第253話 命令じゃない一日
アミィの覚醒時間は、少しずつ長くなっていた。
長い会話はまだできない。
言葉も断片的で、すぐに疲れてしまう。
それでも、ヴェルデに到着してからの本人反応は、外縁防衛線にいた頃よりも明らかに落ち着いていた。
命令層残滓は弱い。
セレスティア残留反応も、保護側で薄く安定している。
ヴェルデの静かな環境は、アミィにとって負荷が少ないようだった。
カナデは、その日の接触内容を確認していた。
「今日は、日常物への反応を見ます」
レータが少し眉を寄せる。
「日常物?」
「はい。毛布、飲み物、椅子、窓、休憩。そういう普通のものです」
ユイが静かに頷いた。
「アミィにとっては、普通ではないものですね」
「そうです」
カナデは端末に表示された予定を見せる。
「アミィは、何かを渡された時や何かを促された時、それを命令として受け取る傾向があります。だから今日は、一つずつ確認します。使ってもいい。使わなくてもいい。選んでいい。それを覚える時間です」
レータは少し緊張したように息を吸った。
「また、言いすぎないようにするのね」
「はい」
「分かってる。……つもり」
カナデは穏やかに微笑んだ。
「つもりで十分です。こちらで止めますから」
「止められる前提なのね」
「レータさんは、たぶん止める必要が出ます」
レータは否定しようとして、少し考え、やめた。
「……まあ、出るでしょうね」
ユイが小さく言う。
「私も気をつけます」
「ユイさんは、説明が長くなりすぎないようにですね」
「はい」
ユイは真面目に頷いた。
レータが少し笑う。
「私とユイで、止められる理由が違うのね」
「はい。レータさんは近づきすぎ、ユイさんは説明しすぎです」
「言い方」
そのやり取りに、ミオが少しだけ笑った。
イリスは本人反応の監視準備を整えながら言う。
「アミィ本人反応、安定しています。短時間接触なら可能です」
カナデは頷いた。
「では、始めましょう」
静穏区画には、小さな机と椅子が用意されていた。
強い色や光は避け、柔らかな布、温度を調整した飲み物、薄い毛布だけが置かれている。
窓の外には、ヴェルデの緑が見えた。
アミィの保護カプセルは、机から少し離れた位置に固定されている。
近すぎず、遠すぎず。
必要ならすぐ保護状態へ戻せる距離だった。
アミィ本人反応が、ゆっくり浮上する。
『……レー……タ……』
レータはすぐに答えた。
「ここにいる」
『ユイ……』
ユイも静かに応じる。
「はい。ここにいます」
『ここ……』
「うん。ここ」
レータは、いつもの短い返事を返した。
カナデが目で合図する。
最初に用意されたのは、薄い毛布だった。
レータは毛布を持ち上げ、アミィに見える位置で止めた。
「アミィ。これは毛布」
『もうふ……』
「寒い時に使うもの」
アミィの反応が小さく揺れる。
『使う……命令……?』
レータはすぐに言いかけた。
違うわよ、寒くなくても大丈夫、怖くないから、私が――
そこまで言いそうになって、カナデの視線に気づく。
短く。
受け止められる量だけ。
レータは言葉を選び直した。
「違う。命令じゃない」
ユイが続ける。
「使ってもいい。使わなくてもいいです」
アミィは、しばらく黙った。
『使わない……いい……?』
レータは頷いた。
「いい」
『使う……いい……?』
「いい」
『どっち……?』
ユイが静かに言った。
「アミィが選べます」
アミィの反応が、かすかに揺れる。
『選ぶ……』
「はい。選ぶ、です」
レータは毛布を少しだけ近くへ置いた。
「今は、見るだけでもいい」
『見るだけ……いい……』
「うん」
アミィは毛布を使わなかった。
ただ、見ていた。
それで十分だった。
イリスが小さく報告する。
「本人反応、安定しています。命令層残滓の上昇なし」
カナデが頷く。
「良い反応です」
次に用意されたのは、温かい飲み物だった。
もちろん、アミィが実際に飲むわけではない。
今は香りや湯気、温かいものという存在を見せるだけだ。
カップから、薄い湯気が上がる。
アミィの反応が、少しだけ窓ではなく机の方へ向いた。
『……なに……?』
レータが答える。
「飲み物」
『のみ……もの……』
「飲むもの」
アミィは少し沈黙し、それから小さく聞いた。
『飲む……命令……?』
「違う」
レータはすぐ答えた。
「飲んでもいい。飲まなくてもいい」
ユイが補足する。
「今は見ているだけです。香りを感じてもいい。感じなくてもいいです」
アミィはその言葉を追うように反応を揺らした。
『感じる……いい……?』
「はい」
『感じない……いい……?』
「はい」
『どっち……いい……?』
レータは胸が少し痛んだ。
アミィはまだ、自分で決めることに慣れていない。
どちらかを選ぶたびに、それが正しい命令なのか確認しているようだった。
カナデが静かに言う。
「アミィ。正解を探さなくて大丈夫です」
『せいかい……?』
「はい。どちらでも大丈夫、ということです」
アミィの反応が、小さく揺れる。
『どちらでも……』
ユイがゆっくり言った。
「それが、選ぶことです」
『選ぶ……』
アミィは、その言葉を何度も確かめるように沈黙した。
やがて、小さく呟く。
『見る……』
レータは微笑んだ。
「うん。見るだけ」
イリスが報告する。
「本人反応、安定。『選ぶ』という語に反応あり」
ミオが支援網を薄く保ちながら言う。
