第262話 似ている声
アミィが「ナユ」と「リン」の名を口にした翌日、カナデは接触記録を何度も確認していた。
エデンの術式室で行われた短時間会話。
アミィは、レータとユイに対して短い普通会話を成立させた。
怖い。
少し大丈夫。
ここは命令じゃない。
生きてるだけでいいのか。
それらは、命令層への反射ではなく、アミィ本人の自己応答として記録されていた。
そして最後に、彼女は言った。
ナユ。
リン。
その名は、偶然ではなかった。
イリスが記録を表示する。
「帝国側時代の反応ログに、ナユさんとリンさんへの微弱反応が残っています。直接会話した記録ではありませんが、セレスティア支援波、または帝国側の観測系を通して、二人の反応を拾っていた可能性があります」
リクトが腕を組む。
「声というより、反応の残響か」
「はい。アミィ本人が明確に記憶しているというより、どこかで触れた反応を、今の安定状態で言葉にできたのだと思います」
レータは不安そうに聞いた。
「会わせるの?」
カナデは少し考えてから答える。
「検討はします」
「まだ早くない?」
レータの声には、隠せない心配があった。
「アミィが混乱しない? やっと話せるようになったばかりなのに」
カナデは否定しなかった。
「その心配は正しいです。いきなり大人数と接触させるのは危険です。長時間の会話も避けるべきです」
「なら――」
「ですが」
カナデは、静かに続けた。
「レータさんだけが支えになる状態が長く続くと、アミィの世界が狭くなります」
レータは言葉を止めた。
「……私だけじゃ駄目?」
「駄目ではありません。レータさんは、今のアミィにとって非常に大切な安定要素です」
カナデは丁寧に言った。
「でも、アミィがこれから自分の世界を広げていくなら、レータさんとユイさん以外にも、安心して話せる相手を少しずつ増やす必要があります」
ユイも静かに頷く。
「ナユとリンは、帝国から離れた後もここにいる存在です。アミィにとって、意味があるかもしれません」
レータは黙った。
分かっている。
アミィを自分のそばだけに閉じ込めるわけにはいかない。
けれど、怖い。
誰かと会わせて、またアミィが揺れたら。
混乱して、命令層残滓が戻ったら。
その不安を、カナデは見抜いていた。
「短時間にします。ナユさんとリンさんだけ。会話は、こちらで制限します。レータさんとユイさんも同席してください」
レータは深く息を吐く。
「……分かった」
少し間を置き、言い足した。
「でも、アミィが怖がったらすぐ止める」
「もちろんです」
ナユとリンが呼ばれたのは、その日の午後だった。
場所は、エデンの術式室ではなく、ルクス内の静穏区画に近い小会話室。
術式室ほど特殊ではないが、光と音は抑えられ、アミィ本人反応に合わせて環境が調整されている。
カナデ、イリス、レータ、ユイが同席する。
ナユとリンは、少し離れた席に座った。
ナユは静かだった。
いつものように、どこか夢の残りを見ているような目で、アミィの保護カプセルを見つめている。
リンは、少し居心地悪そうだった。
腕を組みたいのを我慢しているような姿勢で、距離を取りすぎないように気をつけている。
レータが小声で言う。
「リン、そんなに固まらなくてもいいわよ」
リンは小さく返した。
「分かってる」
「分かってる顔じゃないけど」
「こういうのは得意じゃない」
ナユが静かに言った。
「大丈夫。たぶん、アミィも得意じゃない」
リンは一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「……それもそうか」
カナデが全員へ確認する。
「会話は短く。相手の言葉を待ってください。説明しすぎないこと。命令形は避けます」
リンが頷く。
「命令形を避ける、か。了解」
ナユも静かに頷いた。
「うん」
アミィ本人反応が、ゆっくり浮上する。
レータが最初に声をかけた。
「アミィ」
『レー……タ……』
「ここにいる」
『ここ……』
「うん」
ユイも続ける。
「ユイもいます」
『ユイ……いる……』
アミィの反応が安定する。
それから、ゆっくりと別の方向へ向いた。
『……ナユ……?』
ナユは驚かなかった。
ただ、静かに答えた。
「うん。ナユ」
アミィの反応が、少しだけ揺れた。
『しずか……』
ナユは少し目を伏せる。
「そうかも」
『ナユ……覚えてない……?』
レータが少し身構えた。
だが、ナユは穏やかだった。
「うん。全部は覚えてない」
アミィの反応が揺れる。
『全部……ない……こわい?』
「少し怖い」
ナユは正直に答えた。
「でも、今ここにいることは分かる」
『今……ここ……』
「うん。分からないことがあっても、ここにいていい」
アミィは沈黙した。
その言葉を、ゆっくり受け止めているようだった。
『分からない……でも、いい?』
ナユは頷く。
「いいよ」
『覚えてない……でも、いる……?』
「いる」
ナユの声は静かだった。
強く励ますわけではない。
大丈夫だと押しつけるわけでもない。
