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第185話 戻ってこられた場所

 隔離参照方式による初期接続試験が終わった後、ユイは医療区画へ移された。

 搬送というほど大げさなものではない。

 歩ける。

 会話もできる。

 意識もはっきりしている。

 だが、カナデは念のため、短時間の休息と反応確認を指示した。

 ユイ本人も、それを拒まなかった。

 白い照明の落とされた医療区画で、ユイはベッドに背を預けて座っていた。

 手首にはまだ、簡易センサーが付いている。

 カナデは端末を確認しながら、穏やかに言った。

「精神負荷は下降しています。回復速度も、前回より早いですね」

 ユイは少しだけ息を吐いた。

「よかったです」

「はい。ただし、今日はこれ以上、統合準備区画には入りません」

「分かっています」

 返事は素直だった。

 少し前なら、役に立たなければならないという思いから、もう一度確認したいと言っていたかもしれない。

 だが、今のユイは違った。

 止めることも、休むことも、試験の一部だと理解し始めている。

 カナデはその変化を見逃さなかった。

「ユイさん」

「はい」

「今日、自分で止めると言えましたね」

 ユイは少しだけ目を伏せた。

「はい」

「どうして止めようと思いましたか?」

 ユイはしばらく考えた。

 言葉を探す。

 以前なら、大丈夫です、とだけ答えていたかもしれない。

 でも今は、それでは足りないと分かっている。

「怖かったから、ではないです」

「はい」

「いえ、怖くはありました。でも、それだけではなくて……これ以上続けると、怖さがただの怖さじゃなくなる気がしました」

 カナデは黙って続きを待つ。

「ノクス・リリス旧データは、まだ私を探していました。命令層が、入る場所を探していました。でも、見えていました」

「見えていたから?」

「はい。見えているうちに閉じたかったんです」

 カナデは静かに頷いた。

「とても良い判断です」

 ユイは少し驚いたように顔を上げた。

「良い判断、ですか」

「はい。危険が見えているうちに止める。それは逃げではありません」

 ユイはその言葉をゆっくり受け止めた。

 危険が見えているうちに止める。

 逃げではない。

 それは、アンノウン境界から戻った時の判断にも似ていた。

 入れるかどうかではなく、戻れるかどうか。

 続けられるかどうかではなく、戻ってこられるかどうか。

 ユイは小さく頷いた。

「今日は、戻ってこられました」

「はい」

 カナデは柔らかく微笑んだ。

「それを、ちゃんと記録しておきましょう」

 医療区画の入口が開いた。

 カイトが顔を出す。

「入っても大丈夫ですか?」

 カナデが振り返る。

「短時間なら」

「ありがとうございます」

 カイトは静かに入ってきて、ベッドのそばに立った。

 ユイは少しだけ表情を緩める。

「カイト」

「お疲れ」

「はい。疲れました」

「正直でよろしい」

 カイトがそう言うと、ユイは少しだけ笑った。

 その笑い方に、カナデは少し安心したように端末を閉じた。

「私は少し外します。ただし、長話はしすぎないでください」

「はい」

「分かりました」

 二人が同時に答えると、カナデは小さく笑って医療区画の奥へ移動した。

 カイトは椅子に座った。

「今日は、ちゃんと止められたな」

「はい」

「怖かった?」

「怖かったです。でも、前よりは違いました」

「どう違った?」

 ユイは少しだけ視線を落とした。

「前は、過去を見ると中に戻される感じがしました。ノクス・リリスの操縦席とか、帝国の命令とか、そういう場所へ」

「うん」

「でも今日は、外から見ていました」

 ユイは自分の手を見る。

「過去が、操縦席の中ではなく、外に置かれていました。見えました。でも、私を動かしませんでした」

 カイトは静かに頷いた。

「それは、大きいな」

「はい」

「じゃあ、少しは怖くなくなった?」

「少しだけです」

 ユイは真面目に答えた。

「まだ怖いです。ノクス・リリス旧データも、クレスケンスの記録も、レクイエム残骸も。でも、どれか一つにされないなら、見られる気がします」

「前にも言ってたな」

「はい」

 ユイは胸元に手を当てた。

「私を一つの名前に押し込めない。過去を消さない。でも、混ぜない。それなら、少しずつ進めます」

 カイトはしばらく彼女を見ていた。

 それから、穏やかに言う。

「完成を急がなくていいと思う」

 ユイは彼を見た。

「急がなくていい?」

「ああ。ノクス・レクイエムが必要になる時は来るかもしれない。でも、急いで危ない形にするより、ユイが戻ってこられる形にした方がいい」

 ユイは小さく息を吸う。

 その言葉は、今の彼女にとって必要なものだった。

「戻ってこられる形」

「うん」

「カイトは、いつも戻る場所の話をしますね」

「最近、そういう話ばかりしてる気がするな」

「でも、嫌じゃありません」

 ユイは少しだけ笑った。

