第250話 ヴェルデの風
転移光が収まった時、ルクス・ヴァルキュリアの前方には緑の星が広がっていた。
アース・ヴェルデ。
かつて訪れた、静かな地球。
深い森と広い水面を持ち、戦闘よりも休息の気配が濃い世界。
ノルン・ベイの古い金属壁。
外縁防衛線の白灰の光。
セレスティアの白金色の檻。
それらとはまるで違う、柔らかな緑が画面いっぱいに映っている。
管制室で、三島が報告した。
「ヴェルデ方面への転移完了。座標誤差、許容範囲内。周辺に帝国反応なし」
ジンは小さく息を吐いた。
「追撃は」
「現時点では確認されません。転移痕も安定しています」
黒瀬が端末を確認する。
「ルクス本隊、ヴェルデ近辺への転移成功。アミィ保護状態、確認中」
カナデの声がすぐに入る。
『アミィ本人反応、安定しています』
管制室に、短い安堵が広がった。
イリスも続ける。
『命令層残滓の上昇なし。セレスティア残留反応は保護側で安定。転移時の揺れはありましたが、大きな乱れはありません』
ミオの声は、少し疲れていた。
『支援網も安定しています。静穏区画への負荷は、ノルン・ベイ離脱時より低いです』
ジンは椅子に深く座り直した。
「よし。戦闘警戒を一段下げる。ただし、完全解除はしない。ここは休む場所だが、安全地帯ではない」
「了解」
正面表示のヴェルデは、静かに回っている。
外縁防衛線から離れた。
帝国追撃部隊も今は届かない。
クロウヴェイル・ノアはフォージへ向かった。
ルクス本隊は、ようやくアミィを休ませる場所へ来た。
◇
ヴェルデの大気圏上層へは、慎重に降下した。
完全な着陸ではない。
ルクス・ヴァルキュリアは、大気圏高層に近い安全軌道へ入り、地表近くの静かな観測エリアへ小型艇を降ろす準備を進めた。
アミィをいきなり外へ出すわけにはいかない。
まずは、艦内の展望区画から景色を見せる。
それだけでも十分だった。
カナデは、アミィの保護ポッドを移動用の静穏カプセルへ切り替える手順を確認していた。
「外部刺激は最小限に。照明は落としたまま。音声はレータさんとユイさんだけで始めます」
イリスが頷く。
「本人反応、安定しています。外部視覚情報への反応を少しずつ確認します」
ミオは支援網を薄く展開する。
「強く包みません。外からの刺激を和らげるだけにします」
レータは、少し離れた場所で深呼吸していた。
戦場ではない。
命令層の奥でもない。
帝国施設でもない。
アミィに初めて、静かな景色を見せる。
それだけのことなのに、胸が妙に落ち着かない。
ユイが隣に来た。
「緊張していますか」
「してる」
レータは正直に答えた。
「戦闘より緊張するかもしれない」
「分かります」
「ユイも?」
「はい。アミィがどう感じるか、まだ分かりませんから」
レータは少しだけ笑った。
「怖がったら?」
「怖くていい、と返せばいいと思います」
「そうね」
その言葉は、もう何度も繰り返してきた。
けれど、そのたびに必要だった。
怖さを消すのではなく、怖くてもいいと認める。
命令ではなく、返事でいいと伝える。
その積み重ねが、アミィの最初の回復だった。
展望区画の遮光パネルが、ゆっくりと開いた。
強い光は入れない。
視界の端から少しずつ、ヴェルデの景色を見せる。
広い緑。
水面の光。
雲の流れ。
遠くに見える山影。
保護カプセルの中で、アミィ本人反応が小さく揺れた。
イリスが低い声で報告する。
「本人反応、浮上します。命令層残滓の反応なし」
カナデが頷く。
「レータさん、短く」
レータはカプセルのそばに立った。
「アミィ」
淡い白金色の光が揺れる。
『レー……タ……』
「ここにいる」
『ここ……』
「うん。ここ」
アミィの反応が、展望窓の方へ向く。
『……なに……?』
レータは一瞬迷った。
説明したいことは山ほどある。
星。
空。
森。
水。
ヴェルデ。
でも、今は全部言わなくていい。
「景色」
『けしき……』
「見るだけでいい」
アミィの反応が、少しだけ揺れた。
『みる……だけ……?』
「うん。見てるだけでいい」
ユイも隣から静かに言った。
「アミィ。命令ではありません。見てもいいし、見なくてもいいです」
『みなくても……いい……?』
「はい」
アミィは、その言葉を確かめるように沈黙した。
見てもいい。
見なくてもいい。
命令層にはなかった選択肢。
しばらくして、アミィの声が小さく聞こえた。
『しずか……』
レータは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「うん。静か」
『こわく……ない……?』
レータは、すぐに否定しなかった。
「怖くていい」
アミィの反応が小さく震える。
「でも、見てるだけでいい。近づかなくてもいい。何もしなくていい」
『なにもしない……』
「うん」
『いい……?』
「いい」
その言葉を言った瞬間、レータの方が泣きそうになった。
何もしなくていい。
それは、アミィにとって初めての言葉かもしれない。
命令を受けるでもなく、支援波を広げるでもなく、戦場に立つでもなく、ただそこにいていい。
アミィの本人反応が、ゆっくりと落ち着いていく。
イリスが静かに報告した。
