第213話 撤退線の記録
ルクス・ヴァルキュリアの格納庫に、帰還警告灯が灯った。
最初に戻ってきたのは、アルタイル・ノヴァ・ブレイスだった。
白と蒼青の機体は、出撃前より明らかに傷ついていた。
右肩の装甲は砕け、支援ラインの一部が不安定に明滅している。
右腕部の関節にも負荷が出ており、固定アームが機体を受け止めた瞬間、警告表示がいくつも流れた。
『アルタイル・ノヴァ・ブレイス、帰還。肩部装甲損傷。右腕部負荷上昇。支援ライン、一部不安定』
続いて、ルナ・スケイル・リフレクトが戻る。
薄藍と真珠色の装甲に大きな損傷はない。
だが、鱗状の支援パネルは熱を持ち、淡金の反射ラインがところどころ鈍く光っていた。
『ルナ・スケイル・リフレクト、帰還。支援パネル過熱。冷却処理へ移行』
ヴァナルガンドは、脚部装甲を浅く裂かれていた。
動けないほどではない。
むしろ、レイの操縦でなければもっと大きくやられていたはずだった。
『ヴァナルガンド、帰還。脚部装甲損傷。駆動系、戦闘継続可能範囲』
フェンリオン・リサイトは、外装損傷こそ少ないが、弾体消費が多かった。
狙撃で撃ち抜くためではなく、敵の位置を動かすために撃った結果だった。
『フェンリオン・リサイト、帰還。弾体消費増。照準補助系、正常』
最後に、レイヴン・ハウルが滑り込むように格納庫へ戻ってきた。
黒紫の装甲には細かい傷が走っている。
だが、それ以上に外周戦闘データの量が多かった。
『レイヴン・ハウル、帰還。外装軽微損傷。外周戦闘データ、保存完了』
格納庫の空気は重かった。
全機、戻ってきた。
それは間違いなく良いことだった。
誰も失っていない。
ノクス・レクイエムも出していない。
それでも、前線から戻った機体の傷は、外縁防衛線の厚さをはっきりと示していた。
カイトは操縦席から降りると、アルタイル・ノヴァ・ブレイスを見上げた。
「……退いた」
ぽつりと漏れた声は、自分でも思った以上に重かった。
勝てなかった。
突破できなかった。
エリシオンを崩せず、ヘルメスに支援線を乱され、一度下がるしかなかった。
それが正しい判断だと分かっていても、悔しさは消えなかった。
ミオが近くへ歩いてくる。
彼女も少し疲れているように見えた。
ルナ・スケイル・リフレクトの支援網を細分化し続けた負荷が、本人にも残っているのだろう。
「カイト。撤退判断は間違っていません」
「分かってる」
カイトは短く答えた。
「分かってるけど、悔しい」
ミオは少しだけ目を伏せた。
「はい。私もです」
その言葉に、カイトは彼女を見た。
ミオは穏やかに見える。
けれど、何も感じていないわけではない。
「支援網を保ちきれませんでした。ヘルメスに何度もずらされました」
「ミオのせいじゃないだろ」
「カイトのせいでもありません」
静かな返答だった。
カイトは何も言えなくなる。
少し離れたところでは、レイがヴァナルガンドの脚部損傷を見ていた。
「浅いな」
整備員が困ったように言う。
「浅いって言える損傷じゃないんですが」
「動けるなら浅い」
「基準が雑です」
セラはフェンリオン・リサイトの弾体消費記録を確認していた。
撃破数は多くない。
だが、敵の位置をずらし、ヘルメスの進路候補を一つ潰した記録は残っている。
カイルはレイヴン・ハウルから降りると、肩を回した。
「いやあ、ヘルメスは速いな。追う気にならん」
アシュが整備デッキから見下ろす。
「追ったら死ぬ」
「分かってる。だから追ってねえ」
「追いたそうだった」
「男にはな、追いたくなる背中ってもんがあるんだよ」
「死ぬぞ」
「だから追ってねえって」
軽口はある。
だが、誰も勝ったとは思っていなかった。
管制室では、戦闘記録の一次整理が始まっていた。
