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第218話 命令層の奥

 ルクス・ヴァルキュリアの解析室では、同じ音声が何度も再生されていた。

『……だれ……?』

 短い。

 弱い。

 音声と呼ぶには、あまりにも細い反応だった。

 だが、それは確かに言葉だった。

 命令ではない。

 支援波でもない。

 セレスティアの干渉によって作られた応答でもない。

 アミィ本人の奥から、ほんの一瞬だけ浮かび上がった声だった。

 イリスは、波形を拡大する。

 画面には、複数の線が重なっていた。

 均一で硬い反応。

 柔らかく広がる反応。

 周囲に合わせて形を変える反応。

 そして、そのどれとも違う、わずかに遅れて揺れる小さな反応。

「もう一度、分離します」

 イリスが端末を操作する。

 リクトは横から表示を確認した。

「まず一番外側にあるのが、セレスティアの支援波だ。味方支援に似ているが、性質はもっと広い。通信、照準補助、判断補助、支援リンク。その全部に薄く重なってくる」

 ミオが頷く。

「切断されるより厄介です。こちらの支援網を壊すのではなく、上から別の補助を重ねてきます。だから、受けている側は一瞬だけ自分の判断なのか、外からの補助なのか分からなくなります」

 カイトは、その時の感覚を思い出した。

 敵が来る。

 避ける。

 支援を受ける。

 その一つ一つの判断が、ほんのわずかに遅れた。

 あの時、自分が迷ったのかと思った。

 だが、ユイがすぐに言った。

 それはあなたの迷いではない。

 セレスティアの干渉です、と。

「一般パイロットにも影響が出るんだよな」

 カイトが言うと、リクトは頷いた。

「出る。ただし、今のところ致命的な支配ではない。判断を奪うというより、判断の接続を遅らせる。あるいは、別の判断を自然に見せる。そこが危険だ」

 セラは静かに画面を見ていた。

「照準補助にも、複数の候補が表示されました」

 フェンリオン・リサイトの記録映像が表示される。

 照準線が何本も重なり、敵機、支援端末、通信中継点、そして干渉波の中心に近い方向へと候補を示していた。

「命令補助に従えば、最も効率の良い位置が表示されていました。ですが、それは私が撃つべき場所ではありませんでした」

 黒瀬が記録端末に視線を落とす。

「セラ機、命令系統除去後の自律判断により、干渉増幅端末を破壊。これによりセレスティア支援波が一時的に減衰」

 三島が補足する。

「支援端末破壊は有効。ですが、本体反応への攻撃は危険、ということでよろしいですか」

 リクトは少し考えてから答えた。

「現段階では、そう判断するべきだ。セレスティア本体が何なのか、まだ分かっていない。アミィと完全に分離しているのか、それとも命令層を通じて接続されているのかも不明だ」

