第252話 ヴェルデの日常
ルクス・ヴァルキュリアは、ヴェルデ近辺の静かな軌道に留まっていた。
戦闘警戒は完全には解除されていない。
帝国本国も、外縁防衛線も、オルフェンも消えたわけではない。
クロウヴェイル・ノアもフォージへ向かったままだ。
それでも、艦内の空気は少しだけ変わっていた。
警報音は減らされ、整備区画の作業音も抑えられている。
アミィの静穏区画周辺では、照明も通信音も最低限に調整された。
乗員には交代休憩が命じられ、負傷者や疲労の大きい者から順に休養へ入っている。
ジンは管制室で、ヴェルデの青と緑が映る表示を見つめていた。
「警戒は維持しろ。ただし、全員を張り詰めさせるな」
三島が頷く。
「了解。外周警戒は最低限維持。艦内は休養体制へ移行します」
黒瀬も端末に記録する。
「ルクス本隊、ヴェルデ方面での一時休養体制を開始。アミィ保護、セレスティア残留反応監視、ノクス・レクイエム封印監視は継続」
その言葉を聞いて、ジンは短く息を吐いた。
「休ませながら監視する、か。器用なことをしているな、俺達は」
「必要な措置です」
黒瀬は淡々と答えた。
「特にアミィさんは、救出後初めて長時間の静穏環境に入っています。ここで無理をさせないことが重要です」
「分かっている」
ジンは画面のヴェルデを見た。
戦場ではない星。
命令ではない時間。
それが今、ルクスに必要だった。
◇
アミィは、静穏区画で眠るような状態にいた。
本人反応は細い。
だが、ノルン・ベイにいた時よりも揺れは少ない。
ヴェルデに到着してから、セレスティア残留反応も保護側で薄く落ち着いていた。
イリスが静かに報告する。
「アミィ本人反応、安定しています。命令層残滓の上昇はありません」
ミオも支援網の状態を見て頷いた。
「セレスティア保護支援系の負荷も低いです。外部刺激が少ない分、守ろうとする反応が弱くなっているように見えます」
カナデはその結果を確認し、レータとユイへ向き直った。
「今日は、短時間だけヴェルデの景色を見せます」
レータの表情が引き締まる。
「外に出すの?」
「いいえ。まだ外へは出しません。まずは展望区画からです。保護カプセルに入ったまま、窓越しに景色を見るだけにします」
「見るだけ」
「はい。見るだけです」
カナデは丁寧に言った。
「これは訓練ではありません。反応を引き出すための試験でもありません。アミィが、戦場でも命令でもないものに慣れる時間です」
レータは少しだけ目を伏せる。
「慣れる時間……」
「はい」
カナデは頷いた。
「何かを理解させようとしすぎないでください。名前を覚えさせる必要も、景色を説明しきる必要もありません。アミィが見て、怖ければ怖いと言い、疲れたら休む。それだけで十分です」
ユイが静かに言う。
「命令ではなく、見てもいい時間ですね」
「その通りです」
カナデは微笑んだ。
レータは深く息を吸った。
「分かった。説明しすぎない。強く呼ばない。アミィが受け止められる分だけ」
「はい」
それはもう何度も確認してきたことだった。
だが、今も必要だった。
レータは、アミィの保護カプセルを見つめる。
命令層の奥から救い出した子。
怖いと言った子。
戻りたくないと言った子。
隣にいていいと言われて、ようやく少し眠れるようになった子。
その子に、今日は風と緑を見せる。
ただ、それだけのことだった。
展望区画の照明は、普段よりも暗く調整されていた。
窓の外には、ヴェルデの地表が広がっている。
遠くに見える森。
水面の光。
ゆっくり流れる雲。
山の稜線。
強い刺激にならないよう、遮光パネルは半分だけ開かれている。
アミィの保護カプセルが、ゆっくりと展望区画へ運ばれてきた。
付き添いは、レータ、ユイ、カナデ、イリス。
ミオは少し離れた区画から支援網を薄く張り、アミィ本人反応とセレスティア保護支援系の変化を見守っている。
カナデが小さく言った。
「始めます。レータさん、最初はいつも通りに」
レータは頷いた。
保護カプセルのそばに立ち、静かに声をかける。
「アミィ」
白金色の薄い光が揺れた。
『……レー……タ……』
「ここにいる」
『ここ……』
「うん。ここにいる」
アミィ本人反応が、展望窓の方へ少し向いた。
『……なに……?』
レータは説明しようとして、言葉を止めた。
森。
雲。
水。
星。
ヴェルデ。
全部を言いたくなる。
けれど、今は違う。
「景色」
『けしき……』
「見るもの」
アミィはしばらく黙っていた。
その反応が、窓の外へゆっくり向かう。
緑の大地。
薄い雲。
水面の反射。
それらは、アミィに命令しない。
何も求めない。
動けとも、撃てとも、答えろとも言わない。
ただ、そこにあるだけだった。
アミィが、かすかに言った。
『みどり……』
イリスが小さく反応を見る。
「本人反応、安定しています」
ミオの声も通信に入る。
『セレスティア保護支援系、拘束側への揺れはありません』
レータは静かに微笑んだ。
「うん。緑」
『くも……?』
ユイが答える。
「はい。雲です」
『みず……ひかる……』
「水面の光です」
アミィは、その言葉を完全に理解しているわけではないかもしれない。
