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第22話 羽崎玲奈 ~side Yui~

研究区画を出たあと、ユイは一人で居住ブロックへ戻っていた。

長い通路を歩きながら、小さく息を吐く。

空気が重い。

昔からそうだった。この艦の中は、どこへ行っても金属と薬品の匂いがする。

静かすぎるのも嫌だった。地球では違った。

食堂へ行けば誰かが騒いでいて、整備班はいつもうるさくて、ミオは勝手に部屋へ入ってきた。

カイトも、妙なところで放っておいてくれなかった。


「……何考えてるんだろ」

自分で呟いて、少しだけ苦笑する。今さら戻れるはずもない。

そう思っているのに、地球での事ばかり思い出してしまう。

居住区画の扉が閉まる。狭い個室だった。

必要最低限の机とベッドだけが置かれている。

十年前と何も変わっていない。ユイはベッドへ腰を下ろすと、静かに目を閉じた。


目を閉じると、自然に昔の記憶が浮かんでくる。

地球へ流れ着いた直後の記憶だった。

冷たい雨が降っていた。

森の中を、ユイはふらつきながら歩いていた。

視界がぼやける。呼吸も苦しい。GDの動力は完全に停止していた。

通信も繋がらない。ミオ達の反応も見つからない。

食料も尽きかけていた。それでも、ユイは歩き続けた。

止まれば終わる気がしたから。木々を掻き分ける。

見知らぬ山道。知らない空。知らない匂い。

そこが別の“地球”だと理解したのは、もっと後になってからだった。

最初は、ただ混乱していた。何日歩いたのかも覚えていない。

途中で小さな集落を見つけた事もあった。

しかし、人を見ると反射的に隠れてしまう。

追われる事に慣れすぎていた。結局、まともに接触もできないまま森へ戻った。

限界が来たのは、一ヶ月ほど経った頃だった。

山道を歩いていた時、急に足から力が抜けた。

そのまま倒れる。もう立ち上がれなかった。

雨音だけが聞こえる。ぼんやりした意識の中で、誰かの声がした。


『……え、ちょっと』

女性の声だった。

『うそ、子供?』

近づいてくる足音。ユイは反射的に起き上がろうとした。

だが身体が動かない。

『待って待って!』

『取って食ったりしないから!』

その声は妙に軽かった。緊張感が無い。

だから逆に、ユイは混乱した。視界の向こうにいたのは、一人の女性だった。

黒い傘を差している。喪服姿だった。その女性は、倒れているユイを見て困ったように頭を掻く。


『……いやこれ、警察案件?』

『でも放っといたら死ぬよねぇ』

完全に独り言だった。ユイはぼんやりしたまま、その女性を見つめる。

女性は少しだけしゃがみ込むと、ユイへ視線を合わせた。


『名前、言える?』

ユイは答えなかった。というより、答え方が分からなかった。

しばらく沈黙が続く。やがて女性は小さくため息を吐いた。


『まあいいや』

『とりあえず生きてから考えよう』

そう言って、彼女はユイへ手を差し伸べた。

温かい手だった。その瞬間を、ユイは今でも覚えている。――視界が現在へ戻る。

ユイはゆっくり目を開いた。知らないうちに、拳を握っていたらしい。

少しだけ爪の跡が残っている。

「……玲奈さん」

小さく呟く。羽崎玲奈。面倒事が嫌いで、適当で、細かい事を気にしない人だった。

それなのに、あの日のユイを放っておかなかった。

しばらくして、ユイはようやく理解した。

あの日は、玲奈の弟――竜司の葬式の日だったのだと。

だから最初の頃、玲奈は時々ひどく疲れた顔をしていた。

それでも、ユイへ食事を作ってくれた。

服を買ってくれた。

「とりあえずここにいな」

そう言って、居場所をくれた。ユイは静かに天井を見上げる。

あの時間は、本当に普通だった。だからこそ失いたくなかった。

その時だった。部屋の通信端末が鳴る。

ユイは小さく表情を戻した。モニターへ映ったのは、帝国側でユイの行動管理を担当している男――アシュだった。


『準備をしろ』

相変わらず前置きが無い。ユイは少しだけ顔をしかめる。


「何の」

『次の索敵作戦だ』

『太陽系地球周辺宙域で、新たな反応が確認された』

その瞬間、ユイの空気が変わった。アシュは淡々と続ける。


『レグナート総司令も動き始めている』

『今回の作戦は、単なる偵察では終わらない』

通信が切れる。静寂が戻った。ユイはしばらく動かなかった。

だがやがて、静かに立ち上がる。嫌な予感がしていた。

帝国は、また地球へ手を伸ばそうとしている。

その予感に触れた瞬間、別の記憶が胸の奥から浮かび上がった。

地球へ来てから数日後。ユイはまだ、まともに眠れていなかった。

