第193話 帰る場所と隣にいる人
太陽系の地球へ戻ってから、ルクス・ヴァルキュリアの艦内には久しぶりに少しだけ柔らかい空気が流れていた。
補給物資の搬入。
地球側工廠との連絡。
機体再編成に向けた整備計画。
監査報告の後処理。
やることは山ほどある。
それでも、戦闘中や未知領域の観測中とは違う。
窓の外には、青い地球がある。
いつでも戻れるわけではない。
まだ地上へ降りられる者も限られている。
それでも、艦内のあちこちで「帰ってきた」という言葉が聞こえた。
カイトは、展望区画の端で地球を見ていた。
何度も見た星のはずだった。
ニュースで、教科書で、宇宙港の映像で、そしてルクス・ヴァルキュリアからも。
けれど、今の地球は少し違って見える。
きれいだと思う。
懐かしいとも思う。
安心もする。
だが、それだけではない。
カイトは自分の手を見た。
戦闘服ではない。
今日は休息日として、簡易の艦内服を着ている。
それでも、もう以前の学生服を着ていた自分には戻れない気がした。
学校。
教室。
日常。
それらは確かに自分の過去にある。
けれど、今そこへ何もなかったように戻れるかと言われると、答えが出なかった。
「カイト」
後ろから声がした。
振り返ると、ユイが立っていた。
今日は試験服でも戦闘服でもない。
艦内の簡素な服を着ているだけだ。
けれど、カイトにはそれが少し新鮮に見えた。
「ユイ。もう休まなくていいのか?」
「はい。カナデから、短い散歩なら許可が出ました」
「短い散歩、か」
「はい。長い散歩は禁止です」
ユイが真面目に言うので、カイトは少し笑った。
「それはちゃんと守らないとな」
「守ります。今日は良い判断をする日ですから」
「それ、前にも言ってたな」
「はい。便利な言葉です」
そんな何でもない会話が、少しだけ心を軽くした。
ユイはカイトの隣に立ち、地球を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのはユイだった。
「帰ってきたのに、少し苦しそうです」
カイトは驚いて彼女を見た。
「分かるのか?」
「はい。少しだけ」
ユイは地球を見つめたまま答える。
「カイトは地球を見て安心していました。でも、その後、少し遠い顔をしていました」
「遠い顔って」
「うまく言えません。でも、ここにあるのに、手が届かないものを見ているみたいでした」
その言い方に、カイトは苦笑した。
「アンノウンみたいだな」
「少し違います。アンノウンは返事をしませんでした。でも、地球は返事をしていると思います。ただ、カイトが前と同じ言葉で返せなくなっているのかもしれません」
カイトは返事に詰まった。
ユイの言葉は、意外なほど深く刺さった。
地球が遠くなったのではない。
自分が、前と同じ形で地球を見られなくなった。
たぶん、それが近い。
カイトは小さく息を吐いた。
「帰ってきたのに、戻れない気がするんだ」
ユイは何も言わずに聞いていた。
「前はさ、地球って普通の日常だった。学校行って、授業受けて、帰って、明日も同じように続くと思ってた」
「はい」
「でも今は違う。戦艦に乗って、いろんな“地球”を見て、帝国のことも、パルスティアのことも、ノクス・レクイエムのことも知ってしまった」
カイトは自分の手を握る。
「地球に帰ってきたのに、前の自分の場所へ戻れない気がする。かといって、完全に軍人になったわけでもない。俺が何なのか、少し分からない」
言ってから、カイトは少し恥ずかしくなった。
ユイの方が、よほど重いものを抱えている。
帝国の記録。
複数の名前。
ノクス・リリス。
ノクス・レクイエム。
そんなユイの前で、自分の悩みを話すのは甘えているような気もした。
だが、ユイは笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ、静かに言った。
「それなら、私と同じですね」
カイトは彼女を見る。
「同じ?」
「はい」
ユイは地球を見つめる。
「私も、竜奈だった場所にそのまま戻ることはできません。帝国にいた頃の私にも戻れません。ノクス・リリスに乗っていた私にも戻れません」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「でも、戻れないから全部なくなるわけではないと、カイトが教えてくれました」
「俺が?」
「はい」
ユイはカイトを見る。