黒瀬は端末を前に、記録をまとめている。
三島が隣で損傷報告を照合していた。
「外縁防衛線第一接触、撤退」
三島が確認するように言う。
「表現はそれでよろしいですか」
「はい」
黒瀬は即答した。
「ただし、敗北とは記録しません」
ジンが視線を向ける。
「理由は」
「ノクス・レクイエムを出撃させず、エリシオンの防衛指示経路、ヘルメスの支援線撹乱、通常GDカスタムの運用を確認しました」
黒瀬は淡々と続ける。
「撤退は敗北ではありません。ノクス・レクイエムを出さずに、エリシオンとヘルメスの戦術データを得た。それは成果です」
ジンは短く頷いた。
「その記録でいい」
ユイは後方席で、その言葉を聞いていた。
成果。
そう言われても、すぐには受け取れなかった。
カイト達は傷ついた。
ミオは支援パネルを過熱させた。
レイも、セラも、カイルも無傷ではない。
自分が出なかったから。
ノクス・レクイエムを出していれば、少なくとも防衛線を揺らすことはできたかもしれない。
その考えが、胸の奥に沈みかけた時だった。
「ユイ」
カナデの声がした。
ユイは顔を上げる。
「今、“自分が出なかったせいで”と考えましたね」
ユイは一瞬だけ黙った。
「……はい」
「それは事実ではありません」
カナデの声は優しい。
だが、曖昧ではなかった。
「あなたが出なかったから、全員が損傷したのではありません。敵が強く、こちらが情報を持っていなかったから損傷したのです」
「でも、私が出ていれば」
「別の損傷が出た可能性があります」
ユイは言葉を止めた。
「ノクス・レクイエムを出せば、防衛線は揺れたかもしれません。ですが、ヘルメスに支援導線を乱された状態で出撃すれば、ベント排出方向やカイトの支援補助に危険が出ました。あなた自身の負荷も上がっていました」
カナデは端末の反応記録を示す。
「今回の待機判断は、前線を見捨てた判断ではありません。敵の観測誘導に乗らないための判断です」
黒瀬も静かに言った。
「監査記録上も同じ判断です。ノクス・レクイエムの非出撃は、危険回避および敵観測目的の阻害として妥当でした」
ユイは、黒瀬を見る。
以前の黒瀬なら、ノクス・レクイエムを出さなかった事実だけを安全側に記録していたかもしれない。
だが今の黒瀬は、それを戦術判断として扱っている。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる内容ではありません。事実です」
黒瀬はいつも通りの硬い声で答えた。
リクトが解析画面を大きく開く。
「では、事実をもう少し増やす。戦闘記録の解析に入るぞ」
画面に、エリシオンを中心とした防衛線の再現図が表示された。
白灰と金の機体を中心に、GD部隊、固定砲台、迎撃機、中継点が複雑に繋がっている。
「まず、エリシオン」
リクトが言う。
「こいつは単体の盾じゃない。防衛線全体を盾にする機体だ。本体を狙っても簡単には崩れない。周囲の中継点と補助指示経路を使って、前衛、砲台、迎撃機を動かしている」
ミオが補足する。
「こちらが正面から押すほど、エリシオンの得意な形になります。突破口に見える場所も、実際には誘導された射線交差点でした」
イリスが記録波形を重ねる。
「防衛指示は、一定ではありません。こちらが焦って前へ出る時ほど強くなります。感情反応を読んでいるわけではありませんが、行動傾向は読まれていました」
カイトは格納庫から通信で解析に参加していた。
『……俺のことですね』
「あなた一人だけではありません」
ミオがすぐに返す。
「ですが、カイトの前進傾向は何度か利用されました」
『はっきり言うなあ』
「必要です」
『はい』
カナデが穏やかに続ける。
