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第220話 名前を答えるために

 ルクス・ヴァルキュリアの居住区は、戦闘前とは思えないほど静かだった。

 外縁防衛線はまだ目前にある。

 エリシオンも、グラトンも、ヘルメス隊も健在。

 セレスティアの支援端末は、次の接触に備えて配置を変えている可能性が高い。

 それでも、今この時間だけは、戦闘音も警報もなかった。

 レータは窓際の休憩スペースに座っていた。

 目の前の端末には、次回接触時の呼びかけ文が表示されている。

 私はレータ。

 命令じゃない。

 あなたと話したい。

 あなたは、アミィ。

 短い文章だった。

 何度も読み返している。

 けれど、何度読んでも、これでいいのか分からなかった。

「……私は、あの子にとって何なんだろ」

 小さく呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。

 姉。

 元になった存在。

 逃げた責任者。

 自分がいなくなった後に作られた、代わりの指揮型。

 どれも違う気がする。

 けれど、どれも完全には否定できない。

 レータは端末を閉じた。

「姉です、なんて言えるわけないじゃない」

 まだアミィは、レータのことを知らない。

 ユイのことも、ミオのことも知らない。

 自分自身の名前すら、正しく認識できているか分からない。

 それなのに、いきなり姉だと言うのは違う。

 元になった存在だと言うのも違う。

 謝らせてほしいと言うのも、たぶん違う。

 でも、何も言わないわけにはいかない。

『……だれ……?』

 あの声が、耳に残っている。

 命令の奥から、一瞬だけ返ってきた声。

 誰かを探すような、何も知らない子供のような声。

 レータは拳を握った。

「答えなきゃいけないのに」

 答え方が分からない。

 その時、休憩スペースの入口で足音が止まった。

「レータ」

 ユイの声だった。

 レータは顔を上げる。

「ユイ」

「隣、いいですか」

「別にいいけど」

 ユイはレータの隣に座った。

 しばらく何も言わず、同じように窓の外を見る。

 宇宙は静かだった。

 だが、その静けさの向こうに、次の戦場がある。

 レータは苦笑した。

「慰めに来たの?」

「はい」

「正直ね」

「嘘をついても仕方ありません」

 レータは少しだけ笑った。

「ユイらしい」

 ユイはレータの端末を見た。

 閉じられているが、何を考えていたのかは分かる。

「アミィに言う言葉を考えていたんですね」

「うん」

 レータは膝の上で手を組む。

「でも、何を言えばいいのか分からなくなった。私は、あの子の何なのかなって」

 ユイは静かに聞いている。

「姉って言えるほど、何もしてない。元になった存在ですって言ったところで、アミィには分からない。あなたが作られた理由に私が関係しているかもしれないなんて、最初に言うことじゃない」

「はい」

「でも、ただの他人ですって顔もできない」

 レータの声が少し震えた。

「私がいなかったから、あの子が作られたのかもしれない。私が逃げたから、A系列が作られたのかもしれない。そう考えると、何を言っても言い訳みたいになる」

 ユイは少しだけ目を伏せた。

「レータ」

「何」

「全部を背負わなくていいと思います」

 レータはユイを見る。

 ユイは続ける。

「アミィが作られた理由に、レータが関係している可能性はあります。でも、それを決めたのは帝国です。命令層を作ったのも、アミィを戦場に出したのも、セレスティアで縛っているのも、レータではありません」

