第196話 再出航
太陽系の空は、静かだった。
ルクス・ヴァルキュリアの外部装甲に、地球の青い光が薄く反射している。
巨大すぎる艦体は、軌道上に浮かぶというより、そこに一つの大陸が置かれているようにも見えた。
その内側では、出航準備を告げる低い警告音が、各区画に流れていた。
『外部補給ライン、切離し準備完了』
『クロウヴェイル・ノア、ノア・ドック接続確認』
『各格納庫、機体固定完了』
『ノクス・レクイエム、隔離運用区画より限定出撃登録へ移行』
管制室に並ぶ表示を見ながら、ジンは短く息を吐いた。
「これで、また外へ出ることになるな」
その横で、黒瀬が端末を確認していた。
ルクス・ヴァルキュリアには、地球統合軍中央監査局の黒瀬と三島も引き続き乗艦していた。
名目は、ノクス・レクイエム運用とPT個体群の継続監査。
そして、帝国技術の回収・使用状況を地球側へ記録するためでもある。
ルクス・ヴァルキュリアを信用していないわけではない。
ただし、地球側が完全に手を離してよい存在でもなかった。
表情はいつも通り硬い。だが、以前のような一方的な警戒だけではない。
確認すべきものを確認し、危険を危険として扱う。そのための顔だった。
「ルクス・ヴァルキュリアの再出航を承認します。ただし、ノクス・レクイエムの運用については、条件を再確認します」
黒瀬の声に、管制室の空気がわずかに引き締まった。
三島が隣で記録端末を開く。
「ノクス・レクイエム初期型。運用許可範囲は、通常機動、短時間の限定戦闘、低出力ベントの待機排出、本人意思認証による起動と停止。禁止事項は、レクイエム級出力の全開放、レクイエム・アンカーの完全使用、ベントの連続全開排出、長時間戦闘、単独長距離出撃」
「そして、帝国式認証網への接続も禁止です」
黒瀬が続けた。
「ノクス・リリス旧データを主制御へ直結することも認めません。異常兆候が出た場合は、即時停止、または中核部の強制離脱を優先します」
その言葉に、ユイは静かに頷いた。
「了解しています」
感情の薄い声だった。
だが、そこに拒絶はなかった。
隣に立つカイトは、彼女の横顔を見た。
ユイはもう、帝国に戻るためにノクス・リリスへ乗るわけではない。
過去を捨てるためにノクス・レクイエムへ乗るわけでもない。
抱えたまま、止まるために乗る。
それが、この機体の意味だった。
リクトが別の画面を操作しながら言った。
「アルタイル・ノヴァ・ブレイスについても確認する。現時点では正式完成機ではない。あくまで支援リンク試験段階だ。ノクス・レクイエムの出力を押さえ込む機体じゃない」
「支える機体、だな」
タツヤが腕を組んで、少し不満そうに言う。
「正直、整備班としては完成と言い切りたくねえ。接続補助、排出方向補正、姿勢制御の外部支援。できることは増えたが、どれもまだ試験運用だ。カイト、お前も勘違いするなよ。無茶して前に出れば、支えるどころかまとめて吹っ飛ぶ」
「分かってます」
カイトは頷いた。
以前なら、少し言い返していたかもしれない。
けれど今は、そうする気にはならなかった。
ノクス・レクイエムは強い。
強すぎる。
だからこそ、カイトの役目は前に出て止めることではない。
ユイが止まれる場所を作ることだった。
カナデが、ユイの生体反応と同期深度を確認する。
「ユイ。今の状態で不調はありますか」
「ありません。……少し、重いだけです」
「機体が?」
「いえ」
ユイは少しだけ目を伏せた。
「乗る意味が」
管制室に、一瞬だけ静けさが落ちた。
誰も軽く頷けなかった。
それは正しい反応だった。
ノクス・レクイエムは、ただの新型機ではない。
ネメシス・レクイエムの残骸と、ノクス・リリスの過去と、ユイ本人の意思を、無理やり同じ場所に置いた機体だ。
軽いはずがなかった。
カイトはユイの隣に立ったまま、小さく言った。
「勝つためだけに出るんじゃない」
ユイがカイトを見る。
「うん」
「危なくなったら、止まる。撃てるから撃つんじゃなくて、撃たないって選べるようにする。俺は、そのために隣にいる」
ユイはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……カイトらしいです」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
小さなやり取りに、三島が少しだけ目を細めた。
黒瀬は表情を変えなかったが、端末への入力を一拍遅らせた。
「記録します」
黒瀬が言った。
「ここから先は、監査記録ではありません。戦闘記録です」
三島が顔を上げる。
「監査官」
「我々は引き続き記録します。しかし、現場判断は艦長と作戦指揮に委ねます。監査のために生存判断を遅らせることは認められません」
ジンが黒瀬を見る。
「助かる」
「誤解しないでください。危険性を軽視したわけではありません」
「分かっている」
ジンは短く答えた。
