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第195話 出発前の一日

 太陽系の地球へ戻ってから、ルクス・ヴァルキュリアの艦内には久しぶりに地球側の物資が入っていた。

 補給コンテナ。

 整備用部材。

 医療品。

 予備食料。

 艦内生活用品。

 そして、乗員達が密かに一番喜んでいたのは、地球側の食材だった。

 戦艦の中でも食事は出る。

 栄養は足りている。

 長期航行に耐えるだけの備蓄もある。

 だが、補給品として届いた地球の食材には、栄養だけではない何かがあった。

 食堂の空気は、いつもより少しだけ明るい。

 整備班の一人が、久しぶりに見る銘柄の飲み物を手にして笑っている。

 医療班の者達が、補給された茶葉を確認している。

 地球側から来た整備士達も、ルクス側の乗員達と同じテーブルに座っていた。

 大きな戦闘の前ではない。

 だが、出発前の静かな一日だった。

 セラは食堂の端で、皿の上に置かれた小さな菓子をじっと見ていた。

 ミオがその様子に気づき、首を傾げる。

「セラ、それ好きなんですか?」

 セラは少しだけ間を置いた。

「分からない」

「分からない?」

「甘いものは、あまり選ばなかった」

 そう言いながらも、セラは菓子から目を離さない。

 ミオは少し笑って、自分の皿から同じものを一つ取った。

「じゃあ、試してみましょう。嫌なら残してもいいですから」

「残すのはよくない」

「無理して食べる方がよくないですよ」

 セラは少しだけ考え、菓子を一口食べた。

 表情は変わらない。

 だが、動きが止まった。

 ミオが尋ねる。

「どうですか?」

「甘い」

「それはそうですね」

「……嫌ではない」

 セラはもう一口食べた。

 ミオは嬉しそうに微笑む。

「なら、好き寄りですね」

「好き寄り」

 セラはその言葉を繰り返し、少しだけ考え込んだ。

「好き、と言っていいのか」

「いいんですよ。好きなものが増えるのは悪いことじゃありません」

 セラは菓子を見つめた。

 撃つこと。

 狙うこと。

 命令をこなすこと。

 そういうものではない、ただ甘いだけのもの。

 それを好きと言っていいのか、まだ少し迷う。

 だが、ミオはそれを当たり前のように受け止めている。

 セラは小さく呟いた。

「では、これは好き寄り」

「はい。記録しておきます」

「記録はしなくていい」

 ミオが笑うと、セラもほんの少しだけ目を細めた。

 少し離れた席では、レイとアシュが向かい合っていた。

 どちらも食事中だが、会話は少ない。

 レイは黙々と食べている。

 アシュは片手で端末を見ながら、もう片方の手で食事を取っていた。

 レイが静かに言う。

「休まないのか」

 アシュは端末から目を離さない。

「休んでいる」

「端末を見ながらか」

「目は休んでいないが、足は休んでいる」

「それは休息と言えるのか」

「言い方次第だ」

 レイはしばらくアシュを見ていた。

 それから、自分の皿から一品を取って、アシュの前に置いた。

「食え」

「食べている」

「減っていない」

 アシュは皿を見る。

 確かに、端末に集中していてほとんど減っていなかった。

「……分かった」

 アシュは端末を伏せた。

 レイは何も言わない。

 ただ、それを確認してから自分の食事を再開した。

 アシュは少しだけ不服そうに見えたが、結局食べ始めた。

 しばらくして、彼がぽつりと言う。

「お前は休めているのか」

 レイは短く答えた。

「食べている」

「答えになっているのか」

「お前よりは」

 アシュは少しだけ眉を寄せた。

 だが、反論はしなかった。

 二人の間に、静かな沈黙が戻る。

 それは気まずいものではない。

 戦場で長く生きてきた者同士が、互いに言葉少なく休息を確認する時間だった。

 整備区画では、リンがノクス・レクイエム関連のログを確認していた。

 彼女は工具を持っていない。

 それでも、画面に表示される帝国式認証痕や命令層反応を、黙って追い続けている。

 そこへグリッドがやって来た。

「また見てるのか」

 リンは画面から目を離さない。

「異常が出るかもしれない」

「今は出てない」

「出る前に見る」

「休む前に飯を食え」

 リンはようやくグリッドを見た。

「私は整備士じゃない」

「知ってる」

「なら、整備班の食事命令は受けない」

「命令じゃない。差し入れだ」