 ユイが静かに言う。

「本体を破壊すれば、アミィ本人反応も一緒に潰れる可能性があります」

 その言葉に、室内の空気が少し重くなった。

 レータは、ずっと黙っていた。

 腕を組み、画面を見つめている。

 だが、その指先は落ち着きなく動いていた。

「じゃあ、どうするの」

 レータが言った。

 声は抑えられていた。

 けれど、その奥には焦りがあった。

「あの子、返事したんだよ。聞こえたんだよ。『だれ』って言った。なら、次はもっと強く呼べば――」

「レータ」

 カナデが静かに名前を呼んだ。

 レータは口を閉じる。

 だが、視線は画面から離さなかった。

 カナデは責めるようには言わなかった。

 ただ、確認するように言葉を置く。

「今助けたい気持ちと、助けるための準備は別です」

 レータの肩が小さく動いた。

「分かってる」

「分かっていても、急ぎたくなると思います」

「……うん」

 レータは短く答えた。

 カナデは続ける。

「今のアミィは、こちらを知りません。ユイさんのことも、レータさんのことも、自分と関係のある存在として認識できていない可能性があります」

 ユイが頷いた。

「はい。アミィは、まだ私達を知りません」

 カイトはユイを見る。

「でも、返事はした」

「しました」

 ユイは画面の波形を見つめる。

「ですが、あの返事は、私達を仲間として認識したものではありません。知らない声が届いた。だから、『だれ』と返した。それだけかもしれません」

「それだけでも……」

 レータが呟く。

「それだけでも、十分じゃないの」

 ユイは否定しなかった。

「十分です。だから、次に進めます」

 レータが顔を上げる。

 ユイは静かに言った。

「でも、今すぐ連れ戻せるという意味ではありません」

 解析室に、再び波形が表示される。

 イリスが四つの層を色分けした。

 一つ目。

 帝国命令層。

 均一で硬く、反応を上から押さえ込む層。

 二つ目。

 セレスティア支援波。

 柔らかく広がり、通信や支援網に重なる層。

 三つ目。

 A系列基本反応。

 周囲に合わせて形を変え、命令や支援に適応しようとする層。

 四つ目。

 本人反応。

 命令に対してではなく、呼びかけに一拍遅れて揺れた、細い反応。

 イリスは、その一番奥の線を指差した。

「この反応は、命令層に対して同期していません。セレスティア支援波にも完全には重なっていません。呼びかけの後に遅れて発生しています」

 ミオが続ける。

「つまり、アミィ本人は完全に消えていません。ただし、表に出ようとした瞬間に、命令層とセレスティア支援波が上から押し込んでいます」

 リクトは腕を組んだ。

「次に必要なのは、本人反応を引き出す通信じゃない」

 カイトが首を傾げる。

「違うのか」

「それだけでは足りない。引き出した瞬間に潰されるなら、何度呼んでも同じだ」

 リクトは画面を切り替えた。

 そこには、セラが撃ち抜いた支援端末の記録が表示されている。

 端末が破壊された瞬間、セレスティアの支援波がほんの一瞬だけ薄くなっていた。

「呼びかける前に、本人反応を守る通路が必要だ」

 ミオが頷く。

「通信を送るだけではなく、戻ってくる反応を保護する通信路です。アミィの返事が命令層に押し潰される前に、こちらで受け止めるための回線」

 イリスが小さく手を上げる。

「私とミオなら、波形の切り分けはできます。でも、戦場で維持するには、支援端末の干渉を薄くする必要があります」

 セラが言う。

「支援端末を狙撃すれば、一時的に干渉は薄くなります」

「ただし、撃ちすぎれば敵も対策する」

 レイが壁にもたれながら言った。

「次は端末を隠すか、囮を混ぜるだろうな」

 カイルが笑う。

「だろうな。向こうも馬鹿じゃねえ。特に、あのオルフェンとかいう奴は嫌な感じがする」

 その名前が出た瞬間、ジンの表情がわずかに険しくなった。

「本国監察局。戦場を観測場として扱っている節がある」

 黒瀬も頷いた。

「第217戦闘記録では、オルフェンが意図的に接触状況を作った可能性が高い。アミィ本人反応の有無を確認するため、こちらの呼びかけを利用したとも考えられます」

「つまり、こっちがアミィを助けようとすればするほど、向こうはその反応を観測するってことか」

 カイトの声が低くなる。

 黒瀬は否定しなかった。

「その可能性があります」

 レータは拳を握った。

「ふざけてる」

 その一言には、怒りがあった。

「アミィを何だと思ってるの」

 誰もすぐには答えなかった。

 帝国がアミィをどう扱っているのか。

 その答えは、すでに何度も見てきた。

 兵器。

 観測対象。

 分類されるもの。

 命令に従うもの。

 レータの空白を埋めるために作られた、別の指揮型。

 だが、今は違う。

 アミィは、返事をした。

『……だれ……?』

 それは、命令ではなかった。

 黒瀬は端末に新しい分類を表示した。

「作戦分類を更新します」

 三島が記録準備に入る。

 黒瀬は淡々と読み上げた。

「PT-A01アミィ。現時点では、依然として敵性戦力。ただし、本人反応確認済み。次回以降の接触においては、命令層からの保護、本人意思確認、セレスティア支援波からの分離を優先項目とする」