「本人反応、安定。セレスティア残留反応、保護側で穏やかに低下しています」
ミオも小さく頷く。
「この環境なら、保護支援系の負荷がさらに下がっています。外から守ろうとする必要が少ないのかもしれません」
カナデは、窓の外の緑を見た。
「良い反応です。今日は、この景色を少し見るだけで十分です」
アミィは、かすかに呟いた。
『しずか……』
レータはそっと答えた。
「うん。静か」
『レータ……となり……?』
「いるわよ。隣」
『ユイ……?』
ユイが答える。
「ここにいます」
『ここ……いる……』
「はい」
アミィは、それ以上話さなかった。
ただ、反応は落ち着いていた。
命令層の奥ではなく。
戦場でもなく。
白金色の檻の中でもなく。
ヴェルデの緑を、見ているだけだった。
その後、アミィは再び眠るように保護状態へ戻った。
カナデは回復計画を更新する。
「ヴェルデ環境への反応は良好です。今後は、短時間の景色提示、音刺激の段階的確認、少人数接触を進めます」
イリスが記録する。
「アミィ本人反応は、視覚刺激に対して過負荷を起こしていません。『しずか』『こわくない?』『見るだけ』に反応あり」
ミオも続ける。
「セレスティア保護支援系は、静穏環境下で負荷低下。再定義試験にも良い影響が出そうです」
黒瀬が端末に記録した。
「PT-A01アミィ、ヴェルデ環境下での初回反応。安定傾向。接触制限は継続」
レータは展望窓の外を見ていた。
ヴェルデの緑は、静かだった。
前に来た時は、ゆっくり見る余裕がなかった。
次の目的地、次の問題、次の戦い。
いつも進行に追われていた。
今も状況が落ち着いたわけではない。
クロウヴェイル・ノアはフォージへ行った。
帝国本国も、オルフェンも、外縁防衛線も残っている。
それでも、今だけは少し立ち止まれる。
レータは小さく言った。
「前に来た時、もっと休めばよかったわね」
ユイが隣で頷く。
「はい」
「ユイも、少し休みなさいよ」
「私は大丈夫です」
「それ、休まない人の言い方」
ユイは少しだけ黙った。
「……では、少し休みます」
「よろしい」
レータは小さく笑った。
ユイも、窓の外を見る。
緑の星。
戦場ではない場所。
命令ではない時間。
ユイにとっても、それは必要なものだった。
ルクス本隊では、休養と警戒が同時に始まった。
ジンは警戒態勢を最低限に落とし、乗員に交代休憩を命じた。
黒瀬はアミィ保護規定をヴェルデ環境用に更新した。
カナデは回復計画を細分化し、イリスとミオは本人反応とセレスティア保護支援系の変化を追った。
リクトはヴァルクレイド・セレス用の再定義試験を、ヴェルデの静穏環境に合わせて調整していた。
アシュは相変わらず、ノクス・レクイエムの封印監視を外さない。
ユイがそれを見て言う。
「少し休んでもいいのでは」
アシュは短く答えた。
「お前が言うな」
「私は休むことにしました」
「なら先に休め」
「アシュもです」
「監視が終わったらな」
近くにいたレータが苦笑する。
「似た者同士ね」
ユイとアシュが同時に黙った。
その沈黙が少し可笑しくて、ミオが小さく笑った。
久しぶりに、艦内に小さな日常の音が戻っていた。
数時間後、フォージ方面へ向かったクロウヴェイル・ノアから短時間通信が入った。
通信は暗号化され、短く制限されている。
画面に映ったのは、グリッド、カイト、カイル、セラ、レイだった。
全員、明らかに疲れていた。
ジンが画面を見て、少し眉を上げる。
「到着したか」
グリッドが重い声で答える。
『クロウヴェイル・ノア、フォージ方面へ到着。座標誤差なし。追撃反応なし』
「順調そうだな」
『到着は順調です』
その言い方に、管制室の何人かが嫌な予感を覚えた。
カイルが画面の端で疲れた顔をしている。
『フォージの工廠連中、到着十分で部材仕様書を三回直してきたぞ』
カイトも肩を落としていた。
『アルタイルの肩より、俺の肩が重いです』
セラは淡々と言う。
『弾薬補充は可能です。ただし、調整試験が二十七項目追加されました』
レイは腕を組んでいる。
『護衛より、工廠とのやり取りの方が疲れる』
グリッドは深く息を吐いた。
『フォージは便利だ。便利だが、休む場所じゃない』
ヴェルデ側の管制室に、微妙な沈黙が落ちる。
レータが小さく呟いた。
「予想通り、疲れてるわね」
ユイが真面目に言う。
「必要な整備は進みそうです」
カイルが画面越しに反応した。
『そっちは静かそうでいいな』
レータは少しだけ笑って返す。
「こっちは休ませる担当だから」
『こっちは働かされる担当か』
グリッドが言う。
『その通りだ。通信切るぞ。次の仕様確認が来る』
ジンが頷く。
「無理はするな。必要な部材を確保したら合流しろ」
『了解』
通信が切れる直前、カイトが小さく手を振った。
『アミィに、静かに休んでくださいって伝えてください』
レータは少しだけ表情を柔らかくした。
「伝えておくわ」
通信が切れた。
ヴェルデの静かな光が、管制室の画面に戻る。
ルクス本隊は休息へ。
クロウヴェイル・ノアは整備へ。
二つに分かれた道は、それぞれの役目を進み始めていた。
アミィは、静かな区画で眠っている。
その窓の向こうで、ヴェルデの風が緑の大地を揺らしていた。