ただ、同じ場所に立っているような声だった。
イリスが小さく報告する。
「本人反応、安定しています。ナユさんへの反応に恐怖上昇はありません」
カナデが頷く。
「良い反応です」
アミィの反応は、次にリンへ向いた。
『リン……』
リンは少しだけ姿勢を正した。
「リンだ」
アミィはしばらく黙った。
『命令……ない?』
リンは一瞬だけ考えた。
「今はない」
アミィの反応が小さく揺れる。
『今は……ない……』
「うん。今はない」
『命令ない……でも、動く?』
リンは少し困ったように眉を動かした。
その問いは、単純なようで難しかった。
命令がないのに動く。
誰かに言われていないのに、何かをする。
アミィにとって、それはまだ不思議なのだろう。
リンは、不器用に言葉を探した。
「命令じゃなくても、自分で決めて動くことはある」
アミィの反応が、ゆっくり揺れる。
『自分で……決める……』
「そう」
『戦う……?』
リンは少しだけ目を細めた。
「戦うこともある。でも、戦わないこともある」
『戦わない……決める……?』
「決める」
リンは、少し間を置いて続けた。
「嫌なら、嫌って言っていい。……たぶん」
その最後の言葉に、レータが思わず小さく笑いそうになった。
アミィの反応も、少し不思議そうに揺れる。
『たぶん……?』
リンは少し気まずそうに視線を逸らした。
「いや、言っていい。たぶんじゃない。言っていい」
ナユが横から静かに言う。
「リンも慣れてない」
「余計なこと言うな」
ナユは少しだけ笑った。
その空気に、アミィの反応が柔らかく揺れた。
『リン……慣れてない……』
リンは苦い顔をする。
「慣れてない」
『アミィも……慣れてない』
「だろうな」
『一緒……?』
リンは一瞬言葉に詰まった。
それから、短く答えた。
「少しな」
アミィの反応が、穏やかに落ち着いた。
『少し……大丈夫』
レータは、そのやり取りを見ていた。
ナユの静けさ。
リンの不器用さ。
どちらも、アミィにとっては新しい声だった。
自分やユイとは違う。
けれど、命令ではない声。
アミィは、それを受け止めている。
会話は、予定より短めに終えることになった。
アミィ本人反応は安定している。
だが、新しい相手との接触は、やはり負荷がある。
カナデが合図した。
「今日はここまでにしましょう」
レータは頷き、アミィへ声をかける。
「アミィ。休んでもいい」
アミィは少し黙った。
『休む……選ぶ……』
「うん」
『ナユ……リン……また話す?』
ナユは静かに答えた。
「話せるよ。アミィが話したい時に」
リンも少し遅れて言う。
「短くならな」
レータがリンを見る。
「そこはもう少し優しく」
リンは少し考え、言い直した。
「……無理しない範囲で」
アミィの反応が、また少し柔らかくなった。
『無理……しない……』
ユイが頷く。
「はい。無理しない範囲で、また話せます」
『また……話す……選ぶ……』
「はい」
アミィの反応は、ゆっくりと保護状態へ戻っていった。
接触終了後、カナデは記録を確認していた。
「ナユさん、リンさんとの短時間接触。本人反応、安定。命令層残滓の上昇なし。新規接触対象への恐怖反応は軽度」
イリスも頷く。
「アミィ本人反応は、レータさんとユイさん以外にも自己応答を維持できています。特に、『分からないでもいい』『命令がなくても動く』という言葉に反応がありました」
レータは胸を撫で下ろした。
「思ったより、話せたわね」
カナデが微笑む。
「はい。とても良い結果です」
「でも、ちょっと怖かった」
「レータさんが?」
「私が」
レータは正直に言った。
「アミィが混乱したらどうしようって思ってた。でも、ナユとリンがいても、ちゃんと話せた」
ナユが静かに言う。
「アミィは、少しずつ広がってる」
リンも腕を組みかけて、途中でやめた。
「まあ、あれならまた話せるだろ」
カナデは頷く。
「アミィの接触対象を、少しずつ広げられると判断します。ただし、次も短時間。多人数接触はまだ避けます」
レータはアミィの眠る方向を見た。
「ナユ、リン。ありがとう」
ナユは小さく頷いた。
「うん」
リンは少し気まずそうに言う。
「礼を言われるほどのことはしてない」
レータは笑った。
「そういうところ、アミィには分かりやすかったかもね」
「どういう意味だ」
「不器用なところ」
リンは少しだけ眉を寄せた。
その様子に、ナユがまた小さく笑った。
静穏区画で、アミィは眠っている。
その眠りの中に、今日の声が残っている。
ナユ。
全部覚えていなくても、今ここにいる声。
リン。
命令がなくても、自分で動く声。
レータ。
隣にいてくれる声。
ユイ。
命令ではなく返事でいいと教えてくれる声。
アミィの世界は、ほんの少しだけ広がった。
命令の中に閉じ込められていた世界ではなく。
誰かの声を聞き、自分で返事をしてもいい世界へ。
その第一歩として、アミィは眠る前に、小さく呟いた。
『また……話す……』
それは命令ではなかった。
アミィ自身の、次の約束だった。




