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第266話 切る力と向き合う

 ヴァルクレイド・セレスの初期起動試験は、成功と呼べる結果で終わった。

 レータとアミィ、二人の反応は完全ではない。

 まだ不安定な揺らぎはある。

 セレスティア由来の残留反応も、完全に消えたわけではない。

 それでも、機体は二人を拒まなかった。

 命令層の残滓に引きずられることなく、レータの判断とアミィの意思を、別々のものとして認識した。

 それは大きな前進だった。

 だが、ルクス・ヴァルキュリアの技術区画に、安堵だけが満ちていたわけではない。

「……次は、ノクスですね」

 リクトが、端末に表示された解析表を見つめながら言った。

 その言葉に、周囲の空気がわずかに沈む。

 ヴァルクレイド・セレスは、再定義された機体だった。

 命令の檻として使われていたセレスティアを、支援と保護のための機構へ作り替える。

 その目的は明確だった。

 けれど、ノクス・レクイエムは違う。

 あれは救うための機体であると同時に、断つための機体でもある。

 ノクス・リリスを中核に、ネメシス・レクイエムの残骸を外殻と出力系に組み込んだ機体。

 帝国の命令層を断ち切る可能性を持つ一方で、その力はあまりにも鋭すぎる。

 ユイは、整備区画の奥に固定された黒い機影を見上げていた。

 ノクス・レクイエム。

 まだ完全な実戦投入には遠い。

 装甲の一部は外され、制御ケーブルと術式安定化用の補助フレームが機体の各所に接続されている。

 黒と紫の外殻は、照明を受けても鈍く沈み込むように光っていた。

 以前のノクス・リリスとは違う。

 慣れているはずの反応が、知らない形で返ってくる。

 自分の機体でありながら、自分だけのものではない。

 ユイは小さく息を吐いた。

「……やっぱり、怖いですね」

 近くにいたミオが、静かにユイを見た。

「ノクスが?」

「うん。ノクスそのものも怖いですけど……それより、私が間違えて使うことが怖いです」

 ユイは視線を逸らさなかった。

 整備台の上で沈黙するノクス・レクイエムを、まっすぐ見ている。

「あれは、命令を切れるかもしれない。でも、切る場所を間違えたら、その子自身まで傷つけるかもしれない」

 その言葉に、アシュが低く言った。

「だから反対だ」

 彼は壁際に立っていた。

 腕を組み、表情は硬い。

 アシュはもともと、ノクス・レクイエムの扱いに強い警戒を示していた。

 それは単なる感情的な反発ではない。

 彼は、壊す力の怖さを知っている。

 命令に従わされることの苦しさも知っている。

 そして、命令から解放されることが、必ずしも無傷で済むわけではないことも知っている。

「ヴァルクレイド・セレスは、支えるための機体だ。少なくとも、今の調整方針はそうなっている。だが、ノクスは違う。あれは切る。断つ。裂く。言葉を変えても、本質は変わらない」

「……うん」

 ユイは否定しなかった。

 アシュの声は冷たい。

 だが、その冷たさはユイを責めるものではない。

 むしろ、踏み越えてはいけない線を守ろうとしている声だった。

「命令層だけを切ると言うのは簡単だ。だが、命令層と本人反応が絡み合っていたらどうする。本人の意思だと思っていた反応が、実際には命令で補強されていたらどうする。逆に、命令だと思って切ったものが、その子の記憶や感情に繋がっていたら?」

 整備区画が静まり返る。

 アミィの件があったからこそ、その言葉は重かった。

 アミィの中には、本人反応、A系列としての基本設計、セレスティアの支援層、帝国命令層が絡み合っていた。

 無理に引き剥がせば、助けるどころか壊していたかもしれない。

 それを、全員が知っている。

 リクトが端末を操作し、ノクス・レクイエムの術式反応を大型モニターへ映した。

「アシュさんの警戒は正しいです。現時点で、ノクスの術式層は単純な攻撃系ではありません。分類するなら、干渉対象の接続を断つ術式……つまり、切断の術式に近い」

 リゼルがその横で頷いた。

「ただ刃を伸ばすものではありません。対象の外側を斬るのではなく、結びつきそのものに干渉します。術式、命令、制御、認証、反応の連結。ノクスは、それらを“線”として捉えているように見えます」

