第214話 外縁の停止線
通信画面に、帝国軍の識別紋が浮かび上がっていた。
ルクス・ヴァルキュリアの管制室には、まだ戦闘後の熱が残っている。
前線機は格納庫へ戻り、整備班が損傷確認を進めている。
エリシオンの防衛線は崩れていない。
ヘルメスの高速撹乱も、完全には読み切れていない。
セレスティアに似た微弱反応も、正体は不明のままだ。
だが今、帝国側から砲撃ではなく、通信が来ている。
『こちら、帝国外縁方面軍。レオン・グレイスナー。ルクス・ヴァルキュリア艦長へ通信を要求する』
ジンは一度だけ周囲を見た。
カイルは腕を組み、通信画面を睨むように見ている。
黒瀬は端末を開き、三島は記録準備を整えている。
ユイは少し後方に立ち、画面から目を逸らさなかった。
「通信を開け」
ジンの指示で、画面が切り替わる。
そこに映ったのは、帝国軍の士官だった。
灰色の軍服。
余計な装飾の少ない姿。
表情は厳しいが、こちらを見下すような軽さはない。
その背後には、グラトンの艦橋が映っている。
副官らしき男が控え、さらに奥には薄い笑みを浮かべた監察官、オルフェン・グラードの姿もあった。
レオンは、まず名乗った。
『帝国外縁方面軍、レオン・グレイスナーだ』
ジンも正面から返す。
「ルクス・ヴァルキュリア艦長、ジンだ」
『貴艦は帝国外縁防衛線へ接触し、交戦状態に入った。現時点では追撃を停止しているが、これ以上進めば、外縁方面軍は貴艦を侵入艦として扱う』
声は硬い。
だが、殲滅を宣言する声ではなかった。
警告であり、線引きだった。
ジンは引かなかった。
「こちらにも進む理由がある。帝国本国へ向かう必要がある」
『帝国本国へ向かう理由を、外縁方面軍が承認する義務はない』
「なら、こちらも外縁方面軍の一方的な封鎖を受け入れる義務はない」
二人の声は静かだった。
だが、そこにある緊張は明確だった。
カイルが小さく呟く。
「話せるタイプだが、通すタイプじゃねえな」
黒瀬が一歩前へ出た。
「地球統合軍中央監査局、黒瀬です」
レオンの視線がわずかに動く。
『地球側の監査官か』
「はい。この艦の行動は、地球統合軍の監査下にあります。帝国側の一方的な分類で、侵入艦と断定されることは認められません」
オルフェンが薄く笑う。
『地球統合軍、ですか。あの辺境文明が、この規模の艦を監査していると?』
黒瀬の表情は変わらなかった。
「辺境かどうかは、帝国側の価値判断です。監査事実とは関係ありません」
カイルが小さく笑った。
「いいぞ、黒瀬さん」
黒瀬は反応しなかった。
レオンはオルフェンを制するように、一度だけ視線を向けた。
『監査官。つまり、地球側はこの艦を完全に放任しているわけではないのだな』
「その通りです」
『ノクス・レクイエムもか』
管制室の空気がわずかに硬くなる。
黒瀬は、あえて間を置かずに答えた。
「ノクス・レクイエムは、地球側監査下における制限付き運用対象です」
レオンの目が細くなる。
『制限付き運用対象』
「はい。危険性を否定していません。だからこそ、無制限運用は認めていません」
オルフェンが口を挟む。
『危険性を理解しているなら、なぜ破壊しないのです』
ユイの手が、わずかに動いた。
だが、黒瀬が先に答えた。
「危険物の破壊が、常に最善とは限りません。破壊による拡散、暴走、情報喪失、操縦者への影響。すべてを評価した上で、現時点では制限付き管理が妥当と判断しています」
オルフェンは不愉快そうに笑った。
『実に地球的な言い訳ですね』
「監査記録上は、合理的判断です」
黒瀬は淡々と返す。
レオンは、黒瀬を少しだけ見ていた。
それから、視線をユイへ移す。
『ユイ』
その名を呼ばれた瞬間、管制室の空気が変わった。
ユイは一歩前へ出る。
「はい」
『なぜ、ノクス・レクイエムを出さなかった』
その問いは、責めるものではなかった。
だが、逃げることも許さない問いだった。
ユイは静かに答えた。
「出せば、あなた達の観測対象になると分かっていたからです」
オルフェンの眉が動く。
レオンは否定しなかった。
『その通りだ』
『閣下』
オルフェンが不満げに声を挟む。
『それを認める必要はありません』
レオンは目を向けずに答えた。