「過去を捨てなくていい、と言ってくれました。帝国にいた私も、竜奈として過ごした時間も、全部を一つにしなくていいと」
カイトは、そんなことを言った覚えはある。
だが、ユイがここまで大事に覚えているとは思っていなかった。
ユイは続ける。
「だから、今度は私が言います」
彼女の声は、静かで、けれどはっきりしていた。
「カイトも、前の自分を捨てなくていいです」
カイトは何も言えなかった。
「学校にいたカイトも、アルタイル・ノヴァに乗るカイトも、私を支えてくれるカイトも、全部を一つにしなくていいと思います」
「……でも、それだと俺は何なんだろうな」
「カイトです」
即答だった。
あまりに迷いのない答えに、カイトは思わず目を瞬かせた。
ユイは少し不思議そうに首を傾げる。
「違いますか?」
「いや、違わないけど」
「なら、それでいいと思います」
あまりに真面目な顔で言うので、カイトは小さく笑ってしまった。
「ユイって、たまにすごくまっすぐだよな」
「変ですか?」
「いや。助かる」
「なら、よかったです」
ユイも少しだけ笑った。
その表情は、ノクス・レクイエムの起動試験中に見せた決意の顔とは違う。
帝国や機体や命令層とは関係のない、普通の柔らかい顔だった。
カイトは、その表情を見て少しだけ胸が温かくなった。
ユイはふと、展望区画の休憩端末を見た。
地球側から補給された飲み物が、艦内メニューに追加されている。
その中の一つを見て、ユイが小さく反応した。
「これ……」
カイトも画面を見る。
「どうした?」
「前に飲んだものです」
「どれ?」
ユイが指したのは、地球側の市販飲料だった。
珍しいものではない。
甘い、よくある飲み物。
カイトにとっては、コンビニや自販機で見かけるようなものだった。
「竜奈だった頃、玲奈さんが買ってくれました」
ユイは少し懐かしそうに言った。
「その時、甘すぎると思いました。でも、少し嬉しかったです」
「飲む?」
カイトが聞くと、ユイは一瞬迷った。
「いいんですか?」
「いいだろ。休息日だし」
「カナデに聞いた方がいいでしょうか」
「飲み物くらいは大丈夫だと思うけど……一応、負荷確認対象にはならないんじゃないか?」
ユイは真面目に考え込んだ。
その様子が妙におかしくて、カイトは笑いをこらえた。
「じゃあ、俺が一緒に飲む。それなら怒られたら俺も怒られる」
「それは、よくない判断では?」
「たまには普通の判断でいいんだよ」
「普通の判断……」
ユイはその言葉を少し考えてから、頷いた。
「では、飲みたいです」
カイトは端末で飲み物を二つ注文した。
しばらくして、補給端末から小さな容器が出てくる。
カイトが一つをユイに渡す。
ユイは両手で受け取った。
まるで大事なものを受け取るような仕草だった。
「そんなに大事そうに持たなくても」
「久しぶりなので」
ユイは容器を開け、少しだけ飲んだ。
それから、目を細める。
「やっぱり甘いです」
「嫌い?」
「いいえ」
ユイは小さく首を横に振った。
「甘すぎます。でも、懐かしいです」
カイトも同じものを飲む。
確かに甘い。
普段なら、ただの飲み物だ。
だが、今は少し違って感じた。
地球に戻ってきたこと。
日常のかけらが、まだ自分達のそばにあること。
それを確かめるような味だった。
ユイは容器を見つめながら言った。
「私は、戦うためだけにここへ戻ってきたわけではないと思いたいです」
カイトは彼女を見た。
「うん」
「ノクス・レクイエムのことも大事です。帝国のことも、次の戦場のことも。でも、それだけだと、私はまた兵器みたいになります」
「そうだな」
「だから、こういうことも覚えていたいです」
ユイは少しだけ照れたように言った。
「甘い飲み物を飲んだこととか、地球の空を見たこととか、カイトとこうして話したこととか」
カイトは、何と返せばいいか少し迷った。
だが、素直に言うことにした。
「俺も覚えておく」
ユイが顔を上げる。
「本当ですか」
「うん。複数人承認記録だろ」
ユイは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「はい。複数人承認記録です」
二人は展望区画で、甘い飲み物を飲みながら地球を見た。
重い話をしていたはずなのに、少しだけ空気が柔らかくなっていた。
その頃、少し離れた通路から、カイルが二人の様子を見ていた。
通信確認のためにルクス側へ来ていた彼は、偶然その場を通りかかっただけだった。