 ミオが眉を寄せる。

「線を切る……ですか」

「はい。だからこそ、帝国命令層には有効です。命令層は、本人反応の上から被せられた拘束線のようなものですから」

 リクトはそこで一度、言葉を切った。

「ですが、問題は、その線がきれいに分かれているとは限らないことです」

 画面には、複数の反応層が重なった波形が表示されている。

 本人反応。

 記憶反応。

 機体側認証。

 帝国式命令。

 術式安定化層。

 それらは色分けされているが、完全に独立しているわけではない。

 何本もの糸が絡み合うように、境界は曖昧だった。

 リゼルが続ける。

「切断は、癒やしにもなります。毒を含んだ鎖を断てば、相手は自由になれる。ですが、鎖が肉に食い込んでいれば、無理に断つことで傷が広がります」

 ユイの指が、わずかに震えた。

 それは、あまりにも分かりやすい例えだった。

 救うために切る。

 けれど、救うための切断が、相手を傷つけることもある。

 ユイは、かつての自分を思い出していた。

 命令に従っていた頃の自分。

 命令を疑えなかった頃の自分。

 そして、地球で名前を与えられ、少しずつ自分の意思を取り戻していった自分。

 もし、あの時。

 誰かが強引に命令層だけを切ろうとしていたら。

 自分は、本当に無事だったのだろうか。

 竜奈として過ごした時間。

 ユイとして戦ってきた記憶。

 カイト達と出会ったことで生まれた感情。

 それらは、命令と完全に無関係だったと言えるのか。

「……私は」

 ユイが口を開いた。

 声は小さかったが、全員が聞いていた。

「私は、ノクスを使いたいです」

 アシュの目が細くなる。

 ユイは続けた。

「でも、便利だからじゃありません。強いからでもありません。命令を切れるなら楽だから、でもありません」

 彼女はノクス・レクイエムを見上げた。

「あれを使えば、助けられる子がいるかもしれない。命令に縛られて、自分の声が届かなくなっている子を、少しだけでも自由にできるかもしれない」

 そこで、ユイは自分の胸に手を当てた。

「でも、切ることを間違えたら、その子の中にある大事なものまで壊してしまうかもしれない。だから……私は、ノクスを切り札にしたくないです」

「切り札にしない?」

 アシュが問い返す。

「はい。困った時に出せば解決する力にはしません。ノクスを使う時は、切る場所を決める。切っていいものか確認する。切った後に支える人がいる。その全部が揃わないなら、使わない」

 ミオが静かに息を呑んだ。

 リクトも、リゼルも、ユイの方を見ていた。

「救うために切るのと、壊すために切るのは違います」

 ユイの声が、少しだけ強くなる。

「壊すために切るなら、相手がどうなっても関係ない。でも、救うために切るなら、切った後にその子が立っていられるかを考えないといけない。切って終わりじゃない。切った後からが、本当は大事なんだと思います」

 アシュは黙っていた。

 その表情は、まだ硬い。

 だが、先ほどのような即座の否定はなかった。

 しばらくして、彼女は低く言った。

「……言葉としては正しい」

「はい」

「だが、実際に戦場でそれを守れるかは別だ。敵は待たない。命令層に縛られた相手は、こちらを殺そうとする。迷えば味方が死ぬ。急げば相手を壊す。そういう状況になる」

「分かっています」

「本当にか?」

 アシュの問いは鋭かった。

 ユイは少しだけ唇を結び、それから頷いた。

「分かっている、つもりです。でも、全部は分かっていないと思います。だから、一人で決めません」

 その言葉に、アシュの表情がわずかに変わった。

「ノクスを使う時は、私だけで判断しません。ミオの支援網、リクトさんとリゼルさんの解析、カナデさんの本人反応確認、アシュさん達の警戒。必要なら、カイトにも止めてもらいます」

「カイトに?」

「はい。多分、私が一番止まれなくなる時に止められるのは、カイトだと思うので」

 ミオが小さく笑った。

 リクトは少し困ったように視線を落としたが、否定はしなかった。

 リゼルは穏やかに目を細めていた。

 アシュだけが、まだ厳しい顔をしている。

 だが、その厳しさの奥に、わずかな納得が混じった。

「……なら、条件を増やせ」

「条件?」

「ノクスの出力制限は、ユイ本人だけで解除できないようにする。最低でも二重承認。できれば三重承認だ。戦場で暴走した場合、外部から遮断できる緊急停止系も必要だ」

 ユイはすぐに頷いた。

「はい。それでお願いします」

 リクトが端末に入力を始める。

「三重承認なら、操縦者認証、解析班承認、艦橋承認の三段階が現実的ですね。緊急停止系は、ノクス・リリス側の旧制御系と、レクイエム外殻側の出力遮断を別々に組み込む必要があります」

 リゼルも続ける。

「術式層にも安全弁を設けましょう。切断術式が本人反応に近づいた場合、自動的に出力を落とす防護境界を置きます。ただし、完全な防壁ではありません。あくまで警告と減衰です」

「十分です」

 ユイは答えた。

「完全に安全になんて、できないと思います。でも、危ないと分かったまま何もしないよりは、危ない場所を一つずつ見えるようにしたいです」

 リクトが頷く。

「では、今日の試験は出力制限の確認までにしましょう。実機による切断術式の発動は行いません。まずは、ノクスがどの段階で“線”を認識するか、その手前で止めます」

「つまり、刃を抜かずに、鞘の中でどこまで反応するかを見るわけですね」

 ミオの言葉に、リゼルが頷いた。

「近いです。抜けば切れてしまう刃なら、抜く前に止める技術が必要です」

 アシュはノクス・レクイエムを見上げた。

「……それでも、私は警戒を解かない」

「はい」

 ユイは静かに答えた。

「アシュさんには、警戒していてほしいです」

 アシュがわずかに目を見開く。

「私がノクスを怖いと思えなくなったら、その時は危ないと思うので」

 その言葉に、アシュはしばらく黙っていた。

 やがて、短く息を吐く。

「……分かった。なら、私は止める側に回る」

「お願いします」

 ユイは深く頷いた。

 その時、整備区画の照明が一段階落ちた。

 試験用の警告灯が淡く点灯する。

『ノクス・レクイエム、制御層調整試験を開始します』

 艦内アナウンスが流れる。

『第一段階。出力制限確認。切断術式、発動禁止。制御層反応のみ観測』

 ノクス・レクイエムの機体各部に、細い光が走った。

 黒い装甲の奥で、紫紺の反応がゆっくりと脈打つ。

 それは刃の光ではなかった。

 まだ何も切っていない。

 けれど、そこにいる全員が理解していた。

 この力は、使い方を誤れば壊す。

 命令も、機体も、心も。

 だからこそ、向き合わなければならない。

 ユイは操縦席へ向かう前に、もう一度だけノクスを見上げた。

「……切るなら、救うために」

 小さな声だった。

 だが、その言葉は、確かに整備区画に残った。

 そして、ノクス・レクイエムの出力制限試験が始まった。

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