『戦場で見えていることを隠しても意味はない』
オルフェンは口を閉じた。
だが、その表情から不満は消えていなかった。
レオンはユイを見る。
『お前は、恐れて出さなかったのか』
ユイは少しだけ考えた。
「恐怖もあります」
彼女は否定しなかった。
「ノクス・レクイエムは危険です。私自身も、完全に安全だとは思っていません」
『では、恐怖か』
「ですが、恐怖だけではありません」
ユイはレオンの視線を受け止める。
「出せるから出る。撃てるから撃つ。その判断に近づけば、ノクス・レクイエムは帝国が望む兵器に戻ります」
管制室は静かだった。
ユイの声は大きくない。
けれど、はっきりしていた。
「私は、出さないことを選びました」
レオンはしばらく黙っていた。
そして、短く言った。
『恐怖ではなく、判断か』
「恐怖も含めた判断です」
その答えに、レオンの表情がわずかに変わった。
『なるほど』
オルフェンが低く言う。
『裏切り個体の自己正当化に聞こえますが』
ユイは何も返さなかった。
代わりに、ジンが口を開く。
「少なくとも、こちらはノクス・レクイエムを出さなかった。その結果、あなた方の防衛線も、こちらの艦も、不要な被害を避けた」
レオンは頷く。
『それは認める』
オルフェンが再び不満を示す。
『閣下、認めすぎでは?』
『事実だ』
レオンの声は変わらない。
『ノクス・レクイエムが出れば、外縁防衛線の損害は拡大した可能性がある。ルクス側も同様だ。出さなかったことで、双方の被害は一定範囲に収まった』
黒瀬が静かに記録する。
「帝国外縁方面軍指揮官、ノクス・レクイエム非出撃による被害抑制効果を認める」
カイルが低く笑う。
「黒瀬さん、それ本人の前で記録するのか」
「必要な記録です」
レオンは、黒瀬の記録を咎めなかった。
むしろ、少しだけ興味を示したように見えた。
『監査官。お前達は、ユイをどう扱う』
黒瀬は即答しなかった。
その質問が、単なる形式ではないと分かったからだった。
「危険性を持つ協力者として扱います」
ユイは黒瀬を見る。
黒瀬は続けた。
「ただし、兵器としてのみ扱うつもりはありません」
レオンは沈黙した。
オルフェンが薄く笑う。
『甘いですね』
「甘さではありません」
黒瀬は答える。
「兵器としてのみ扱えば、本人意思を安全装置として使う現在の運用思想と矛盾します。ノクス・レクイエムを止めるためにも、ユイ本人を兵器として固定しないことが必要です」
リクトが小声で呟く。
「黒瀬さん、普通に理解進んでるな……」
三島が小さく頷く。
「現場監査ですから」
レオンは再びユイを見た。
『ユイ。お前が帝国から離れた理由は、今ここで問わない』
「……」
『だが、お前がノクス・レクイエムを持ったまま本国へ近づくなら、外縁方面軍は防衛線を開けるわけにはいかない』
「分かっています」
『ならば、退け』
レオンの声は強くなった。
『ここで引き返せ。ルクス・ヴァルキュリアがこれ以上進めば、次は外縁方面軍の全戦力で防衛行動を取る』
ジンが返す。
「こちらは引き返せない」
『理由を聞いても、こちらが承認するとは限らない』
「承認を求めているわけではない。だが、こちらにも帝国本国へ向かう理由がある」
レオンの目が鋭くなる。
『ユイのためか』
「ユイだけではない」
ジンは答えた。
「帝国の兵器、パルスティア、アミィ、ノクス・レクイエム、地球戦線、デッドエンドで見たNBの痕跡。帝国本国と向き合わなければならない理由が増えすぎている」
レオンは静かに聞いていた。
その時、レータが一歩動きかけた。
セレスティア反応について聞きたい。
アミィが近くにいるのか、確かめたい。
だが、ユイがわずかに手を上げて制した。
今、こちらから聞きすぎれば、手の内を見せる。
セレスティア反応を掴んだことも、アミィ本人反応の可能性に気づいたことも、相手に知られる。
それでも、レータの表情は揺れていた。
レオンは、そのわずかな動きを見逃さなかった。
『セレスティアを追うな』
管制室の空気が止まった。
レータが顔を上げる。
「……知っているの?」
レオンは、レータを見た。
『お前がレータか』
「そうよ」