「私には、必要です」

 その頃、食堂では、試験に参加していなかった者達が自然と集まっていた。

 大きな戦闘の後ではない。

 だが、艦内には試験成功の空気が少しずつ広がっている。

 正確には、成功というより、無事に終わったことへの安堵だった。

 ミオは温かい飲み物を手に、セラの向かいに座っていた。

「ユイさん、大丈夫でしょうか」

 セラはパンをちぎりながら答える。

「大丈夫じゃないなら、カナデが止める」

「それはそうですけど」

「止められているなら、大丈夫」

 ミオは少し考えてから、微笑んだ。

「セラらしいですね」

「変?」

「いい意味で」

 セラは少しだけ目を逸らす。

「ユイは、止めると言えたんだろう」

「はい。そう聞いています」

「なら、前より強い」

 ミオはその言葉に目を細めた。

「戦う強さではなく?」

「止まる強さ」

 セラは短く言った。

「撃つより難しい時がある」

 その声は静かだった。

 自分自身にも向けているように聞こえた。

 ミオはそれを察して、深くは聞かなかった。

「そうですね。止まれるなら、また選べます」

 少し離れた席では、レイとアシュが向かい合っていた。

 会話らしい会話は少ない。

 だが、珍しく同じテーブルにいる。

 レイが先に口を開いた。

「ユイは止められたらしい」

「ああ」

 アシュは短く答えた。

「命令層反応は?」

「出た」

「危険だったか」

「危険だった。だが、見えていた」

 レイはその言葉を聞き、少しだけ目を細める。

「見えれば、斬れる」

「斬るな」

「例えだ」

 アシュはわずかに眉を寄せた。

 だが、否定はしなかった。

「見えない命令よりはましだ」

「なら、前進か」

「ああ」

 アシュは認めた。

「ただし、油断すれば戻る。ノクス・リリス旧データはまだ命令層を探している」

「では、まだ危険だな」

「だから進める」

 レイは少しだけ意外そうにアシュを見た。

「危険だから止める、ではないのか」

「危険が見えるなら、対策できる。見えないまま放置する方が危ない」

 レイは静かに頷いた。

「戦場と同じだな」

「似ている」

 二人の会話はそこで途切れた。

 だが、険悪ではなかった。

 それぞれ別の形で戦ってきた者同士の、短い確認だった。

 解析室では、ナユとイリスが試験記録を見ていた。

 アンノウン由来の非固定保存方式。

 ユイ本人意思認証。

 過去記録の隔離参照。

 それらは、直接的には違う技術だ。

 だが、根本にある考え方は近い。

 ナユは画面を見ながら言った。

「アンノウンの記録と、ユイさんの過去記録は違います。でも、扱い方は少し似ていますね」

 イリスが頷く。

「はい。どちらも、一つに統合しすぎると危険です」

「消さずに、混ぜずに、並べる」

「はい」

 イリスは記録を整理しながら続けた。

「ただし、並べるだけでは不十分です。必要な時に参照し、危険なら閉じる。その手順が必要です」

 ナユは少しだけ笑った。

「記録にも、扉が必要なんですね」

「はい」

 イリスは真面目に答える。

「開ける条件と、閉じる条件が必要です」

 その言葉は、ナユにはどこか優しく聞こえた。

 アンノウンの音も、無理に聞かなくていい。

 記録も、無理に一つにしなくていい。

 必要な距離を保つ。

 それは、彼女自身にも必要なことだった。

 会議室の一角では、三島が監査記録をまとめていた。

 今日の試験は成功。

 だが、成功だけを記録するわけではない。

 ユイの負荷。

 命令層反応。

 中断判断。

 試験後の回復速度。

 周辺人員の疲労。

 カナデ、リクト、リン、アシュ、グリッド、イリスの作業負荷。

 それらも全て記録対象だった。

 そこへ、グリッドが紙コップを二つ持ってやって来た。

「まだやってるのか」

 三島は顔を上げる。

「記録中です」

「休息も記録対象じゃなかったか?」

「はい」

「なら自分も休め」

 三島は少しだけ黙った。

 グリッドは紙コップを一つ置く。

「整備班からの差し入れだ」

「ありがとうございます」

 三島はそれを受け取った。

 温かい飲み物だった。

 グリッドは椅子に座り、会議室の画面を見た。

「今日の試験、どう見る」

「成功です。ただし、継続条件付きです」

「監査官らしい答えだな」

「実際、そうです」

 三島は端末を見ながら言った。

「ユイさんは止める判断ができた。命令層反応も前回より早く検知できた。主制御への混入もなかった。ですが、命令層反応自体は消えていません」

「まあ、そう簡単には消えないだろうな」

「だからこそ、休息も必要です」

 三島は画面に新しい項目を追加した。

 試験後休息。

 最低十二時間。

 統合準備区画への再入室禁止。

 ナユの感覚確認禁止。

 リクト・リン・カナデ・アシュの追加解析は、交代制。

 グリッドはそれを見て、少し笑った。

「俺も入ってるか?」

「整備班全体が入っています」

「徹底してるな」