「だから助かると言った」
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
艦内放送が切り替わる。
『全区画、出航態勢へ移行』
『地球統合軍外部補給艦、離脱完了』
『ルクス・ヴァルキュリア、主推進器低出力起動』
『航路設定、帝国外縁方面』
巨大な艦体が、ゆっくりと地球の軌道を離れ始めた。
格納庫では、アルタイル・ノヴァが支援装備を固定されていた。
白と蒼青の機体に、淡白銀の支援ラインがまだ仮設のように走っている。
完成した強化形態というより、これから戦場で答えを探すための姿だった。
その隣の隔離区画では、ノクス・レクイエムが静かに眠っていた。
黒灰の外殻。
白銀のフレーム。
紅紫の制御光。
そして、薄紫白の本人意思認証光。
その光は、命令ではなく、ユイ本人の意思を待つように淡く脈打っていた。
アシュが整備用足場の上から、その光を見下ろしていた。
「まだ危ないな」
リンが隣で工具を閉じる。
「危なくないなら、ここまで監視しない」
「だろうな」
アシュは短く答えた。
「だが、前よりはましだ。食われてない」
リンはノクス・レクイエムの中核部を見る。
「ユイが中にいるから?」
「違う」
アシュは首を振った。
「ユイが、外に戻るつもりで乗っているからだ」
リンは少しだけ黙った。
それから、短く頷いた。
「なら、戻れるように整備する」
「ああ」
格納庫の奥で、警告灯が青へ変わった。
ルクス・ヴァルキュリアは太陽系を離れる。
補給と休息の時間は終わった。
日常は、艦内の奥へしまわれる。
次に待つのは、帝国の外縁だった。
そして、帝国外縁方面。
深い黒を基調とした巨大艦が、星のない宙域に浮かんでいた。
ドレッドノート級殲滅艦『グラトン』。
装甲は厚く、艦首は巨大な砲口のように前方へ伸びている。
単独でも戦局を変えられる火力を持つ艦。
だが、その艦橋に立つ男は、火力だけで戦場を見てはいなかった。
レオンは、正面の戦術表示を見つめていた。
「ルクス・ヴァルキュリア、航路を確定。帝国外縁防衛線へ接近中です」
副官クラウス・ベルガーが報告する。
声は冷静で、余計な感情を混ぜない。
「随伴反応は」
「大型艦一。外部接続反応あり。クロウヴェイル・ノアと推定されます。また、内部に複数の高出力機動兵器反応。ノクス・レクイエムと思われる反応は、現在低出力待機状態」
「出してはいるが、前には出していないか」
レオンは小さく呟いた。
「慎重だな」
艦橋後方で、別の男が薄く笑った。
帝国本国から派遣された監察官、オルフェン・グラードだった。
「慎重なのではありません。恐れているのですよ。あの機体を。あの個体を。だからこそ、本国は正確な反応記録を求めています」
レオンは振り返らなかった。
「記録は取れ。だが、戦場を実験場にするな」
「閣下は相変わらずですね。対象は裏切り個体です。しかも、レクイエム級残骸を運用している。観測し、分類し、必要なら回収する。それが本国の命令です」
「俺が受けた命令は、外縁防衛線の維持だ」
「同時に、ユイ個体およびノクス・レクイエムの反応確認も含まれています」
「なら、戦場で確認する」
レオンの声は低かった。
「書類の中ではなく、正面からだ」
クラウスが一瞬だけ視線を上げたが、何も言わなかった。
艦橋の大型表示に、格納庫の映像が映る。
そこには、白灰と金、そして黒鉄の装甲を持つ機体が固定されていた。
GD-NM-03 エリシオン。
指揮防御型特殊GD。
レオンのために用意された、帝国前線の盾。
その近くの別表示には、別部隊の登録名が小さく表示されている。
高速機動試験隊。
高速巡航母艦『メルクリウス』。
GD-NM-01 ヘルメス。
クラウスが確認する。
「メルクリウス隊は外側航路で待機中。リュカ・ヴァレンより、いつでも撹乱に移れるとの通信です」
「まだ動かすな」
レオンは即答した。
「最初から戦場を乱しすぎる必要はない。こちらの防衛線を見せる」
「了解」
オルフェンが肩をすくめた。
「悠長なことです」
「必要以上に急ぐ戦いは、必要以上に壊れる」
レオンは戦術表示へ向き直る。
「グラトン、前進。外縁防衛線を展開しろ。主砲は待機。先制殲滅射撃は許可しない」
クラウスが復唱する。
「グラトン前進。外縁防衛線展開。主砲待機。先制殲滅射撃、不可」
レオンは、表示の向こうにいるはずの巨大艦を見据えた。
ルクス・ヴァルキュリア。
その中にいる、かつて帝国が作った少女。
そして、帝国の残骸から作られた機体。
「ユイ」
レオンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「お前がその機体で何を選んだのか、見せてもらう」
ドレッドノート級殲滅艦『グラトン』の艦首が、静かにルクス・ヴァルキュリアの進路へ向けられた。
帝国外縁防衛線。
その最初の戦場が、開かれようとしていた。