 グリッドは持っていた包みを作業台に置いた。

 中には、食堂から持ってきた軽食が入っていた。

 リンはそれを見て、少しだけ沈黙する。

「今は必要ない」

「必要かどうかは食ってから判断しろ」

「それは論理がおかしい」

「俺は整備士だ。論理より稼働率を見る」

 リンは包みを見つめた。

 そして、端末を一度閉じる。

「五分だけ」

「十分食え」

「六分」

「八分」

「七分」

「よし、成立だ」

 グリッドは満足そうに頷いた。

 リンは納得していない顔をしながらも、軽食を手に取る。

 それを見て、近くの整備員が小さく笑った。

 リンはそちらを見る。

「何」

「いえ。休憩も必要だなと」

「私は休憩していない。監視の中断」

 グリッドが低く笑う。

「じゃあ、監視の中断中に食え」

 リンは何か言い返そうとしたが、結局黙って食べ始めた。

 解析室では、ナユとイリスが向かい合っていた。

 今日はアンノウン関連の解析は禁止されている。

 カナデと三島から、休息日の解析制限が出ていた。

 だが、イリスは端末を前にしている。

 ナユはその画面を覗き込んだ。

「何をしているんですか?」

「記録しない項目の整理です」

「記録しない項目を記録しているんですか?」

「はい」

 ナユは少し困った顔をした。

「それは、記録しているのでは?」

 イリスは真面目に考え込む。

「矛盾していますか」

「少し」

「では、分類を変更します。記録保留項目」

「それも、記録していると思います」

 イリスはさらに考える。

 ナユは少し笑った。

「これは、記録しなくていい音です」

「音?」

 ナユは食堂から漏れてくる小さな話し声や、整備区画の遠い作業音、艦内放送の柔らかい通知音に耳を澄ませた。

「誰かが普通に話している音です。急いでいない足音です。食器の音。笑った声。そういう音です」

 イリスは端末を見る。

「艦内生活音として記録できます」

「しなくていいです」

「なぜですか」

「聞いていればいいからです」

 イリスは、端末から手を離した。

 しばらく、二人で何も言わずに艦内の音を聞いた。

 解析室の空調音。

 遠くの話し声。

 通路を歩く誰かの足音。

 戦闘警報ではない。

 緊急放送でもない。

 ただ、人がそこで生活している音。

 イリスは静かに言った。

「記録しない音、という分類は難しいです」

「分類しなくていいです」

「分類しない分類……」

「考えすぎです」

 ナユが少し笑うと、イリスもほんのわずかに表情を緩めた。

「では、今日は聞くだけにします」

「はい。それがいいと思います」

 会議室の一角では、三島が休息日の乗員状態を確認していた。

 表示されているのは、勤務交代表、医療区画の負荷報告、整備班の休息時間、試験参加者の疲労度。

 そこへカナデが入ってくる。

「三島さん」

「はい」

「休息日ですよ」

「休息状況を記録しています」

「三島さん自身の休息状況は?」

 三島の手が止まった。

 わずかな沈黙。

 カナデは穏やかに待つ。

 三島は端末に新しい項目を追加した。

「監査官本人の休息状況。未記録」

「未記録ではなく、未実施では?」

「……修正します」

 三島は項目を書き換えた。

 監査官本人の休息状況。未実施。

 カナデは小さく笑った。

「では、実施してください」

「今すぐですか」

「今すぐです」

「報告整理が残っています」

「休息も報告整理の一部です。疲労した状態で作った報告は、精度が落ちます」

 三島は反論しようとして、やめた。

「合理的です」

「でしょう」

「では、十五分休みます」

「三十分」

「二十分」

「三十分」

「……分かりました」

 三島は端末を閉じた。

 その動作は少し名残惜しそうだった。

 カナデはそれを見て、柔らかく言う。

「記録は責めるためだけのものではないんですよね」

 三島は少しだけ目を伏せた。

「はい。危険を見落とさないためのものです」

「なら、自分の疲れも見落とさないでください」

 三島は小さく頷いた。

「記録します」

「休んでからでいいです」

「……はい」

 その頃、展望区画にはカイルとカイトがいた。

 ユイはカナデとの確認で少し離れている。

 カイルは地球を見下ろしながら、地球側の飲み物を片手にしていた。

「いい星だな」

 カイトは隣に立つ。

「前にも言ってましたね」

「何度見ても、いい星はいい星だ」