それでも、見ている。
反応している。
命令ではなく、ただ景色に。
その時、展望区画の外部スピーカーが、ごく小さく環境音を拾った。
ヴェルデの風が、艦外観測機を通して柔らかく再生される。
葉の揺れる音。
遠くの水音。
低く、静かな自然音。
アミィの反応が一瞬だけ揺れた。
『……これ……』
レータはすぐに構えかけたが、カナデが視線で止める。
強く反応しすぎない。
アミィが受け止める時間を待つ。
アミィは、かすかに続けた。
『これ……命令……?』
レータの胸が締めつけられた。
風の音さえ、命令かもしれないと確認する。
そのことが痛い。
けれど、レータは感情を押しつけなかった。
ゆっくり、短く答える。
「違う。ただの風」
『かぜ……』
「うん。風」
ユイも静かに言った。
「アミィ。見ているだけで大丈夫です」
『みてる……だけ……』
「はい。何かしなくても大丈夫です」
アミィの反応が小さく揺れる。
『見るだけ……いい……?』
レータは頷いた。
「いい」
『なにもしない……?』
「何もしなくていい」
その言葉を口にした瞬間、レータは自分の声が少し震えたのを感じた。
何もしなくていい。
命令を受けなくていい。
返事を急がなくていい。
支援波を出さなくていい。
誰かの代わりにならなくていい。
ただ、見ているだけでいい。
アミィの反応が、少しずつ落ち着いていく。
『なにもしない……いい……』
「うん」
カナデが静かに補足する。
「アミィ。これは訓練ではありません」
『くんれん……じゃ……ない……』
「はい。慣れる時間です」
『なれる……』
「少しずつで大丈夫です」
アミィは、その言葉を繰り返さなかった。
ただ、窓の外の景色へ反応を向けたままだった。
しばらくの間、誰も急かさなかった。
レータも、ユイも、カナデも、イリスも、必要以上に話さなかった。
アミィは、断片的に言葉をこぼす。
『くも……』
「雲」
『みず……』
「水」
『ひかる……』
「光」
『かぜ……』
「風」
レータは、一つずつ返した。
説明ではなく、返事として。
命令ではなく、確認として。
イリスが小声で報告する。
「本人反応、安定しています。外部視覚刺激への過負荷はありません」
ミオも通信で続ける。
『ヴェルデ環境では、セレスティア保護支援系の反応が薄くなっています。守ろうとする力が、強く出ていません』
カナデが頷く。
「良い傾向です。外が危険ではないと少しずつ認識できれば、保護支援系も過剰に働かなくなるかもしれません」
レータは窓の外を見た。
ヴェルデの緑は、静かに揺れている。
前に来た時、もっと見ておけばよかったと思う。
あの時は、次の目的地、次の問題、次の戦闘ばかり考えていた。
ヴェルデは通過点だった。
でも今は違う。
ここは、アミィが何もしなくていいことを覚える場所になった。
ユイも、同じ景色を見ていた。
「ユイ」
レータが小さく呼ぶ。
「はい」
「休めてる?」
ユイは少しだけ返答に迷った。
「……休む、という行為は難しいですね」
「難しいって何よ」
「何もしないでいると、何かすべきことを探してしまいます」
「それ、完全に休めてない人の発言ね」
ユイは少しだけ目を伏せた。
「ですが、今は少しだけ、見ているだけでいいと思えます」
レータは笑った。
「なら、アミィと一緒に練習ね」
「はい」
ユイは素直に頷いた。
「見ているだけ、の練習です」
そのやり取りを聞いていたカナデが、少しだけ微笑む。
「ユイさんにも必要な時間ですね」
「そうかもしれません」
ユイは否定しなかった。
アミィの反応は、ゆっくりと眠る方向へ下がり始めた。
カナデが確認する。
「今日はここまでにしましょう」
レータは頷いた。
「アミィ。休んでも大丈夫」
『やすむ……』
「うん」
『けしき……』
「また見られる」
アミィの反応が小さく揺れた。
『また……?』
「うん。また」
ユイが静かに言う。
「命令ではありません。見たい時に、少しずつです」
『みたい……とき……』
「はい」
アミィは、しばらく沈黙した。
そして、小さく呟いた。
『しずか……』
レータは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「うん。静か」
『しずか……いい……』
「いい」
アミィの本人反応は、穏やかに低下していった。
眠るように、静かに。
イリスが報告する。
「本人反応、安定したまま保護状態へ移行。命令層残滓の上昇なし」
ミオも続ける。
『セレスティア保護支援系も安定しています。ヴェルデ環境は、アミィに合っていると思います』
カナデは記録を残しながら頷いた。
「初回の日常接触としては、とても良い結果です」
レータは、眠るアミィの保護カプセルにそっと目を向けた。
「何もしなくていい場所、か」
ユイが隣で言う。
「はい」
「私達にも、必要だったのかもね」
「そうですね」
展望窓の外で、ヴェルデの雲がゆっくり流れていた。
戦場ではない。
命令でもない。
整備でも、作戦でも、追撃でもない。
ただ、風が吹いている。
アミィはその風を、初めて「命令ではないもの」として聞いた。
それが、ヴェルデでの日常の始まりだった。