ベッドへ入っても、少しの物音で目が覚める。

窓の外を人が歩くだけで身体が反応した。

だから玲奈は呆れたように笑っていた。


「どんな育ち方したらそうなるの」

台所から声が飛んでくる。朝だった。

狭いアパートの一室に、味噌汁の匂いが広がっている。

ユイはリビングの隅へ座ったまま、黙って周囲を見ていた。

落ち着かない。静かすぎる帝国施設とは違う。

ここには生活音があった。テレビ。車。人の声。

食器の音。全部が妙に新鮮だった。

「ほら」

玲奈が湯気の立つ茶碗を置く。

「食べな」

ユイは少しだけ警戒しながら茶碗を見る。

玲奈が苦笑した。

「まだ警戒してんの?」

「……してない」

「いやしてるでしょ、その顔」

即答だった。ユイは少しだけ視線を逸らす。

玲奈は呆れたように肩を竦めると、自分も向かいへ座った。


「まあいいけど」

「無理に聞く気もないし」

そう言って味噌汁を飲み始める。ユイはしばらく動かなかった。

しかし、やがて小さく箸を伸ばす。温かかった。

その瞬間、ユイは少しだけ驚く。玲奈がその反応に気づいて笑った。


「何その顔」

「……温かい」

「そりゃ味噌汁だからね」

当然みたいに返す。そのやり取りが、ユイには妙に不思議だった。

研究施設では、食事は栄養補給だった。

効率。数値。管理。それだけだった。でもここでは違う。

玲奈は普通に食事をして、普通に笑っている。

その空気が理解できなかった。食事が終わる頃、玲奈がふと思い出したように口を開く。


「そういえば名前」

ユイの動きが止まる。玲奈は気にした様子もなく続けた。


「そのままだと色々面倒なんだよね」

「病院とか学校とか」

「警察来ても困るし」

かなり現実的な理由だった。ユイは少しだけ首を傾げる。


「……名前?」

「そ」

玲奈は顎へ手を当てながら考え込んだ。


「本名は?」

ユイは少しだけ迷う。しかし、やがて静かに答えた。


「……ユイ」

玲奈は数秒考え込む。そのあと、小さく「あー」

と呟いた。

「じゃあそのままでもいいんだけど」

「ちょっと目立つかなぁ」

何が問題なのか、ユイにはよく分からなかった。

玲奈はしばらく悩んだあと、不意に窓の外を見る。

その表情が少しだけ静かになる。

「……竜奈」

「え?」

「羽崎竜奈」

玲奈はゆっくり言った。

「今日からそれでどう?」

ユイは黙ってその名前を聞いていた。

玲奈は少しだけ苦笑する。

「まあ半分思いつきだけど」

「この国、名前無いと面倒だし」

軽い調子だった。しかし、その名前を口にした時だけ、玲奈の声が少しだけ優しかった。

ユイはまだ知らなかった。“竜”の字が、数日前に事故で死んだ玲奈の弟――竜司から取られていた事を。

玲奈も説明しなかった。ただ、何となくそうしただけだった。

しばらく沈黙が続く。やがて玲奈が小さく笑った。


「返事は?」

ユイはゆっくり視線を上げる。そして、小さく頷いた。


「……うん」

その瞬間だった。玲奈が少しだけ嬉しそうに笑う。


「よし決まり」

「じゃあ今日から羽崎竜奈ね」

その言葉を聞いた時。ユイは不思議と、嫌じゃなかった。――視界が現在へ戻る。

ユイは帝国艦の窓越しに宇宙を見つめていた。

静かな闇が広がっている。そこへ背後から声がした。


「また昔の事?」

振り返ると、セラが立っていた。ユイは小さく息を吐く。


「顔に出てた?」

「少し」

セラは隣へ並ぶ。二人でしばらく宇宙を見つめていた。

やがてセラが静かに口を開く。

「……その名前」

「羽崎竜奈」

「好きだった?」

ユイは少しだけ考える。答えはすぐに出た。


「好きだったよ」

小さく笑う。

「普通の名前だったから」

その言葉に、セラは何も返さなかった。

ただ少しだけ寂しそうな顔をしていた。

その時、艦内警報が鳴り響いた。

二人の表情が同時に変わる。

直後、艦内モニターが起動した。そこへ映し出されたのは、レグナートだった。

白髪混じりの男が静かに全艦へ告げる。


『全艦隊へ通達する』

『太陽系地球外縁部にて、新たな反応を確認した』

『これより索敵艦隊を派遣する』

その瞬間、ユイの胸騒ぎが強くなる。

レグナートは続けた。

『今回の作戦には、PT部隊も同行する』

『PT-Y01、PT-S01にも出撃命令を出す』

セラが小さく眉をひそめた。ユイは黙ったままモニターを見つめている。

嫌な予感が消えなかった。帝国は確実に、地球へ近づき始めていた。


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