「でも、カイルさんの帰る場所じゃない」

「ああ」

 カイルはあっさり頷く。

「ここはお前達の故郷だ。俺の母港じゃない」

「寂しくはないんですか」

「ないと言えば嘘になるかもしれないな」

 カイトは少し意外そうに見る。

 カイルは軽く笑った。

「俺だって人間だ。綺麗な星を見て何も思わないわけじゃない。ただ、俺達は止まるために船を持っているわけじゃない」

「次へ行くためですか」

「そうだ」

 カイルは地球を見たまま続ける。

「ラスト・オーダーは、拾えるものを拾って、持ち帰れるものを持ち帰って、仕事が終われば次へ行く。そういう船だ」

「それでいいんですか」

「俺にはそれが合ってる」

 カイルはカイトを見る。

「お前は違うだろう」

「俺ですか」

「お前は戻る場所を作る側だ。ユイも、たぶんそうだ」

 カイトは少し黙った。

「戻る場所を作る……」

「重いか?」

「少し」

「なら、ちょうどいい。軽すぎると忘れる」

 カイルは飲み物を一口飲み、顔をしかめた。

「甘いな、これ」

「それ、ユイも言ってました」

「お前達、同じもの飲んでたのか」

「まあ」

 カイルは少しニヤリと笑う。

「なるほどな」

「何ですか」

「いや、若いなと思ってな」

「またそれですか」

「年上の特権だ」

 カイトは少し困ったように笑った。

 カイルは地球へ視線を戻す。

「カイト」

「はい」

「次の戦場は、たぶん重くなる。帝国本国方面へ近づくなら、今までみたいに各“地球”を巡るだけでは済まない」

「分かっています」

「だから、こういう日を覚えておけ」

 カイルは軽く容器を掲げた。

「甘すぎる飲み物でも、妙に静かな展望区画でも、誰かが笑っていた食堂でもいい。戻る理由は、大きなものばかりじゃなくていい」

 カイトはその言葉を受け止める。

「はい」

「ま、俺は面白そうならまた来る。仕事があれば当然来る。仕事がなくても、気が向けば来る」

「それ、地球側に言ったら困られそうですね」

「だからお前にだけ言っている」

 カイルは軽く笑った。

 食堂では、セラが二つ目の菓子を手に取るかどうかでまだ迷っていた。

 ミオはそれを見ながら、何も言わずに隣へ置いた。

 レイとアシュは、ようやく食事を終えていた。

 リンは七分の休憩を八分に延長されていた。

 ナユとイリスは、記録しない音を聞いていた。

 三島はカナデに連れられて、強制的に休憩へ入った。

 それぞれが、それぞれの形で休んでいる。

 戦闘のない時間。

 命令のない時間。

 報告書でも、機体図面でも、作戦計画でもない時間。

 だが、それは無駄ではなかった。

 むしろ、次へ進むために必要なものだった。

 夕刻、艦内放送が静かに流れた。

『各班へ通達。明日より、帝国支配圏外縁に向けた出発準備を開始する。補給、整備、機体再編成、監査記録の最終確認を進めること』

 ジンの声だった。

『本日は予定通り休息を優先。繰り返す。本日は休息を優先せよ』

 食堂にいた整備員達が、少しだけ笑った。

「艦長命令なら仕方ないな」

「休むのも命令か」

「三島監査官に記録されるぞ」

 そんな軽口が聞こえた。

 ユイは展望区画の入口で、その声を聞いていた。

 カイトが隣に来る。

「どうした?」

「みんな、少し楽しそうです」

「そうだな」

「いいですね」

「うん」

 ユイは小さく微笑んだ。

「こういう時間も、覚えていたいです」

「複数人承認記録にする?」

 カイトが冗談めかして言うと、ユイは少し考えた。

「今日は、記録しなくてもいいかもしれません」

「珍しいな」

「はい。聞いていればいい音もあるそうなので」

 カイトはナユとイリスの会話を思い浮かべ、少し笑った。

「それもいいな」

「はい」

 二人は、しばらく艦内の音を聞いた。

 食堂の話し声。

 遠くの整備音。

 通路の足音。

 誰かの笑い声。

 それらは、戦いの前にだけ存在する、短くて大切な日常だった。

 翌日から、ルクス・ヴァルキュリアは再び出発準備へ入る。

 帝国支配圏外縁。

 帝国前線中継要塞。

 次の戦場は近い。

 それでも、今日だけは休む。

 それぞれが、自分の好きなものを一つ見つけ、自分の疲れを少しだけ認め、誰かと短い言葉を交わす。

 そうして、ルクス・ヴァルキュリアの出発前の一日は静かに過ぎていった。

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