『ならば、なおさらだ。セレスティアを追うな。あれは外縁方面軍の指揮下に完全にはない』
カイルの目が細くなる。
「完全には、か」
レオンは続けた。
『こちらの防衛線に反応が重なったことは把握している。だが、セレスティアの運用権限は外縁方面軍だけにあるわけではない』
オルフェンが不快そうにレオンを見る。
『閣下、それ以上は』
『必要な警告だ』
レオンは切り捨てた。
『セレスティアは、前線指揮の都合だけで動く機体ではない。本国の観測、命令補助、PT反応検出。複数の目的が重なっている』
ユイの表情が硬くなる。
「アミィは」
レオンはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えの一部は見えた。
『PT-A01が完全に本人意思だけで動いているとは言えない』
レータの手が震えた。
カナデが横に立つ。
レオンは続けた。
『だが、完全な命令機械とも言わない』
ユイは息を呑む。
『前回の戦闘で、お前達もそれを見たはずだ』
オルフェンが表情を消した。
『閣下』
『黙っていろ』
低い一言だった。
オルフェンは口を閉じる。
だが、その目には明確な不満があった。
レオンはジンへ視線を戻した。
『次にこの線を越えれば、こちらは再び防衛行動を取る』
画面に、外縁防衛線の座標が表示される。
グラトンとエリシオンが維持する停止線。
ルクス・ヴァルキュリアが現在いる位置。
その間に、明確な境界が引かれた。
『だが、今この瞬間は追撃しない』
ジンが目を細める。
「猶予か」
『停止線だ。停戦ではない』
「分かった」
『解析するなら、今のうちにしろ。次は同じ手では止めない』
カイルが鼻で笑う。
「親切だな」
レオンはカイルを見る。
『こちらも同じ手では済まないからだ』
「なるほどな」
ジンは短く頷いた。
「通信を受けた。ルクス・ヴァルキュリアは現時点で停止線を越えない。ただし、撤退はしない」
『ならば、次に話す時は、また戦場だ』
「そうなるかもしれない」
『そうならない道もある。だが、それを選ぶのは貴艦だ』
通信が切れる直前、レオンはもう一度だけユイを見た。
『ユイ。出さなかった選択は見た』
ユイは黙って受け止める。
『次に見るのは、その先だ』
通信が切れた。
管制室に、音が戻る。
警告音。
端末の操作音。
冷却系の低い駆動音。
しばらく誰も大きな声を出さなかった。
カイルが最初に口を開く。
「話は通じる。だが、通してはくれない」
ジンが頷く。
「前線指揮官としては筋が通っている」
黒瀬が記録をまとめる。
「帝国外縁方面軍より停止線提示。追撃なし。ただし停戦ではない。次回越境時、防衛行動再開。セレスティアは外縁方面軍の完全指揮下になし」
三島が言う。
「最後の情報は大きいですね」
「はい」
ユイは画面が消えた後も、しばらくそこを見ていた。
レオンは敵だ。
外縁防衛線を開ける気はない。
だが、オルフェンとは違う。
戦場を実験場としてだけ見ているわけではない。
そして、アミィについても完全には隠さなかった。
レータが小さく言う。
「セレスティアは、外縁のものじゃない」
カナデが頷く。
「つまり、アミィを追うなら、レオンだけを相手にしているわけではないということです」
リクトが端末を開く。
「解析を急ぐ。停止線を越えずに取れる情報は全部取るぞ」
ミオとイリスが同時に頷いた。
その頃、グラトン艦橋では、オルフェンが別の端末を開いていた。
通信回線は、レオンの指揮系統ではない。
本国監察局へ向かう秘匿回線。
オルフェンは、淡々と報告を入力する。
『ユイ個体はノクス・レクイエムを出撃させず』
続けて、次の文を打つ。
『出撃拒否は恐怖のみではなく、観測意図の理解による判断と推定』
彼の指が止まる。
そして、少しだけ口元を歪めた。
『セレスティア反応への反応確認は未完』
さらに続ける。
『PT-L個体、PT-Y個体に反応あり。追加圧力が必要』
送信。
オルフェンは端末を閉じた。
前線の盾は、一度止まった。
だが、実験を止めるつもりはなかった。
外縁の停止線は、戦いの終わりではない。
次に何を揺らせば、彼女達が動くのか。
それを確かめるための時間が、静かに始まっていた。