 レータは黒瀬を見る。

 黒瀬は続ける。

「救出対象への正式変更は、本人意思の継続確認後とします。ただし、攻撃対象としての扱いは制限します」

 三島が確認する。

「本体セレスティアへの直接攻撃制限、支援端末の選択破壊、本人反応保護通信路の準備。以上を次回作戦条件として記録します」

「記録してください」

 黒瀬が言う。

 レータは、少しだけ息を吐いた。

「……まだ救出対象じゃないんだ」

「記録上は、まだです」

 黒瀬は答えた。

「ですが、救出対象に近づいています」

 その言い方は、黒瀬にしてはかなり柔らかかった。

 レータは少しだけ目を伏せた。

「そっか」

 カナデがレータの横に立つ。

「レータさん」

「分かってる。勝手に飛び出したりしない」

「それも大事ですが、もう一つ」

「何?」

「アミィに名前を呼ばせたいなら、まず、アミィにとってあなたが誰なのかを届ける必要があります」

 レータは言葉に詰まった。

 アミィは、まだ知らない。

 レータのことも。

 ユイのことも。

 ミオのことも。

 自分が何のために作られたのかも、もしかすると正しくは知らない。

 レータは、自分の胸に手を当てた。

「私は……あの子に何て言えばいいのかな」

 それは、戦術の問いではなかった。

 姉妹として。

 元になった存在として。

 逃げた者として。

 代わりを作らせてしまったかもしれない者として。

 何を言えばいいのか。

 ユイが静かに言った。

「最初から全部伝える必要はありません」

 レータはユイを見る。

「最初は、名前でいいと思います」

「名前?」

「はい。あなたの名前。アミィの名前。そして、命令ではない呼びかけ」

 レータは黙って考える。

 その横で、カイトが呟いた。

「だれ、って聞かれたなら、まず答えないとな」

 レータは少しだけ笑った。

「そうだね」

 笑ったと言っても、明るい笑みではなかった。

 けれど、焦りだけで固まっていた表情は、少しだけ緩んでいた。

「次は、ちゃんと答える」

 カナデが頷く。

「それでいいと思います」

 リクトは解析画面へ視線を戻した。

「技術的には、三つ必要だ。第一に、セレスティア支援波を一時的に薄くする手段。第二に、本人反応を保護する通信路。第三に、命令層が厚くなった時に即時撤退できる判断基準」