「でも、原因の一つではあるかもしれない」

「そうかもしれません」

 ユイは否定しなかった。

「でも、原因の一つかもしれないことと、全部の責任を背負うことは違います」

 レータは黙る。

「レータが全部背負おうとすると、アミィを見る前に、レータ自身の罪悪感を見てしまいます」

「……カナデみたいなこと言うわね」

「カナデさんに言われました」

「正直すぎ」

 レータは苦笑した。

 だが、その笑みはすぐに消える。

「でも、そうかもしれない。私、アミィを見てるようで、自分のことばっかり見てるのかも」

 ユイは首を横に振った。

「それに気づけるなら、大丈夫です」

「大丈夫かな」

「はい」

 ユイは静かに頷いた。

「レータは、アミィを代わりとして見ていません。だから悩んでいます」

 レータは何も言えなかった。

 少しして、別の足音が近づいてきた。

「ここにいましたか」

 ミオだった。

 手には小さな端末を持っている。

「ミオまで来たの?」

「はい。カナデさんに、レータが一人で考え込みすぎていたら様子を見るように言われました」

「カナデ、根回ししすぎじゃない?」

「必要だと思います」

 ミオは真面目に答えた。

 レータは肩の力を少し抜いた。

「で、ミオは何を言いに来たの?」

 ミオは少し考え、レータの正面に立った。

「アミィは、レータの代用品ではありません」

 まっすぐな言葉だった。

 レータは一瞬、息を止める。

 ミオは続ける。

「A系列が、L系列の空白を埋めるために設計された可能性はあります。指揮、統率、支援。役割上の近さもあります。ですが、それは帝国側の設計思想です」

「設計思想……」

「はい。帝国がどう分類したかと、アミィが何者かは別です」

 レータはミオを見る。

「つまり、帝国が私の代わりとして作ったとしても、アミィ自身は私の代わりじゃないってこと?」

「はい」

 ミオは頷いた。

「アミィはアミィです。レータの失敗を埋めるための存在でも、レータの責任を形にした存在でもありません」

 その言葉は、痛かった。

 けれど、必要な痛みだった。

 レータはゆっくり息を吐く。

「それ、私が言わなきゃいけないことかもね」

「はい」

「はっきり言うわね」

「必要だと思いました」

 ミオは静かに言う。

「アミィに名前を届けるなら、まずレータ自身が、アミィを代用品ではないと認めている必要があります」

 レータは窓の外を見た。

 アミィは自分の代わりではない。

 自分の空白を埋めるためだけの存在ではない。

 帝国がそう扱ったとしても、こちらまで同じ見方をしてはいけない。

 それは分かる。

 でも、分かることと、胸の奥の痛みが消えることは別だった。

「……難しいわね」

「はい」

 ミオは素直に頷いた。

「ですが、レータなら言えると思います」

「なんでみんな、そうやって言い切るの」

「レータだからです」

「ユイと同じこと言わないでよ」

 レータが少しむくれると、ユイとミオは顔を見合わせた。

 その様子を見て、レータは小さく笑った。

「まあ、少しだけ楽になった」

 その時、三人の背後から声がした。

「それはよかったです」

 カナデだった。

「やっぱり来た」

 レータが言うと、カナデは穏やかに微笑んだ。

「来ますよ。大事なところですから」

 カナデは三人のそばに座った。

 その後ろには、少し離れた位置にカイトもいた。

 レータが目を細める。

「カイトも?」

「いや、その……通りかかっただけ」

「嘘が下手」

「すみません」

 カイトは素直に謝った。

 カナデが苦笑する。

「私が呼びました。次の接触で、カイトさんは通信路の前衛護衛です。アミィ救出がただの戦術ではないことを知っておく必要があります」

 カイトは真剣な顔で頷いた。

「はい」

 レータは少し困ったようにカイトを見る。

「あんまり重い話、聞いてても面白くないでしょ」

「面白いとかじゃないよ」

 カイトはすぐに答えた。

「俺は、通信路を守るって言った。でも、その通信路で何を届けるのか分かってないと、たぶん守り方を間違える」

 レータは少し驚いたようにカイトを見た。

 カイトは続ける。

「敵を倒すための通信じゃない。命令を上書きするためでもない。アミィに、命令じゃない声を届けるための道なんだろ」

 カナデが頷く。

「そうです」

「だったら、俺も知っておきたい。レータが何を言おうとしてるのか」

 レータはしばらく黙っていた。

 やがて、少し照れくさそうに顔をそらす。

「本当に、真面目なこと言うようになったわね」