「焦りは悪ではありません。ただ、読まれると弱点になります。次は、焦った時にどう止まるかを考えましょう」
『了解です』
リクトは次の画面を開いた。
「次、ヘルメス」
表示上の青白い軌跡が、戦場の外側を走る。
それは、敵機を直接狙った軌道ではない。
支援リンクの外周。
撤退線。
補給・回収ライン。
ノクス・レクイエムを出すために必要だった安全領域。
それらを、かすめるように通っている。
「ヘルメスは正面戦闘を避ける。支援リンク、撤退路、補給線をかすめて、味方の位置をずらす。特に厄介なのは、ノクス・レクイエムを出すための安全領域を、出撃前に荒らしてきたことだ」
アシュが短く言う。
「見えてる」
「何がだ」
リクトが聞く。
「ノクスを出す手順だ。全部ではない。でも、出すために必要な線を見ている」
管制室が静かになる。
ノクス・レクイエムはまだ出ていない。
それでも、敵は出撃準備に必要な要素を乱してきた。
つまり、帝国側はノクス・レクイエムの危険性だけでなく、こちらがどう安全に扱おうとしているかも観測しようとしている。
黒瀬が端末に追記する。
「ノクス・レクイエム出撃準備手順の秘匿強化が必要ですね」
「はい」
リクトは頷いた。
「次に出すなら、ベント排出方向、カイトの支援リンク、ミオの支援網、監視ラインを複数の偽経路で隠す必要がある」
ミオが画面を操作する。
「ただし、ヘルメスは止められないわけではありません。直接追うのは危険ですが、進路候補を潰すことはできました。セラとレイの連携で、一度だけ進路を変えさせています」
セラの通信が入る。
『ヘルメス本体を狙ったわけではありません。次に通るための場所を撃ちました』
レイも続ける。
『セラが道を消したから、次の道に先回りできた。あいつは速い。でも、全部の場所を同時には通れない』
カイルが笑う。
『そういうことだ。速い奴ほど、選ぶ道を間違えた時に面倒になる』
リクトは頷いた。
「対ヘルメス方針。追うな。進路候補を潰せ。支援リンクは一本化せず、ミオの分散方式を基本にする」
黒瀬が記録する。
「了解しました」
そこで、イリスが別の画面を開いた。
「それと、問題の反応です」
空気が変わる。
表示されたのは、ヘルメス隊の軌跡ではなかった。
戦場の外縁。
防衛線の奥とも、横とも言い切れない位置。
そこに、一瞬だけ重なった微弱な波形。
ミオが静かに言う。
「ヘルメス隊通信に混ざったものではありません。通信波ではなく、支援リンクに似た感応波です」
リクトが解析結果を確認する。
「セレスティア反応に近い。だが完全一致ではない」
レータが、画面を見つめたまま動かなくなった。
「……アミィ?」
その声は、とても小さかった。
ユイも画面を見る。
セレスティア。
PT-A01。
アミィ。
完全な命令だけで動いているようには見えなかった少女。
けれど、こちらの前に敵として現れた存在。
イリスが慎重に言う。
「アミィ本人の反応か、セレスティアの支援波かは分かりません。命令層に近い反応も混じっています。でも、一瞬だけ、揺れ方が違いました」
「揺れ方?」
カイトが通信越しに聞く。
「はい。同じ命令反応ではありません。似ていますが、完全には重なっていません」
レータが画面に一歩近づく。
「アミィが近くにいるなら、放っておけない」
その声には、いつもの軽さがなかった。
ユイはすぐに言った。
「近くにいるとは限りません」
レータが振り向く。
「ユイ」
「呼ばせるための偽反応の可能性もあります。セレスティア反応に似せた誘導かもしれません」
「でも、アミィかもしれない」
「はい」
ユイは否定しなかった。
「だから、確認が必要です。でも、急いで飛び込めば、ヘルメスやエリシオンと同じように誘導されます」
レータは唇を結んだ。
分かっている。