「セレスティア保護支援系も落ち着いています。選択に対して拘束側へ寄っていません」
カナデは記録する。
「良いですね。選択肢を与えても、命令層残滓が強く反応していません」
椅子を見せた時、アミィは少し違う反応をした。
『すわる……?』
レータは答える。
「そう。座るもの」
『座る……命令……?』
「違う」
『座らない……?』
「それもいい」
アミィはしばらく黙る。
『立つ……?』
「それもいい」
『ねむる……?』
「それもいい」
レータは、答えながら少しずつ早口になりかけた。
「無理に座らなくていいし、疲れたら休んでいいし、私が――」
「レータさん」
カナデが優しく止めた。
レータははっとする。
「……ごめん」
「大丈夫です。今は、言葉を減らしましょう」
レータは頷いた。
アミィの反応が、少しだけ揺れていた。
ユイが静かに言う。
「アミィ。たくさん言葉が来ると、少し疲れますね」
『つかれる……』
「はい。疲れたら、休んでも大丈夫です」
『休む……いい……?』
「いいです」
レータも、今度は短く言った。
「休んでいい」
アミィの反応が落ち着いていく。
レータは小さく息を吐いた。
過保護になりかける。
分かっているのに、すぐ言葉が増える。
アミィを安心させたい。
怖くないと伝えたい。
選んでいいと分からせたい。
でも、その全部を一度に渡すと、アミィには重い。
レータは自分に言い聞かせるように呟いた。
「少しずつ、ね」
カナデが頷いた。
「はい。少しずつです」
短い休憩を挟み、アミィは窓の外を見た。
ヴェルデの雲が流れている。
水面の光が、ゆっくり揺れている。
アミィはそれを見ながら、かすかに言った。
『窓……』
ユイが答える。
「はい。窓です」
『見る……ところ……』
「そうです」
『見る……命令……?』
「いいえ」
ユイは短く答えた。
「見てもいい。見なくてもいい」
『見ない……いい……?』
「はい」
『見る……いい……?』
「はい」
『選ぶ……』
「はい。選べます」
レータは、少し離れてそのやり取りを見ていた。
ユイの声は静かだった。
レータのように感情が前に出すぎない。
けれど、冷たいわけでもない。
ユイは、アミィが受け止められる速度を知っているように見えた。
レータが小さく言う。
「ユイ、上手いわね」
ユイは少し困ったように答える。
「上手いというより、覚えがあるだけです」
「覚え?」
「はい」
ユイは窓の外を見た。
「私も、命令ではない日常を覚えるのに時間がかかりました」
レータは黙る。
「何かを渡された時、何かを許可された時、最初はどう反応すればいいか分かりませんでした。従うのか、拒否するのか、正解を探していました」
「ユイも……」
「はい」
ユイはアミィを見た。
「だから、アミィが『使わないでいいのか』と確認する気持ちは、少し分かります」
レータは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
ユイも、そうだった。
アミィだけではない。
命令から離れた子達は、日常を一つずつ覚えなければならなかった。
レータは静かに言う。
「ごめん。ユイのことも、もっとちゃんと見ておけばよかった」
ユイは首を横に振った。
「今、見ています」
「そういう返し、ずるいわね」
「ずるいでしょうか」
「ずるい」
レータは小さく笑った。
◇
アミィの反応は、少しずつ眠りに向かっていた。
カナデが確認する。
「そろそろ終わりましょう」
レータは頷いた。
「アミィ。今日はここまで」
言ってから、少しだけ慌てる。
「……じゃなくて、休んでも大丈夫」
カナデが微笑む。
「今の言い直しは良かったです」
レータは少し照れたように目を逸らした。
アミィは、小さく反応する。
『ここまで……命令……?』
レータは苦笑しそうになったが、声は優しく保った。
「違う。疲れたら休んでいいってこと」
ユイが続ける。
「続けてもいい。休んでもいい。でも、今日は体が休みたがっています」
『からだ……休み……』
「はい」
アミィは沈黙した。
それから、ゆっくりと言った。
『休む……』
全員が静かにその言葉を受け止めた。
レータの目が少し潤む。
「うん。休んでいい」
『休む……選ぶ……』
イリスが小さく息を呑んだ。
「本人反応、安定しています。『休む』『選ぶ』に自己応答があります」
ミオの声も柔らかくなる。
『セレスティア保護支援系も落ち着いています。拘束側への反応はありません』
カナデは静かに記録した。
「アミィが、自分から休むことを選びました」
アミィの反応は、そのまま穏やかに低下していく。
『レータ……』
「ここにいる」
『ユイ……』
「ここにいます」
『休む……』
「うん」
アミィは眠るように保護状態へ戻った。
静穏区画を出た後、レータは廊下の壁に背を預けた。
「疲れた……」
カナデが穏やかに言う。
「良い疲れだと思います」
「戦闘より疲れるかも」
ユイが頷いた。
「分かります」
レータはユイを見て笑った。
「日常って大変ね」
「はい。ですが、悪くありません」
「そうね」
二人は並んで窓の外を見た。
ヴェルデの緑が、静かに広がっている。
命令ではない一日。
正解を探さなくていい一日。
使ってもいい、使わなくてもいい。
見てもいい、見なくてもいい。
休んでもいい。
アミィはその一つを、自分で選んだ。
休む。
それは、とても小さな言葉だった。
だが、命令ではない日常への大きな一歩だった。