「え、前はそんなに不真面目でした?」

「そういう意味じゃない」

 ユイが小さく微笑んだ。

 カナデはレータへ向き直る。

「レータさん。次に言う言葉ですが、最初から謝らなくていいと思います」

「うん。さっきも少し言われた」

「謝罪は、相手が事情を理解できて初めて届きます。今のアミィに最初から謝っても、何に対する謝罪なのか分からない可能性があります」

 レータは頷く。

「最初に必要なのは、安心できる自己紹介」

「はい」

 カナデは静かに言う。

「命令ではないこと。あなたが何者か。アミィが何者か。それを短く伝える。それで十分です」

 レータは端末を開いた。

 さっきの文章が表示される。

 私はレータ。

 命令じゃない。

 あなたと話したい。

 あなたは、アミィ。

 レータはその文を見つめた。

「何か足りない気がする」

 カナデは急かさなかった。

 ユイも、ミオも、カイトも黙って待つ。

 レータは自分の中にある言葉を探した。

 姉ではない。

 少なくとも、最初に名乗れるほどの姉ではない。

 元になった存在。

 それも、アミィにはまだ重すぎる。

 責任者。

 それは違う。

 アミィを作ったのは帝国だ。

 自分が全部背負えば、アミィ自身を見る目が歪む。

 なら、何を言うのか。

 レータはゆっくり口を開いた。

「私はレータ」

 声に出してみる。

「あなたの代わりじゃない」

 ユイが静かにレータを見る。

「あなたも、私の代わりじゃない」

 ミオが小さく頷いた。

 レータは、続けた。

「命令じゃない。私は、あなたと話したい」

 言い終えてから、レータは息を吐いた。

「……これかな」

 カナデは微笑んだ。

「とても良いと思います」

 レータは端末に新しい文章を入力する。

 私はレータ。

 あなたの代わりじゃない。

 あなたも、私の代わりじゃない。

 命令じゃない。

 私は、あなたと話したい。

 短い。

 でも、さっきよりも自分の言葉になっていた。

 ユイが言う。

「アミィに届くと思います」

 レータは苦笑した。

「まだ、届くかは分からないでしょ」

「はい。でも、届かせるために準備しています」

「そうね」

 レータは端末を閉じなかった。

 今度は、逃げるように画面を消さなかった。

 カイトはその言葉を見ていた。

 あなたの代わりじゃない。

 あなたも、私の代わりじゃない。

 それは、戦場で使う言葉としては、あまりにも静かだった。

 敵を倒す言葉ではない。

 命令を壊す合図でもない。

 けれど、その言葉を届けるために、次の戦闘がある。

 カイトはようやく実感した。

 アミィ救出は、敵性戦力を奪取する作戦ではない。

 命令の奥にいる一人へ、名前を返すための戦いなのだ。


 その後、管制区画で作戦記録の更新が行われた。

 黒瀬はレータの呼びかけ文を確認していた。

 三島が隣で記録を取っている。

「呼びかけ内容を作戦資料に入れるんですか」

 三島が尋ねる。

 黒瀬は頷いた。

「入れます。ただし、全文を命令文として固定はしません。あくまで推奨文です」

「感情的な準備も、作戦資料に含めるんですね」

「本人意思確認に必要です」

 黒瀬は淡々と答えた。

「今回の接触は、通信を繋ぐだけでは成立しません。呼びかける側が、相手を何として扱うかが反応に影響します」

 三島は少し意外そうに黒瀬を見た。

「黒瀬さんがそう言うと、少し意外です」

「感情論を採用しているわけではありません」

 黒瀬は端末に視線を落としたまま言う。

「ただし、本人反応は機械信号ではありません。相手が命令と呼びかけを区別する可能性がある以上、呼びかけ内容は作戦要素です」

 三島は頷いた。

「つまり、感情的に見える準備も、今回に限っては戦術的意味がある」

「そうです」

 黒瀬は記録を更新する。

「PT-A01アミィ再接触作戦。レータさんの呼びかけは、本人識別および代替認識の否定を目的とする。命令ではなく自己紹介として送信」

 三島が記録する。

「代替認識の否定……」

「アミィが自分をレータさんの代用品として認識している可能性があります。あるいは、帝国命令層がそう定義している可能性もあります」

「それを最初に否定する」

「はい」

 黒瀬は少しだけ間を置いた。

「救出対象にするかどうかは、本人反応の継続確認後です。ですが、こちらが相手をどう扱うかは、その前に決めておく必要があります」

 三島は静かに頷いた。

「了解しました」

 黒瀬は画面に表示されたレータの言葉を見た。

 あなたの代わりじゃない。