声をかけるつもりはなかった。
カイトとユイが並んで地球を見ている姿を見て、カイルは小さく息を吐いた。
「帰る場所、か」
彼にとって、太陽系の地球は母港ではない。
ラスト・オーダーの帰る場所でもない。
だが、あの二人にとっては違う。
そして、もしかすると帰る場所とは、星だけを指す言葉ではないのかもしれない。
カイルは小さく笑った。
「若いな」
そこへ、カナデが通りかかった。
「何を見ているんですか?」
「いや、青春を少し」
「邪魔しないでくださいね」
「しないさ。俺はそんなに無粋じゃない」
カナデは少しだけ笑い、展望区画の中を見た。
カイトとユイは、まだ地球を見ている。
カナデは穏やかに言った。
「ユイさん、少し良い顔をしていますね」
「そうだな」
カイルは頷く。
「機体の話をしている時より、ずっといい」
「必要な時間です」
「分かってる」
カイルは腕を組む。
「帰る場所ってのは、星だけじゃないのかもな」
カナデはその言葉に少しだけ目を細めた。
「そうかもしれません」
展望区画では、カイトがぽつりと言った。
「俺さ」
「はい」
「地球に戻っても、前と同じには戻れないと思う」
ユイは静かに頷く。
「はい」
「でも、それで全部なくなるわけじゃないんだよな」
「はい」
「学校にいた俺も、戦ってる俺も、ユイの隣にいる俺も、全部、俺でいいんだよな」
ユイは真面目に頷いた。
「はい。カイトはカイトです」
「やっぱり、すごくまっすぐだな」
「駄目ですか?」
「いや。助かる」
カイトは少し笑った。
そして、少しだけ迷ってから言った。
「ユイも、ユイだよ」
ユイは彼を見る。
「竜奈だった時間も、クレスケンスって呼ばれた記録も、ノクス・リリスも、全部あっても。今ここにいるユイは、ユイだ」
ユイは目を伏せた。
けれど、それは悲しい表情ではなかった。
「はい」
小さく、でも確かに答える。
「ありがとうございます」
二人の間に沈黙が落ちた。
それは気まずい沈黙ではない。
何かが少しだけ近づいた後の、穏やかな沈黙だった。
地球は窓の外で青く輝いている。
変わらないように見えて、見る側が変わった星。
戻ってきた場所。
でも、前と同じには戻れない場所。
そして、それでも帰る場所と呼べる場所。
しばらくして、艦内放送が入った。
『各班へ通達。明日より機体再編成の詳細作業を開始。関係者は指定時刻に格納区画へ集合してください』
現実が戻ってくる。
次の戦場へ向けた準備は止まらない。
アルタイル・ノヴァ・ブレイス。
レイヴン・ハウル・リコール。
ノクス・レクイエム初期型の限定運用。
帝国本国方面へ進むための戦力整理。
やることはまだ山ほどある。
ユイは飲み物の容器を見つめ、少しだけ名残惜しそうに言った。
「もう戻った方がいいですね」
「そうだな。長い散歩は禁止だし」
「はい。今日は良い判断をする日です」
「じゃあ、戻ろうか」
二人は展望区画を出る。
通路へ出る直前、ユイが少しだけ立ち止まった。
「カイト」
「ん?」
「また、飲みたいです」
「この甘いやつ?」
「はい。甘すぎますけど」
カイトは笑った。
「じゃあ、また飲もう」
「約束ですか?」
「約束」
ユイは少しだけ嬉しそうに頷いた。
「はい」
それは、小さな約束だった。
戦争を終わらせる約束でもない。
機体を完成させる約束でもない。
帝国に勝つ約束でもない。
ただ、また一緒に甘い飲み物を飲むというだけの約束。
けれど、ユイにとってもカイトにとっても、それは確かに必要なものだった。
戦うためだけに生きるのではない。
戻るためだけに戦うのでもない。
戻った先に、こんな小さな時間があると信じるために戦う。
カイトは、そう思った。
その夜、ルクス・ヴァルキュリアは太陽系の地球を見下ろす軌道上で静かに灯りを落としていた。
格納区画では、新しい機体再編成の準備が進んでいる。
会議室では、三島が次の出発に向けた監査資料を整えている。
艦橋では、ジンが帝国本国方面への航路候補を確認している。
カイルはクロウヴェイル・ノアへ戻り、ラスト・オーダーの補給状況を確認していた。
それぞれが、次の戦場へ向けて動いている。
だが、その前に、カイトとユイは一つだけ確かめた。
帰る場所は、星だけではない。
前と同じ場所に戻れなくても、隣にいる人がいるなら、人はまた歩き出せる。
太陽系の地球は、二人にとって出発点だった。
そして今は、次へ進むために戻ってきた場所でもあった。