分かっていても、すぐに動きたくなる。
アミィは、自分の不在後に作られた存在。
A系列。
レータがいなくなった後、帝国が空白を埋めるために作った子。
責任ではない。
そう言われても、胸が痛む。
カナデがレータの横に立った。
「レータ。今、あなたは責任を感じていますね」
「……感じちゃ悪い?」
「悪くはありません」
カナデは静かに言った。
「ただし、責任感だけで動くと、相手が作った道に入ります」
レータは苦く笑った。
「今日、それ何回も聞いてる気がする」
「それだけ相手が、こちらの感情や判断を誘導しているということです」
レータは画面へ視線を戻した。
「分かってる。今すぐ飛び込んだりはしない」
「はい」
「でも、放っておく気もない」
ユイが頷いた。
「それは、私も同じです」
黒瀬が端末を操作する。
「PT-A01アミィ、もしくはGD-PT-A01セレスティア由来と推定される微弱反応を記録。現時点では敵性戦力反応。ただし、本人反応の可能性を否定せず。次回接触時、命令層と本人反応の切り分けを優先確認対象とします」
三島が顔を上げる。
「救出対象、とは記録しないのですか」
「現時点では情報不足です」
黒瀬は答える。
「ですが、単なる撃破対象とも記録しません」
ユイは、その言葉を静かに受け止めた。
敵。
兵器。
危険個体。
それだけで終わらせない記録。
少しずつだが、地球側の記録も変わっている。
リクトが腕を組む。
「問題は、この反応がどこから来たかだ。防衛線の奥か、別動隊か、あるいは通信中継だけを飛ばしたのか」
アシュが短く言う。
「外縁は線じゃない。層だ」
「つまり?」
「正面にグラトンとエリシオン。横にメルクリウスとヘルメス。奥に別の支援系がいる可能性がある」
ミオが頷く。
「セレスティアが正面にいなくても、支援波だけを重ねることは可能かもしれません」
イリスが小さく付け加える。
「でも、今の反応は遠すぎる感じではありませんでした。完全な中継だけではないと思います」
レータの表情が少しだけ強張る。
「近いのね」
「可能性です」
ユイがもう一度釘を刺す。
「可能性で動くのは危険です」
「分かってる」
レータは深く息を吐いた。
「分かってるけど、可能性があるなら、準備はする」
カナデは頷いた。
「それなら良い判断です」
ジンが全体を見回した。
「次の方針を整理する。第一に、エリシオン防衛線への正面突破は現時点で保留。第二に、ヘルメス対策として支援リンクの分散化と進路候補封鎖を準備。第三に、セレスティア反応の追跡。ただし、誘導の可能性を前提とする」
「了解」
リクト、ミオ、イリスが同時に答える。
黒瀬が記録を確定する。
「外縁防衛線第一接触記録、一次整理完了。次回接触までに、敵防衛線指揮経路、ヘルメス高速撹乱、セレスティア反応の三点を重点解析対象とします」
その時だった。
管制室に、通信警告が入った。
『帝国側より通信要求』
オペレーターの声に、全員の視線が前方表示へ向く。
ジンが眉を動かす。
「グラトンか」
『発信元、ドレッドノート級殲滅艦グラトン。通信形式、正式軍用回線。発信者名を確認』
短いノイズの後、低く整った声が入る。
『こちら、帝国外縁方面軍』
画面に、帝国軍の識別紋が浮かび上がる。
『レオン・グレイスナー。ルクス・ヴァルキュリア艦長へ通信を要求する』
管制室に、静けさが落ちた。
外縁防衛線は、まだ閉ざされている。
戦闘が終わったわけではない。
停戦が成立したわけでもない。
ただ、互いに一度退き、互いに相手を見た。
その上で、帝国の盾を率いる男が、言葉を求めてきた。
ジンはゆっくりと息を吐いた。
「通信を開け」
次に来るのは、砲撃ではない。
だが、戦いであることに変わりはなかった。




