第254話 ヴェルデの小さな散歩
アミィが自分から「休む」と言った翌日、カナデは新しい接触計画を提示した。
場所は、ルクス・ヴァルキュリアの外部観測デッキではない。
完全な外出でもない。
ルクスの近くへ降ろした小型観測艇。
外気には直接触れない。
船内環境は静穏区画と同じように調整され、照明、音、振動、通信はすべて抑えられている。
それでも、艦内の展望区画よりはヴェルデの自然に近い。
窓の向こうに、森がある。
水辺がある。
風で揺れる葉がある。
それを見るだけの、小さな散歩だった。
カナデは出発前に、参加者へ確認した。
「今回の同行は、レータさん、ユイさん、イリスさん、私だけです」
レータが頷く。
「アース・フォージ組はまだ帰還していないの?」
「はい。人数を増やすと刺激が多くなります。カイトさん達は現在フォージに滞在中ですので、後で記録を共有します」
ユイが確認する。
「接触時間は」
「最大十五分。ただし、アミィ本人反応が乱れた場合は即時中止。五分で終わる可能性もあります」
レータは少しだけ苦笑した。
「短いわね」
「短いです」
カナデは、はっきり答えた。
「でも、今のアミィにとっては十分長い時間です」
イリスは端末を持ち、本人反応監視の準備をしている。
「アミィ本人反応は安定しています。セレスティア保護支援系も低負荷です」
ミオはルクス側から支援網を薄く張る役目だった。
同行はしない。
だが、観測艇とアミィの保護カプセルを、柔らかく包むように支える。
『支援網は最低限にします。外から守りすぎると、逆にアミィさんが外を感じにくくなるかもしれません』
カナデが頷く。
「それでお願いします。今日は、守ることより、刺激を小さく受け止めることが大切です」
レータは、保護カプセルの中で眠るアミィを見た。
たった十五分。
窓から外を見るだけ。
でも、アミィにとっては初めてのことだ。
「アミィ。今日は少しだけ、外に近いところへ行くわ」
淡い白金色の光が揺れた。
『そと……?』
「うん。でも、外には出ない。見るだけ」
『見る……だけ……』
「そう。怖かったら戻っていい」
アミィは、それ以上は答えなかった。
けれど本人反応は大きく乱れない。
カナデが静かに言った。
「行きましょう」
観測艇は、ヴェルデの低空観測域へゆっくり降りた。
安全確保済みの区域。
ルクス本隊の監視圏内。
周囲に敵性反応はない。
それでも、レータは少し緊張していた。
小型艇の窓の外に、緑が近づいてくる。
枝葉が揺れ、水面が光り、雲の影が地表をゆっくり流れている。
艦の展望区画から見た景色より、ずっと近い。
カナデが声を落とす。
「遮光を少し開けます」
窓の遮光パネルが、ゆっくりと上がった。
その瞬間、アミィ本人反応が小さく揺れた。
イリスが端末を確認する。
「本人反応、浮上。命令層残滓の上昇はありません」
レータが保護カプセルのそばに立つ。
「アミィ」
『レー……タ……』
「ここにいる」
『ここ……』
「うん。ここ」
アミィの反応が、窓の外へ向いた。
しばらく、声はなかった。
ただ、見ている。
葉が揺れている。
水面がきらめいている。
遠くの草地に、小さな影が動いている。
アミィが、かすかに言った。
『近い……』
ユイが答える。
「はい。前より近いです」
『そと……?』
「外に近い場所です。でも、船の中にいます」
『船……中……』
「はい」
カナデはそれ以上の説明を入れなかった。
今は、理解させる時間ではない。
慣れる時間だ。
その時、小型艇の外部収音器が、風の音を拾った。
ヴェルデの風。
葉を揺らし、草を撫で、水面を震わせる音。
音量は極めて小さく調整されていた。
それでも、艦内の展望区画で聞いたものより近かった。
アミィの反応が、びくりと揺れる。
『……っ』
イリスがすぐに報告する。
「本人反応、揺れ。命令層残滓は上昇していません。ただ、驚いています」
レータはすぐに言った。
「怖くていい」
アミィの反応が、レータの声へ向く。
「戻りたくなったら戻っていい」
『戻る……?』
「うん。ここから戻れる」
『戻る……選ぶ……?』
その言葉に、レータは一瞬だけ目を見開いた。
選ぶ。
昨日、覚えた言葉。
ユイが静かに答える。
「はい。選べます」
『選べる……』
「見続けてもいい。戻ってもいい。どちらでも大丈夫です」