 あなたも、私の代わりじゃない。

 それは記録文としては曖昧だった。

 数値化しにくく、作戦条件としては不安定だった。

 だが、必要だった。

 黒瀬はその文を削除しなかった。


 夜に近い時間帯。

 レータは一人で格納庫に来ていた。

 ヴァルクレイドは整備用アームに固定され、暗赤と黒鉄の装甲を静かに横たえている。

 重装。

 統率。

 指揮補助。

 帝国がL系列に与えた役割。

 そして、その空白を埋めるために作られたかもしれないA系列。

 レータはヴァルクレイドを見上げた。

「私は、あなたの代わりじゃない」

 小さく呟く。

「あなたも、私の代わりじゃない」

 その言葉を、何度も口の中で繰り返す。

 まだ怖い。

 次にアミィが返事をするかは分からない。

 返事をしても、こちらの言葉を理解できるとは限らない。

 それでも、言う。

「私はレータ」

 今度は、少しだけはっきりと言った。

「命令じゃない。私は、あなたと話したい」

 格納庫の照明が、ヴァルクレイドの装甲を淡く照らしていた。

 背後で、小さな足音がした。

 振り返ると、ユイが立っていた。

「練習ですか」

「悪い?」

「いいと思います」

 ユイはレータの隣に来て、同じように機体を見上げた。

「ユイも練習する?」

「はい」

 ユイは少し考え、それから静かに言った。

「私はユイ。あなたに命令しません。あなたの声を聞きたい」

 レータは頷く。

「ユイらしい」

「そうでしょうか」

「うん。短くて、まっすぐ」

 ユイは少しだけ目を伏せた。

「それしか言えないだけです」

「それがいいんじゃない」

 レータは小さく笑った。

 しばらく二人は黙っていた。

 やがて、レータが言う。

「ねえ、ユイ」

「はい」

「もしアミィが、私を責めたらどうしよう」

 ユイはすぐには答えなかった。

 レータは続ける。

「なんでいなかったのって。なんで私が作られたのって。なんで助けに来るのが遅かったのって。そう言われたら、私、たぶん何も返せない」

 ユイは静かに言った。

「その時は、聞けばいいと思います」

「聞く?」

「はい。アミィがそう言うなら、それはアミィの声です。命令ではないなら、聞くべきです」

 レータは唇を噛む。

「きついわね」

「はい」

「でも、そうよね」

 レータはヴァルクレイドを見上げた。

「助けたいって言うなら、都合のいい返事だけ聞くわけにはいかない」

「はい」

 ユイは頷いた。

「でも、まだそこまで行っていません。今は、名前を答えるところからです」

「名前を答えるために、か」

 レータは小さく息を吐いた。

「本当に、最初の一歩ね」

「はい」

 それでも、その一歩がなければ何も始まらない。

 レータはもう一度、言葉を口にした。

「私はレータ。あなたの代わりじゃない。あなたも、私の代わりじゃない」

 今度は、震えなかった。


 外縁防衛線の奥。

 セレスティア支援波の内側。

 アミィは、夢のような場所にいた。

 そこには形がなかった。

 光も、音も、輪郭も曖昧だった。

 ただ、上から降りてくる命令だけが、はっきりしていた。

 防衛線を維持。

 支援を継続。

 命令に同期。

 外部反応を遮断。

 揺れを抑制。

 それらは、何度も何度も繰り返されていた。

 考えるより先に、命令が満たしていく。

 迷う前に、支援波が形を整える。

 何かを感じる前に、白金色の光がそれを包み込む。

 それが普通だった。

 それ以外を、アミィは知らなかった。

 けれど。

 その奥に、小さな音が残っていた。

 だれ。

 自分が言ったのか。

 誰かが言ったのか。

 それすら、よく分からない。

 だが、その言葉だけが、命令層の奥で消えずに残っていた。

 だれ。

 だれ。

 だれ。

 白金色の光が、その残響を包もうとする。

 命令層が、余計な揺れとして押し潰そうとする。

 それでも、完全には消えなかった。

 アミィは、形のない意識の底で、かすかに思った。

 また、聞こえるだろうか。

 命令ではない声が。

 自分に向けられた、知らない声が。

 だれ、と問い返した先に、何かがあるのだろうか。

 その問いもまた、すぐに命令層に沈められていく。

 防衛線を維持。

 支援を継続。

 命令に同期。

 外部反応を遮断。

 白金色の光が満ちる。

 けれど、その奥で。

 たった一つの言葉だけが、まだ消えずに残っていた。

 だれ。

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