「記録は責めるためだけのものではありません」

 三島は静かに言った。

「無理をした人を、後から見落とさないためでもあります」

 グリッドはしばらく彼女を見た。

「それ、艦内にだいぶ浸透してきたな」

「そうだと良いのですが」

「少なくとも、俺は使ってる。休めと言う理由に便利だ」

 三島は少しだけ目を細めた。

「便利、ですか」

「悪い意味じゃない。止める理由があるのは助かる」

 三島は端末に視線を戻した。

「なら、記録した意味があります」

 医療区画では、カナデが再びユイの様子を確認していた。

 カイトは少し離れた椅子に座っている。

 ユイの表情は、試験直後より落ち着いていた。

「精神負荷はさらに下降しています」

 カナデが言う。

「今日はこのまま休んでください。明日も統合準備区画には入りません」

 ユイは素直に頷く。

「はい」

「不満はありませんか?」

「少しあります」

 カナデが目を向ける。

 ユイは正直に続けた。

「進めるなら、続けたい気持ちもあります。でも、今は休んだ方がいいと思います」

「とても良い判断です」

 ユイは少し笑った。

「今日は良い判断が多いですね」

「本当にそうですから」

 カナデは端末を閉じた。

「それと、ユイさん。今日の試験で、過去記録を見ても戻ってこられたことは、大きな成果です」

 ユイは静かに頷いた。

「はい」

「でも、戻ってこられたからといって、毎回同じようにできるとは限りません」

「分かっています」

「だから、焦らないでください」

 ユイは少しだけ目を伏せた。

「カイトにも言われました」

「そうですか」

「完成を急がなくていいって」

 カナデは微笑む。

「良いことを言いましたね」

 カイトは少し照れたように目を逸らした。

「そんな大したことは言ってません」

「大事なことです」

 カナデは穏やかに言った。

「機体の完成より、ユイさんが戻ってこられることが先です」

 ユイはその言葉を、静かに受け止めた。

 戻ってこられることが先。

 それは、ノクス・レクイエムにも、アンノウンにも、ルクスの艦にも、全てに共通する言葉だった。

 その夜、艦内時間が遅くなる頃、カイトとユイは短い散歩を許可された。

 医療区画から展望区画まで。

 それ以上は行かない。

 カナデからの条件付きだった。

 展望区画には、柔らかな照明が灯っている。

 外には星が流れていた。

 アンノウン境界はもう遠い。

 だが、そこで得た考え方は、まだ艦内に残っている。

 ユイは窓の外を見ながら言った。

「今日は、みんなに支えられている感じがしました」

「実際、支えてたと思う」

「カナデは負荷を見てくれて、リクトは流れを作って、アシュは危ないところを止めて、リンは命令層を見つけて、三島さんは記録して、グリッドは物理的に止められるようにしてくれて」

「俺は?」

 カイトが聞くと、ユイは少しだけ考えた。

「戻る場所です」

 カイトは言葉に詰まった。

 ユイは続ける。

「試験中は、カイトが何かをしているわけではありません。でも、見ていると分かると、戻る場所がある感じがします」

「それは……責任重大だな」

「はい」

 ユイは少しだけ笑った。

「だから、ちゃんと見ていてください」

 カイトは真面目に頷いた。

「分かった。ちゃんと見る」

「お願いします」

 二人は並んで星を見た。

 ノクス・レクイエムは、まだ完成していない。

 だが、今日の試験で一つ分かった。

 ユイは、過去を見ても戻ってこられる。

 ノクス・リリス旧データは危険なままだ。

 命令層も消えていない。

 でも、見える場所に隔離できる。

 危険なら閉じられる。

 そして、閉じた後に戻る場所がある。

 それは、完成よりも先に必要なものだった。

 艦内放送が静かに流れる。

『本日の統合準備区画関連作業は終了。関係各班は休息を優先してください。繰り返します。休息を優先してください』

 ジンの声が続いた。

『進むために、今日は休め』

 カイトは苦笑した。

「艦長も休めって」

「はい。戻りましょう」

「素直だな」

「今日は良い判断をする日なので」

 ユイが真面目な顔で言うものだから、カイトは思わず笑った。

 ユイも少しだけ笑う。

 重い試験の後でも、こうして笑える。

 それもまた、戻ってこられた証拠だった。

 ルクス・ヴァルキュリアは、静かに夜の時間へ入っていく。

 整備区画の灯りは少し落とされ、解析室の人員は交代制へ移り、医療区画ではユイの回復記録が穏やかに下降していた。

 ノクス・レクイエムは、まだ遠い。

 だが、その遠さは以前ほど怖くない。

 過去を消さず、混ぜず、見える場所に置く。

 危険なら閉じる。

 そして、戻ってこられる場所を作る。

 その意味を、ユイだけでなく、艦内の多くの者が少しずつ理解し始めていた。

 試験は終わった。

 次へ進むために、彼らは一度休むことを選んだ。

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