アミィは、しばらく黙った。
風の音は続いている。
葉は揺れている。
水面は光っている。
アミィは戻るとは言わなかった。
イリスが小さく息を吐く。
「本人反応、少し落ち着いています」
カナデが頷いた。
「良い反応です。怖いと感じても、すぐに閉じていません」
レータはカプセルのそばで、静かに言う。
「大丈夫。見るだけでいい」
『見る……だけ……』
「うん」
小型艇は、ゆっくりと水辺の近くを移動した。
高度は低い。
だが、決して急な動きはしない。
窓の向こうでは、草が風に揺れている。
その時、小さな生き物が茂みの間から出てきた。
ヴェルデの小動物。
茶色い体を低くして、水辺へ近づいている。
それはすぐにこちらへ気づき、耳のような器官を動かしてから、また草の奥へ戻っていった。
アミィの反応が、はっきりとそちらへ向いた。
『動いた……』
レータが答える。
「うん。動いた」
『敵……?』
「違う」
『命令……?』
「違う」
レータは少し考えてから、短く言った。
「生きてるだけ」
アミィの反応が、ゆっくり揺れた。
『生きてる……だけ……』
「うん」
『命令じゃ……ない……?』
「命令じゃない」
ユイも続ける。
「動きたいから動いています」
『動きたい……』
「はい。命令ではなく、自分で動いています」
アミィはその言葉を繰り返さなかった。
ただ、草の奥を見ていた。
さっきの小動物はもう見えない。
でも、葉はまだ揺れている。
水面には波が広がっている。
アミィが、小さく言った。
『葉……動いてる……』
レータは頷く。
「風で揺れてる」
『風……命令……?』
「違う。ただ吹いてるだけ」
『ただ……』
「うん。ただ」
カナデは、その反応を記録していた。
「命令確認が続いていますが、前回よりも観察が増えています」
イリスが端末を見る。
「はい。『敵』『命令』の確認後に、反応がすぐ落ち着いています。恐怖反応も短いです」
ミオの通信が入る。
『セレスティア保護支援系の負荷も下がっています。以前なら外部刺激に対して包み込む反応が強く出ていましたが、今は薄いです』
カナデが頷いた。
「アミィが、自分で見て、確認して、怖くても閉じないでいる。これは大きいです」
レータは、それを聞いて少しだけ胸を撫で下ろした。
大きな進歩に見えないかもしれない。
ただ外を見ているだけ。
ただ風に驚いただけ。
ただ小動物を見ただけ。
でも、アミィにとっては違う。
命令ではないものを、怖くても見続けている。
時間は、予定より少し早く終わることになった。
アミィ本人反応に大きな乱れはない。
だが、疲労の兆候が出始めていた。
カナデが言う。
「ここまでにしましょう」
レータは頷いた。
「アミィ。戻る?」
言ってから、少しだけ言葉を直す。
「戻ってもいい」
アミィは、窓の外を見ていた。
風が葉を揺らしている。
水面が光っている。
遠くで雲が流れている。
『戻る……』
少し間が空く。
『選ぶ……』
ユイが頷く。
「はい。選べます」
アミィの反応が、少しだけ窓の外へ残る。
『風……』
レータは待った。
『こわい……』
「うん。怖くていい」
アミィは、さらに小さく言った。
『でも……見る……』
レータの息が止まりかけた。
怖い。
でも、見る。
それは、ただ怖くないと言うよりもずっと大きな一歩だった。
怖さを消さずに、そこにいながら、自分で見ることを選んだ。
イリスが静かに報告する。
「本人反応、安定しています。自己応答として『見る』を確認」
カナデの声も、少しだけ柔らかくなった。
「今日はここまでです。とても良い反応でした」
レータは、ゆっくり頷いた。
「うん」
アミィに向けて、短く言う。
「また見よう」
『また……』
「うん。命令じゃない。また見たくなったら」
『見たく……なったら……』
ユイが補足する。
「その時に、選べばいいです」
『選ぶ……』
アミィの反応は、ゆっくりと保護状態へ戻っていった。
小型艇は静かに上昇し、ルクス・ヴァルキュリアへ戻る進路を取る。
窓の外で、ヴェルデの風が緑を揺らしていた。
アミィはその風を、怖いものとして見た。
けれど、命令ではないものとしても見た。
そして、自分で言った。
怖い。
でも、見る。
それが、ヴェルデでの小さな散歩の終わりだった。




