかもしれない。

 縛られた誰かを救えるかもしれない。

 だが、同じ刃は、本人の反応まで傷つけるかもしれない。

 だから、条件がいる。

 止める者がいる。

 切らないための技術がいる。

 ユイは黒い機体を見上げた。

 もう、怖くないとは思わない。

 怖い。

 怖いままでいい。

 その怖さを忘れないことが、ノクスと向き合うための最初の条件なのだと、ユイはようやく理解していた。

 そしてその日、ルクス・ヴァルキュリアの技術班は、ノクス・レクイエム使用条件の草案作成に入った。

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