 ミオが続ける。

「支援網は私が分散型で維持します。ただし、前回以上に干渉が強い場合、全機に判断遅延が出ます」

 イリスが小さく頷く。

「本人反応の抽出は、私が担当します。ですが、アミィの反応がまた一拍だけしか出ない場合、拾いきれないかもしれません」

 セラが言う。

「支援端末の破壊は、私が担当します」

 レイが肩をすくめる。

「俺は敵機を近づけさせない」

 カイルが笑った。

「なら俺は外周だな。ヘルメスが来るなら、また横からだ」

 カイトは画面を見つめた。

 自分にできることは何か。

 アミィはまだ、自分達を知らない。

 救出したいと願っても、その願いだけでは届かない。

 けれど、戦場で呼びかける時、誰かが前に立たなければならない。

「俺は、通信路を守る」

 カイトが言った。

 ユイが彼を見る。

「カイト」

「アミィに声を届けるなら、その間、誰かが前に出る必要がある。ノクス・レクイエムを出さないなら、アルタイル・ノヴァがやる」

 ジンはしばらくカイトを見た。

「無茶は認めん」

「分かっています」

 黒瀬が言う。

「カイト機は、本人反応保護通信路の前衛護衛候補として記録。ただし、単独接近は禁止」

「了解です」

 ユイは少しだけ目を伏せた。

「私も、次は呼びかけます」

 カナデがユイを見る。

「ユイさんも、焦らないでください」

「はい」

「アミィは、まだこちらを知りません。だから、すぐに答えを求めないでください」

「分かっています」

 ユイは画面の中の細い波形を見つめる。

「最初は、知ってもらうところからです」

 その言葉に、レータも頷いた。

「うん」

 解析室の中で、方針が少しずつ形になっていく。

 まだ救出ではない。

 まだ奪還でもない。

 次に行うのは、再接触だ。

 アミィ本人の反応を守りながら、もう一度呼びかける。

 命令層に押し込まれる前に、その返事を受け止める。

 そのための作戦。

 黒瀬は最後に、作戦記録へ新しい仮称を入力した。

「次回接触作戦、仮称。アミィ本人反応保護試験」

 カイルが苦笑する。

「硬いな」

「正式名称ではありません」

 黒瀬は平然と答えた。

「ですが、目的は明確です」

 ジンが頷く。

「よし。各担当は準備に入れ。次の接触は、こちらの準備が整ってからだ」

 その言葉で、解析室の空気が動いた。

 レータはもう一度、記録音声を聞いた。

『……だれ……?』

 今度は、目を逸らさなかった。

「次は答えるから」

 小さく、そう呟く。

「私はレータ。あなたはアミィ。それを、ちゃんと伝える」

 ユイはその横で、静かに頷いた。

 命令の奥に、誰かがいる。

 ならば、次に必要なのは力ではない。

 声を届けるための道だった。


 グラトン艦内の観測室では、ルクス側の通信記録が再構成されていた。

 オルフェンは、表示された波形を見ていた。

 そこには、アミィ本人反応と推定される小さな揺れが記録されている。

『……だれ……?』

 その一言が再生される。

 オルフェンは、満足そうに目を細めた。

「やはり、揺れる」

 部下が確認する。

「PT-A01の本人反応を確認、でよろしいですか」

「確認ではありません。観測継続です」

 オルフェンは端末に記録を入力する。

「PT-Lの呼びかけに反応。PT-Yの呼びかけにも微弱反応。A系列基本反応は、命令層下でも完全には均一化していない」

 部下は少し迷ってから尋ねた。

「次回も接触を誘導しますか」

「当然です」

 オルフェンは淡々と答えた。

「ルクス側は、あれを救えると思い始める。そうなれば、より深く呼びかける。より深く揺らす」

 観測画面の中で、アミィの反応が細く震えている。

 オルフェンは、その波形を拡大した。

「次は、もっと深く揺らせる」

 彼の声には、怒りも哀れみもなかった。

 ただ、記録する者の冷たさだけがあった。

「本人反応、命令層、セレスティア支援波。どこまで分離できるか。どこから壊れるか。実に良い観測条件です」

 その時、観測室の扉が開いた。

 レオンが立っていた。

 オルフェンは振り返る。

「これはこれは。前線指揮官殿」

 レオンは画面を見た。

 そこに映る、アミィの微弱反応。

 そして、オルフェンが入力した観測記録。

 レオンの表情は険しい。

「お前は、まだ続けるつもりか」

「本国命令です」

「本国命令なら、何をしてもいいのか」

「少なくとも、私には観測義務があります」

 オルフェンは薄く笑った。

「それに、あなたも見たでしょう。あれは反応した。なら、次の段階へ進めるべきです」

「次の段階?」

「より強い接触。より明確な分離。必要であれば、負荷を上げます」

 レオンの拳が握られる。

「アミィが壊れてもか」

「壊れるかどうかを確認するのも、観測です」

 その瞬間、室内の空気が凍った。

 レオンは低い声で言った。

「戦場を実験場にするな」

「何度でも申し上げます。帝国は、実験によって戦場を理解します」

 オルフェンは平然としていた。

「そして、理解したものだけが、次の兵器体系に組み込まれる」

 レオンはしばらく黙っていた。

 その沈黙は、怒りを押し殺すためのものだった。

「オルフェン」

「はい」

「次の接触で、前線指揮権を越える命令を出すな」

 オルフェンは、わずかに目を細める。

「それは、本国監察局への妨害と受け取られかねませんが」

「受け取り方は任せる」

 レオンは背を向けた。

「だが、俺の戦場で勝手はさせない」

 扉が閉じる。

 オルフェンはしばらくその扉を見ていた。

 やがて、何事もなかったように端末へ視線を戻す。

「前線指揮官、心理的抵抗増大」

 新しい項目が記録される。

「これも観測対象に追加」

 画面の中で、アミィの反応がもう一度再生された。

『……だれ……?』

 オルフェンは小さく呟いた。

「次は、その問いに何と答えるのでしょうね」

 命令層の奥で揺れた声。

 それを救おうとする者達。

 それを観測しようとする者達。

 次の接触は、もう単なる戦闘では終わらない。

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